樹上ノ少年
「ぼく、祭に出るよ」
琳はそう告げるとあっという間に森に駆けて行く。何度も躓きそうになるその背中にぼくははらはらしながら見守るしか出来なかった。それでも良い返事が聞けたことは嬉しい。琳が行く気になった。それだけで勇気百倍だ。
くるりと振り向くとナツばぁをはじめとした講堂に来ていた人たちがぼくを見ている。その奥にいた琳の背を目で追う人もいた。“森の住人”と話したことがそれほど珍しいのだろう。いや、そもそも人里に滅多に来ない琳自身が現実に存在するとは思えなかったんだろう。そうじゃなきゃ、こんな風に幽霊でも見た顔にはならない。
やっぱり琳はもう少し人里に来るべきなんじゃないか。そう思うと同時に森に隠れ住んだままの方が良いんじゃないかという気もする。妖なんてお伽噺の中だけに存在していると思っている人がほとんどだろうし。それに琳も懐いた人にしか自分の本当の姿を見せない。
ぼくが逡巡していると瀬戸さんが近づいて来た。彼女はきょろきょろと目を泳がせている。何かもの言いたげなその口元にぼくは何とも言えない思いになった。胸元で堅く握りしめた両手に視線を落とした彼女は落ち着いた声で言葉を紡ぐ。
「さっきの子って……昔話に出て来る“森の住人”なの?」
「そうだよ」
ぼくが肯定した途端、瀬戸さんがその場に座り込んだ。風に揺れる彼女の黒髪がその背に舞いおりる。床に両手をついて大きな嘆息をこぼす瀬戸さんにぼくは釘づけになった。もしかして琳が怖かったのだろうか。瀬戸さんも女の子だし、お化け屋敷が苦手というのなら納得できる。少なくともぼくの周りの女の子はお化けは怖い、嫌だと甲高い声で言っていた。
「……よかったぁ。これで賭けに勝った」
ぽつりと瀬戸さんが漏らす。賭け? 賭けって何を賭けていたんだろう。少しの間考え込んだぼくは気が付いた。“森の住人”。彼女の口調は彼が本当にいるのかどうかを確かめるかのようだった。つまり、琳が現実に存在しているか、否かで賭けていたんだろう。賭けに負けたら何が待っていたのかは分からないけど、そんなくだらないことをするくらいならもっとましなことをして欲しい。
せっかく琳が頑張って森から離れた公民館までやって来たというのに。どうして瀬戸さんは彼を賭けの材料にしたんだろう。女の子って本当に分からない。ぼくは誰にも気づかれないように小さく溜め息を吐いた。
*
翌日。太陽が山の向こうに沈む黄昏時に宝樹祭が始まった。既に琳が住む森――鎮守の森に向かって提灯が垂れ下がっている。鎮守の森に少し入った所にある宝樹にも提灯が伸びているはずだ。この祭りは啄木鳥村の土地神様を乗せた神輿が宝樹まで練り歩いて、五穀豊穣を願うもの。今年の収穫を祝い、来年の豊作を祈る祭り。それなのに人が死ぬなんておかしい。
ねじり鉢巻きに浅葱の法被を羽織ったぼくはもう何度目か分からない溜め息を吐く。とうとうこの日が来てしまった。白いティシャツにジーパン、その上に法被という出で立ちからもぼくのやる気のなさが溢れている気がする。本来ならそれなりの格好をするものなんだけど、飛び入り参加OKの踊り子はねじり鉢巻きに法被を羽織るだけでも良い。だからオババに反発してこの格好なわけ。凄く怒っていたけどせめてもの抵抗だ。
「今日は百香と智博が奢るんだからね! あそこのクレープ人気だから早く行こう!」
「もうー。なんで結以が“森の住人”がいるって証明するかなぁ」
「ホント。いなかったら結以が奢るはずだったのに」
「運が味方してくれたの! 雪村に感謝しなくちゃ」
広場ではしゃぐ女の子たち。涼しそうな青に紫の大輪の花を咲かせた浴衣を着た瀬戸さんは嬉しそうに飛び跳ねている。彼女の友人で同じクラスメートの伊藤由香と響智博は不服そうだ。そう言えば響さんは最初名前を見た時に“ともひろ”って読んでしまって怒られたっけ。
因みに瀬戸さんが言った雪村とはぼくのこと。地味で大人しい割には“森の住人”と知り合いだったんだよ、と嬉しそうに言う彼女にちょっと苛立つ。地味で大人しいって馬鹿にしているようにしか聞こえない。確かに達也君みたいにイケメンではないけど、琳みたいに人の影に隠れたりしない。
ぼくが眉根を寄せて睨むように彼女たちを見ていたせいか、瀬戸さんたちはそそくさと屋台の方に行ってしまった。言いたいことがあったのに。ぼくは溜め息を吐いて神輿の方に行く。既に踊り子たちも続々と集まって列を作っていた。研助じぃちゃんも踊り子を呼び寄せている。
ぼくは仕方なしに神輿の左脇の列の一番最後に並んだ。あれ、ちょっと待って。講堂には瀬戸さんがいたはず。でも彼女は友人とクレープを買いに行ってしまった。まさか踊り子の仕事を忘れているんじゃ。ぼくがどうしようかと一人悩んでいたら、向こうから何かが走って来た。
