宝樹
「……う……ゅ……宗!」
ぼくを呼ぶ誰かの声で目を覚ます。ひんやりとした地面にうつぶせに倒れているらしい。ちょっと顔を動かすと目に入ったのは浅葱色の袴。琳だ。ぼくは体を起こそうと手に力を入れたけど、左肩に鋭い痛みが走ってまた倒れ込んでしまう。
「すぐ手当てするから宗はじっとしてて!」
琳はそう言うと鉢巻きをほどき、三角巾を頭から外して四角に折りたたむとぼくの背中に当てる。そのまま鉢巻きを手に取った彼はぼくの傷をもう一度見て、自分の法被を脱いで小さく折りたたみだした。どうする気なんだろう。ぼくがじっとしたまま動かないでいると琳はたたんだ法被を三角巾の上に置いて、鉢巻きでそれらを固定した。
もしかして止血をしようとしてくれているのかな。ぎゅっと固く縛られた鉢巻きが法被を押さえ込んでちょっと痛い。それでも傷が放つ痛みの方がよほど痛いからどうってことは無いけど。……多分。
ぼくはお礼でも言おうと琳を見上げる。ぎりぎり提灯の灯りが届いているからなんとなく見える。琳の耳はぴくぴくと忙しなく動いていた。生ぬるい風は相変わらずぼくの頬を撫でているけど、この森ってここまで生臭かったっけ。まるで腐った肉みたいな匂いがぼくたちに近づいているみたいだ。
琳に抱き起こされたぼくは風の吹いてくる方をじっと見つめる。そこから肌をざわめかせる気配とカサカサと地を這う何かの音が聞こえてきた。闇から覗く紅い目。それは少しずつぼくたちに近づいてくる。琳も気づいているみたいだけど、恐怖からか尻尾がカタカタと小さく震えていた。
『我ラニヨコセ。ソノ御霊ヲ』
紅い目の一つが低くしわがれた声で言う。にゅっと黒く靄で包まれた細い腕もこちらに這い出してきた。地面からも青白い腕が次々と生えてくる。あの目って喋るんだ。ってそうじゃない。気が付けば周りを手に囲まれて、そいつらがぼくたちにこっちにおいでと手招きしている。琳はと言えば恐怖で口元が引き締まっていた。
この状況だとぼくがどうにかしないといけない。だけどずきずきと痛む肩のせいで上手く考えがまとまらない。ただ闇に目をこらすしか出来ないぼくたちにはこいつらから逃げることは出来ないのだろうか。
そうしていると手がさっと脇に退き、そこから暗紫色の半着に紺の袴を着た少年が現れる。彼の白い羽織の裾が風で揺れていた。足元に目をこらすと紅い鼻緒の下駄。ぼくが気を失う直前に見た奴だ。
「コウタ、何しに来たの。なんで宗を襲ったの」
琳が震える声で問う。どうやらぼくを襲ったのはコウタらしい。目の前にいる少年は何も答えず、ただ意地の悪い笑みを浮かべているだけ。まだ何か企んでいるのだろうか。
身構えるぼくたちをよそにコウタはすたすたと近付いてくる。逃げなきゃ。そう思うのに体が動かない。まるで足首を冷たい手で捕まれているかのようだ。
早く。
気が急いて無理に体を起こそうとしたぼくを何かが引き止めた。足首に掴まれているかのような感覚に地面に引きずり込まれる感覚。まさか。ぼくは恐る恐る視線を下ろす。
──恐ろしく冷たい青白い手がぼくの足首を掴んでいた。
心臓がドクンと跳ね上がり、早鐘を打ち出す。やばい。どんどん手に体温を奪われていく。それに追い打ちをかけるように少しずつぼくの足が地面に潜り込もうとしていた。
「宗に触らないで……!」
ぐいっと手を琳が引っ張る。これでもかというほどのけぞって。それに反発して手もぼくの足首を強く握りしめた。ギリギリと力がこもっていく。握りつぶされるんじゃないかと思うくらい痛い。
いよいよぼくの足首が折れるんじゃないかと思った時、手と格闘していた琳が後ろに倒れ込んだ。それと同時に手もぼくから離れる。地面にどさりと転がった手はずぶずぶと地面に潜っていった。なんだか気味が悪い。
それをぼんやりと見ていたぼくは誰かに押し倒された感覚で我に返る。同時に耳に入って来たのは何かが斬れる音と液体が吹きだす音。一体何が起きたんだろう。目の前が暗くてよく分からない。それでもじっと闇に目を凝らしていると、さらりとした何かが頬に触れた。
「ひっ」
「あ、ごめん! 驚かすつもりはなかったんだ」
「くははっ、やっぱだっせぇ。天狐野郎の袖に触れただけで……くははっ」
