始マリノ唄 弐
琳と別れを告げて家に戻ったぼくをオババは温かく迎えてくれた。ちょうど晩御飯が出来た頃だったらしい。時間は午後6時。まだ父さんと母さんは帰って来ていなかった。きっと今日も残業なんだろう。いつになったら一緒に夕飯を囲めるんだろう。
ぼくは目の前に置かれていく夕飯を見ながらそんなことを思う。弟は友達の家に泊まりに行っているし、姉は部活の合宿で村にはいない。つまり、オババとぼくで食卓を囲んでいる。
その影響なのか普段よりも少しだけ質素な料理が並んでいた。味噌汁にご飯、これは定番だ。あとは川魚のつみれを焼いたもの。大根おろしをポン酢で和えたものをその上にかけている。なんで焼いたのかぼくには分からない。多分、オババの創作料理なんだろう。その隣にあるのはニンジンやピーマン、もやし、豚肉を炒めたもの。ちょっと彩りを添えました。その程度の量しかない。そしてぼくの右手前にあるのが焼き鮭だ。
「森のお友達は元気だったかい」
「え、何で知ってるの!?」
「そりゃ、宗の顔を見れば一目瞭然さ」
オババはにこりと微笑んだ。何でも見通しているかのようなオババには時折ひやりとさせられる。今だって言ってもいないのに琳と会っていたことを当てられてしまった。ぼくはそんなに分かりやすいのかな。琳のことだってほとんど話していない。なのに知っているなんて。
ぼくはオババに返事をする前に味噌汁をすすった。どう返事をしたらいいのか分からない。本当はぼくじゃなくて琳が出るべきだってことも言っていないし、足繁く通っているなんて言いたくもない。それが伝わったのか、オババは踏み込んで聞こうとはしなかった。
こういうところは助かる。焼き鮭を口に運びながらぼくはそう思った。ただ、聞かないだけで聞きたいという気持ちまでは隠しきれていない。目がらんらんと輝き興味を持っていることがバレバレだ。こうなったら何か別の話題で気をそらすしかないだろう。
「ねぇ、オババ。宝樹祭の準備ってどうなってる?」
「そうさね、明日聞いてみたらどうだい。けん兄ちゃんなら答えてくれると思うよ」
けん兄ちゃんというのはオババの幼馴染の研助じぃちゃんのこと。なんでも先の戦争が終わった年に生まれたらしい。それを前に自慢げに話していた。自分の生まれ年が分からなくなることはないからって。オババがそれを笑っていたことを覚えている。因みにオババは研助じぃちゃんより4歳下だ。
その研助じぃちゃんがなんでここで出て来るのか。ぼくにはそれがよく分かる。彼が今年の宝樹祭を仕切る頭領の役を担っていた。だから祭りのことは大抵、研助じぃちゃんに聞けばいい。そういうことだ。
*
翌日、ぼくは夏休みの課題に一区切りをつけると研助じぃちゃんの畑に向かった。頭上から照り付ける太陽に蝉の大合唱。せめて涼しい風が欲しい。地面からも熱気が上がってくる。それを冷ますように、ぼくの家の3軒右隣の瀬戸さんのお母さんが自宅の玄関前に水を撒いていた。柄杓からこぼれる水が太陽の光を反射してキラキラと輝いている。ここから研助じぃちゃんの畑に行くにはもう2軒進んで西に曲がり、3軒くらい進んだら今度は東に曲がる。そのまま進めば研助じぃちゃんの畑だ。
畑に近づいていくと麦わら帽子に赤いティシャツを着た老人の姿が見えてくる。目尻に刻まれた笑い皺。鋭いけれどどこか優しい真面目な瞳。日に焼けた肌。平均よりも少し小さいその背中の持ち主こそが研助じぃちゃんだ。彼はぼくの姿に気付いたのか、腰を拳で軽く叩きながら背を伸ばす。
「どうした宗坊」
「明日の宝樹祭の準備ってどうなってるかなって思ってさ」
「あー、今は神輿の総仕上げに取り掛かっている所だ。オメェは準備できているのか? はっちゃんが心配してたぞ」
「オババったら……。ぼくは平気。踊りもちゃんと覚えたし」
「そりゃ頼もしいじゃねぇか。どれ、後で見てやっから公民館に行っとけ」
研助じぃちゃんはニカッと照り付ける太陽のように笑って農作業に戻る。他にもやることが出来たからさっさと終わらせよう、そんな風にはしゃぐ子供のようにぼくの目に映った。彼は生来の祭り好きなのかもしれない。そんなことを思いながら公民館に向かってぼくは歩き出した。
途中、眩しい太陽から逃れるように左腕で日陰を作りながら歩いていたぼくの横を瀬戸さんのお兄さん――達也君が通り過ぎる。額にねじり鉢巻きをして、颯爽と自転車をこぐ姿はぼくから見てもかっこいい。彼も祭に出るみたいだけど怖くないのだろうか。もっとも、ぼくの知る限り彼は肝試しも平気で終えてしまう人だから怖くないんだろう。