可愛らしい水色の花の髪飾りを付け、ねじり鉢巻きを締めて法被を小脇に抱える少女。瀬戸さんだ。口にはクレープを咥えている。もう食べ終わるという時に気が付いたのだろう。その後ろでは伊藤さんと響さんが大きく手を振って見送っていた。
「ごめんなさい! もう少しで忘れるところでした!」
「何やってんだ、結以……。もう始まるぞ」
素直に謝る瀬戸さんに達也君は呆れている。彼女はてへとはにかむように小さく舌を出した。クレープを食べ終えていなかったら落ちていたことだろう。それを確認したのか神輿が囃子太鼓の音に合わせて動き出した。瀬戸さんは慌てて法被を羽織り、小脇で踊りだす。もちろん、ぼくも。
ゆっくりと盆踊りの列を引き連れた神輿は鎮守の森に向かう。琳は自分から出ると言ったくせにまだ現れない。怖気ついてしまったのだろうか。あいつがいないとしきたりを破ることになるのに。ぼくは琳の姿を探そうと目だけであたりを見渡す。本当は体ごと動かしたいけどそれだとバレてしまうからそれは出来ない。
右、左、と向きを違えずに進む列は鎮守の森に徐々に近づいていく。琳早く来い。そう念じながら踊る。
すると前の方で神輿がちょっと傾いて元の体勢に戻った。一体何が起きたんだろう。ぼくが目を凝らして見ると鎮守の森のすぐ外側に張り出した木の枝に座る人影と研助じぃちゃんが言い争いをしていた。
「くははっ、こーんなのに引っかかってやんの。だっせぇ」
「どこのガキか知らんが、神輿の通り道にこんな罰当たりをする輩はいねぇぞ!」
「んじゃ、一番乗りー!」
けらけらと笑いながら言う少年に研助じぃちゃんは怒りが爆発しそうだ。グッと怒りを堪えた彼は少年を一瞥すると神輿について行く。神輿を止めるわけにも踊り子の動きを止めるわけにもいかない。だけどぼくは一瞬足が止まってしまった。研助じぃちゃんは気が付いていないのかもしれないけど、あの少年は琳と同じ人ならざる者だ。天狐かは分からないけど、腰から一本の尻尾が生えている。
少年は神輿を見送りながら尻尾をゆらりゆらりと揺らしている。犬だったら喜んでいる合図なんだけど、彼の場合はどうなんだろうか。段々と短くなっていく彼との距離にぼくは生唾を飲み込んだ。
舞いながら彼を見上げると頭の上に黄金色の狐の耳。パッと見だと黄金色の髪と区別がつかない。だけど尻尾が揺れていたからコスプレの小道具ではないだろう。じっと彼を見ていると目が合った。にやりと弧を描く口に黒い何かを宿した琥珀色の瞳。どこか恐ろしさを感じる。琳には一度も感じたことがないのに。
ぼくは彼から目を離して踊り子の役目に集中しようとした。心臓がバクバクと早鐘を打っている。あの目で射すくめられたらきっとひとたまりもない。あの顔で悪戯をしたのだろうか。だとしたらもっと怖い。何を考えているのかまるで分らない。
「雪村、大丈夫?」
「あ、うん! 大丈夫」
瀬戸さんがぼくを心配そうに見ている。もしかしたら顔が青ざめていたのかもしれない。それも仕方がないことだと思う。なにせあの少年の瞳の次は背後からの鋭い視線。まるで見張られている気分だ。おまけに時折森の木の影から何かが顔を出してこちらを伺っている気配を感じる。
頼むから琳であってほしい。未だに現れない友人の顔が目に浮かぶ。天狐の琳ならこの状況を何とかしてくれるはずだ。何とかの術、とか持っていそうだし。
ぼくは瀬戸さんに顔を見られないように目だけで必死に琳を探した。がさがさとすぐ脇にある茂みが揺れている。もしかして御狐様が来たのかも。そう思うと体の芯が冷えていく気がした。
「ふぎゃっ!」
そんな情けない声を出して森から飛び出してこけたのは琳。思わずぼくの肩が跳ねる。しっかり法被を羽織ってねじり鉢巻きをしているけど、三角巾にそれは似合わない。おかげで今まで感じていた恐怖は吹き飛んだけれど。
もう大丈夫。そんな気がする。琳が来たということはちゃんとしきたりが守られたということなんだから。ふるふると頭を振って泣きそうな顔をしているのは別にしても、彼ならこの状況をどうにかしてくれるはず。ぼくは心の中に安堵が広がっていくのを感じた。
「遅くなってごめん」
そう謝って来る琳にぼくは微笑みかける。頭一つ分くらい小さい彼は心底不安そうだ。見た目は同い年なのにどうしてこんなにひ弱に見えるのだろう。無事に踊れるかどうかを心配しているのかもしれない。それでもぼくにとって来てくれただけでもう十分。これ以上彼に求めるのは少し違うのかもしれない。
今は神輿が宝樹に着くまで踊り続けよう。ぼくは心の中でそう決めた。