驚いて後ずさったぼくにかかる二つの声。コウタに至っては腹を抱えて笑っている。でも、ぼくが後ずさったおかげで琳の姿を見ることが出来た。安心した、と胸をなでおろせたらどんなに良かっただろう。
琳の肩からは血が滲み、真っ白な尻尾も所々紅く染まっている。額にも脂汗が浮いていた。ぼくよりも痛そう。その後ろに立つコウタはどこにも汚れが見られない。琳のこの姿を見て楽しんでいるようだ。
「言っただろ。オレは欲しいもんはとことん奪うって」
「だったらぼくの変化を奪えばいいじゃないか! 宗には手を出さないでよ」
「おめぇの変化なんざ奪っても意味ねぇんだよ。落ちこぼれの天狐から奪うもんは何にも残っちゃいねぇんだよ」
キッとコウタを睨みつけ、柄にもなく声を荒げる琳。此方に向けられた背中の傷が痛々しい。衣の背にいくつもの斬れた痕。そこから血がにじみ出している。それだけでも十分すぎるほどなのに、コウタの言葉が耳にこびりついた。琳は彼の言う通り落ちこぼれだ。唯一人並みにできる術が変化。それさえもなくなったら琳はただの白狐になる。
……《奪い人》に立ち向かうってこういうことだったんだ。ぼくは悔しさが胸に押し寄せて来るのを感じた。多分、琳はずっと一人で闘って来たんだろう。それなのに気付いてやれなかった。これじゃ友達失格だよ。俯いて涙をこらえるぼくをよそに風の音だけ残してコウタが消えた。
どうやら立ち去ったらしい。これでホッと一息が付ける。そう思ったぼくの耳に再び届く生々しい音。琳が息を吸い込む。頬のすぐそばを鋭い風が駆け抜けた途端、ぼくの法被の右袖がピッと破けた。風に当たっていないのに。
その音が耳に入ったのか琳が急いで顔を上げる。ぼくの法被に目を遣った彼は小さな声で逃げて、と告げた。緊迫した空気をまとうその言葉にぼくは首を横に振る。こんなに傷だらけのしかも黒い手が囲む中で逃げられるわけがない。
琳を守れるのはぼくしかいないんだ。
「へぇ、肝の据わったガキもいたもんだな」
コウタはぽつりと呟き、右手を振り下ろした。それと同時に冷たく鋭い風がぼくたちを襲ってくる。ぼくは咄嗟に琳を自分の後ろに隠すように押し込んだ。彼が倒れ込んだ音とぼくが風に斬られる音が重なる。胸元にさっと焼けつくような痛みが走ったかと思うと、紅い血潮が吹きだした。
首元も少し切れたのかもしれない。そんなことを考えながらぼくは地面に仰向けに倒れる。琳が下敷きになってしまったけど、今は体を動かすことが出来ない。段々とぼやけていき、しまいには闇に覆われるぼくの視界。意識も遠のいて――……やがて闇の中に沈んでいった。
*
「宗ー!」
「おーい、どこだー! 返事をしろー!」
鎮守の森に村人の声が響き渡る。彼らは懐中電灯であたりを照らして懸命に宗を探していた。彼が行方不明になっていることに気が付いてから既に30分経っている。一刻も早く探し出さないと。その思いは全員一緒だ。
もし、御狐様に呼ばれていたら。そう頭をよぎる。仮にそうなっていたとしても、彼らには受け入れるより他にはない。それが宝樹祭の伝統だから。
研助は宗を必死になって探す初江の心情を思うとやるせなくなった。いくら伝統だと言ってもまた彼女の身内が御狐様に呼ばれているのかもしれない。そう考えると何故と彼を問いただしたくなる。研助自身も数十年前に自分の叔父を御狐様に呼ばれていた。
この村で身内からただの一度も御狐様に呼ばれたことがない家もある。むしろ呼ばれた家の方が少ないくらいだ。御狐様に呼ばれた。それだけで警察沙汰にはほとんどならない。いや、正確に言えば実況見分だけで終わってしまう。
はぁ、と溜め息を吐きそうになった研助は寸でのところで押しとどめる。生臭い匂いが鼻をくすぐっていた。地面を懐中電灯で照らすといくつもの穴が開いている。昨日までここには穴は開いていなかったはずだ。不審に思った研助はその穴が続く方角に懐中電灯を向ける。
刃で斬られたような痕がついている木々。あまりにも不自然だ。祭りの間中、風なんか吹いていない。眉をひそめた研助は慎重に歩を進める。徐々に濃くなる生臭い匂い。彼がそれが血の匂いだと理解するまで数秒かかった。
「この近くで猟でもしていたのか……? いや、祭りの期間は禁止になっていたはずだ。おかしいな」