琳さえ一緒に出てくれれば。そう願うぼくは弱虫なのかもしれない。宝樹祭が近づいて来るごとにそれが強くなっている気がする。だから胸騒ぎもするんだろう。
ぼくは頭を振って祭りのことを考えないようにした。これ以上考えてしまったらぼく自身が呑み込まれそうな気がする。それだけは何としてでも避けたい。
「あら! 初江ちゃんの所の宗ちゃんじゃない。ちょうどよかったわ、最後の調整をしましょ」
公民館に着いた途端、中から甲高い声がぼくを呼んだ。見れば黒髪を後ろで結いあげた年の割に若々しい老女。オババの友人のナツばぁだ。年は62歳だって彼女が自分で言っていた。彼女は今年の祭りの踊りの師匠を担当している。ぼくが今年するのは神輿の行列の脇で踊る踊り子だ。もっともぼくぐらいの年ならそれくらいしかできないのだけれど。
ナツばぁはちょいちょいとぼくを手招きしている。ぼくは靴を脱いで彼女について行った。行く先は講堂。そこで踊りの稽古を行っている。行ったところでどうにかなるのか、ぼくには分からない。だって振り付けはもう覚えているし。それでもナツばぁが最後の調整をしようと言うのなら従おうかな。怒らせたらオババより怖いから。
講堂に入ると既に10人くらいが踊りの調整をしていた。瀬戸さんの姿も見える。彼女はぼくのクラスメートで学校でも1、2位を争う可愛い女の子。毎年祭りに出ている彼女だが、去年亡くなった女の子の親友でもある。彼女の葬式で他の誰よりも悲しんで泣いていたのも瀬戸さんだ。その彼女が今年も祭りに参加するなんて。去年、今年は参加しないと豪語していたのに。一体何があったんだろう。
ぼくが彼女を見て物思いにふけっていたせいか、周りからくすくすと小さく笑う声が聞こえてきた。これじゃぼくが彼女のことを好きみたいじゃないか。そんなことは断じてない。ぼくは彼らに不満をあらわにして、ナツばぁに近づく。ここは踊りの調整に来たと知らしめないと勘違いされたままだ。
彼女はぼくの意図をくみ取って柔らかに微笑む。そして手を叩いてリズムを取り出した。ぼくはそれに合わせて腕を緩く天井に向け、右へ左へと動かしながら回る。盆踊りの舞。それに近い踊りは小さい子でも習得できるものだ。右足、左足と順番に出して滑らかにくねくねとうねりながら踊る。足の向きと手の角度さえ間違えなければ良い。そうオババも言っていた。
「宗ちゃん、何か心配事でもあるの?」
突然手拍子をやめて問いかけて来たナツばぁにぼくの心臓は跳ねる。ただ踊っていただけなのに、まるで見透かしたような言葉にドクドクと心臓は早鐘を打っていた。そりゃ明日の宝樹祭は心配事の種になっているけど、それ以上にこの胸騒ぎが心配。だけどこれを彼女に言う気になれない。
「いや、特にないよ。ちゃんと踊れてた?」
「それならいいんだけど……。あぁ、踊れていたよ」
ふわりと微笑んだナツばぁは何か思う所があるのか、もう帰れと言うように講堂の入り口に目を向けた。それと同時に研助じぃちゃんが現れる。これじゃ帰れない。なんでこうもタイミングが悪いんだろう。
「宗坊、ちゃんと踊れていたか?」
「研助さんも宗ちゃんと同じこと言うのね」
ころころ笑うナツばぁに研助じぃちゃんは目を瞬かせる。そしてぼくをじっと見つめた。そんなに見られても困るんだけどな、と心の中でひとりごちていると背後から乾いた音が響く。振り向くと窓の外に琳がいた。水色の三角巾を頭に巻いて。三角巾に白の狩衣姿って異質だけど、こうしないと琳が出て来られないから仕方がない。それにしても琳が自分から来るなんて珍しい。人目に晒されて恥ずかしそうに縮こまっているけど、これは褒めた方が良いだろう。
ぼくは周囲の目を気にしながら窓に近づく。潤んだ瞳で見上げる琳の姿にここまで苦労して辿り着いたことが伺えた。尻尾をカモフラージュする為に腰回りに白い毛皮を巻いて、平安か戦国かとツッコみたくなるような格好。この暑い盛りにそんな恰好をすれば好奇の眼差しの餌食になる。それに耐えてここまで来たんだ。ぼくの胸に感動の渦が押し寄せる。
これで通報されていなかったらもっと良いんだけど、これは難しいかもしれない。田舎の村だし、異質物は排除される。それが村という空間だと前に姉さんが言っていた。町の高校まで通う姉さんの言葉だから多分間違ってはいないと思う。
「宗、今いいかな」
ガラス窓を開けたら琳に先を越されてしまった。自分から言い出すなんて珍しい。明日は雪でも降るんじゃないだろうか。それくらい珍しい。まるで成長した我が子を見る親のような気持ちだ。
「うん、いいよ」
ぼくがそう言うと安心したかのように一つ息を吐く琳。そして蚊の鳴くような声で切り出した。