頭をひねる研助はしゃがみ込んで、地面の血痕に指先をつけた。まだ乾ききっていない。心臓が早鐘を打ちだす。震えそうになる手を必死に押さえ込み、慎重に懐中電灯で少しずつ前を照らした。その間にも血痕は続いている。
ごくり。生唾を飲み込んだ研助は懐中電灯が照らした光景に絶句した。人が倒れている。足だけが見えるそれに彼の心臓が縮んだ気がした。何とか息を吸い込み、人の全身を懐中電灯で照らす。
長身の少年がそこに仰向けで倒れていた。ねじり鉢巻きに浅葱色の法被を着て。胸元には一筋の切り傷。まるで鎌か何かで斬られたような傷に研助は呆然とした。こんなに斬られていたらまず助かる見込みはない。だが血痕から見ても全てが彼のものではないことが研助は感じていた。
他にも被害者がいるはずだ。そう考え少年の周りをくまなく照らしたが、何かを引きずった跡しかない。研助は倒れている少年を再び照らす。彼は信じたくなかった。目の前に倒れている少年が偽物だと信じたかった。
だけどそれは難しいこと。少年は自分もよく知っている幼馴染みの孫、宗だ。見間違えるはずがない。ふらつきそうになる足を抑え、研助は声を張り上げる。
「おーい、宗がいたぞー!」
何度か声を張り上げ、森に散らばる村人がちらほらと集まってくる。皆一様に宗の姿を見て絶句した。初江は彼を見るやよろよろとふらつきながら近づく。宗のすぐそばに座り込んだ彼女の瞳からはぽろぽろと涙がこぼれだした。
*
遠くから聞こえる女性の咽び泣く声にコウタはほくそ笑む。これでまたあいつに悲しみをもたらせた。それが嬉しいのだ。
彼は右手に光る球体を持ち、左手で琳を引きずりながら宝樹に近づく。自分よりも背の高い彼を引きずれているのも別の誰かから奪った“怪力”の能力のおかげだ。それが無ければとても一人では運べない。コウタはその便利な能力を出力を調整して必要な時に使っていた。
ずるずると琳を引きずっていた彼はほのかに黄金色の光を地面に落とす樹を見上げる。口元を三日月に歪め、グッと腕に力を込めて琳を放り投げた。彼は宝樹の正面に横向きに転がる。その白い狩衣は血にまみれ、顔面も青白い。
「変化じゃねぇけどおめぇから欲しいもんは奪い取ったぜ」
コウタは琳を一瞥した。そしてゆっくりと宝樹に近づき、大きく張り伸ばされた枝の下に立つ。コウタは右手を顔のそばまで持って来て球体に息を吹きかけた。その途端、ふわりと浮いた球体はまだ光っていない葉に吸い寄せられるように葉に溶け込む。
球体を得て葉は自らほのかな金色の光を放つ。それを見たコウタは喉を鳴らして嗤った。
「これで50個目の魂か。宝樹はホント魂を留めるのに便利だぜ」
宝樹の葉に閉じ込められた魂は特別な術でも使わない限り、解放されることは無い。とはいえ、この宝樹の葉の全てに魂が入っている訳でもなかった。ただ魂を封じ込める空間を宝樹が持っているだけ。それをコウタが利用したのだ。
彼はひとしきり嗤って宝樹の幹に右手を添えると、ギリと幹の皮がはがれそうなほど指を立てる。その瞳にはさっきまでの悪戯小僧の色はない。瞳に宿すのはどす黒い憎悪。宝樹を睨みつけるコウタは奥歯を噛み締め、低い声で呟いた。
「どうよ、孫を殺された気分はよぉ。けどな、まだ終わっちゃいねぇんだぜ、初江」
此処までお付き合いいただき誠にありがとうございます。
本作品は作者がはじめてホラーと言うジャンルに挑んだものです。なので、ちゃんとホラーになっているのか正直不安です。
なにぶん初めてでおまけに作者自身がホラーから逃げ続けて来たものなので、なおさら不安になるのかもしれません。
それでも全5話と言う短い物語ではありますが、書ききることが出来たのはひとえに読んでくださった皆様のおかげです。
誠にありがとうございます。
さて、この話で出て来た宝樹。この樹はなかなかのいわくつきの樹であります。
おまけに《宝樹の守り人》やら《奪い人》やらなんのこっちゃ。と思った方もおられると思います。
御狐様の正体も結局明かされていませんし。
なので、そこら辺の話をいつの日にか書けたらいいなと思っております。
最後に。コウタに放り投げられていた琳。彼の生死は読者の皆様のご想像にお任せいたします。