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純粋培養

作者: 夏木結

 ホームに降り立つと、冷気に晒された私の鼻は途端にむず痒くなる。くしゃみは出ないが鼻の出入り口が右側だけ湿っている感覚を思い、手で覆い隠した。息を強く吸い込むと鼻がすんという。

 ふと、思いだした。

「亜紀ちゃんのお鼻は形がいいのねえ、しゅっと細くて高いなんて誰に似たのかしら」

 会うたび母へ訊いた祖母の目元の皺、頭を撫でるときの笑みを忘れない。父にも母にも見られない格好の自慢の鼻は濡れたままである。触れてみて、じっと手を見た。押しつけていた指に赤い液体が付いている。鼻水じゃない、血だ。

 わかる前よりもしっかりと鼻を覆うと振動を与えないようにエスカレーターへ乗る。脇を抜けていく男の肘があろうことか隠し押さえる腕にぶつかった。目線だけで抗議を唱えて、じっと待つ。のぼりきってトイレをエレベーター横に発見し、走り出したくなるのを押さえ歩調を変えず速やかに入る。

 鏡と対面した。誰も入ってこないことを確認し、顔面を鏡につかんばかりに近づけるといつも見る鼻高の奥二重をうつしただけで血の筋はなかった。指を押し当てると滲みでた液がついてくる。拭くもの、と鞄を当たれば振動する携帯に当たった。

 画面の端のアイコンが黄色く点滅している。注意の印ではない。友人たちを中学、高校、大学別に青、黄、赤と選んでそうなっただけだった。

 相手は高崎千沙。

 本日、三回目。

 通話ボタンを押して、「どこいるの」と問えば奴の声が頭の奥にまで響く。

「まだスクエアの前だけど。まっすぐ行くとJRの改札に着くほうの口でいいんでしょ」

「はいはい。あってるあってる」

 ティッシュを当てて答えながら、「もうちょっと待って、今トイレ」言って切る。嘘はついていない。

 個室に籠もると私は勢いよく鼻をかんだ。粘着質の鼻水にくるまれた血の固まりが紙に付着している。見られる心配のなさに細くティッシュを芯状にして奥まで差し込んでみた。もうついて来ない。やっと息をつく。据えられた汚物入れに丸めて捨てた。

 鼻血なんてひさびさだ。でも興奮してはいない。感情を強く揺さぶられるのがそうなら、いつも通りだ。

 都市伝説、と思うが原因として挙げるなら貰い物のチョコを食べたくらいだ。友チョコなんて高校の時からの恒例行事が、社会人になってまで繰り返されるとは。同期のくれたそれは手作りで、いい腹ふさぎになった。おかげで、お返しに悩む。

 私は菓子なんて作らない。そもそも料理自体、一人で暮らすようになってやっと覚えられた。まだ、複雑なことを試そうという気も湧かない。母は二十五にもなってまったくと非難するが他人の作る食事が好物なのは美点だと思う。千沙なら手作りでお返しくらいするだろうけど、私はこれでいい。

 全部水に流した。トイレを出る。

「もしもし」

「ねえトイレって、どこいるの」

「気ぃ早いんだから。ったく、もう改札。すぐ着くって」

 電話口から「カチ」と音がする。

 爪で機体を叩いているのか乾いた音は時間を測るよう連続して、一定のリズムを刻んでいる。パスモを押しつけ改札を抜ける足は速くなる。千沙は通話中のままなのを気づいていないのか、あえてやっているのか。時折混じる舌打ちに剥き出しの感情を覗いたようだ。隠せていない苛立ちに鼻血だすなら千沙だろと思う。


「樋口、結婚するんだって」

 昼時に、たまたま続いていたメールの返信に聞いたことを織り込んで千沙に送りつける。済んでからクリームチーズとジャムを塗っただけのサンドイッチに手を付けた。食べ始めに出したのに、終わりの一口がなくなる前に携帯は鳴らされた。

 決まって長文の返答を寄越す千沙が、

「くわしく」

 の四文字だけで、普段なら多用する顔文字と記号はない。

 話したいならと終業時間を教えておけば会社を出た瞬間を狙い澄ましたように着信がある。

「会いたいの。会って訊きたい」

「いつ?」

「亜紀が空いてる日ならいつでもいい」

 JRで楽に出て来られる駅まで呼んだ。てっきり待つのは私だと思ったが時計を見るのは千沙だ。やっと、私の姿を認めて下ろす手から受話器は寸断された。

「お待たせ」

 声をかけながら、千沙の頭の中身を覗いてみたい、そう思っている。


     *


 高校に入学して、隣り合わせの席になったのが始まりだった。ともに視力が悪く、自ら黒板から近い席を希望したために人気のない教卓の目の前を押しつけられたのだ。

 出会った頃の千沙はひどく口べたで、友達になれたなら気安く話せるようになったとしても単なるクラスメイトの枠に収まるなら「ですます」調子しか使えない緊張しいで横で見ていてもめんどうなやつだった。

「やっぱり、亜紀は器用なんだよね」

 一ヶ月経ったとき、ふいに言われたことがある。

 私の返事は簡単で、文句に脳天へ教科書を振り下ろしてやることだった。

「あんたバカでしょ」

 声を大きくしたからクラスの連中が騒ぎに振り返る。

「なんでよう」

 膨れ面をされる。

「つくりたいならあたしに接するときみたいにしろって」

 千沙は唸る。それからきっと、考えたのだ。

 深呼吸して他の女子の席へ向かう姿を頻繁と見かけた。教卓の前で毎度やっていれば目立つとは想像しないのか、いやできないのが彼女を彼女らしく知らしめたところで、天然と評されていることも気づかない。

 一年の終わる頃には語尾を直しながら話す口調から抜け出た。すこしは社交性を身につけたようだった。学年が上がってからも同じクラスになった千沙は「せんちゃん」と呼ばれ始めた。アニメ映画の主人公と同じ「千」の字から付けられたあだ名だ。夢見がち、かつ、現実にいないひとを理想の相手にする白馬の王子様信仰のせいだ。たぶん。原因は遊んでからかった私にあるんだろう。

 けど、やめてようと言いつつも犬が遊んでもらってご機嫌になるときの尻尾が千沙にも生えているようにみえたのがそうさせただけで、本当に嫌がっていたならしない。あたしのおかげ、といっては恩着せがましいが千沙に友人が増えたのは教室の中心で漫才劇のようなやり取りをしていたからにあるとは思う心はある。

 とはいえ、代わり映えしないのは面白くない。新しい眼鏡を買った私は、七月の席替えで宗旨替えしてくじ引きに参戦した。

 初めて引いたくじは窓際の前から四番目で、教卓の前に陣取る誰かの変化に気づくには、良いか悪いか適した席だった。

 目で、ひとりの男子生徒を追う。私の代わりに隣席になった、樋口。

 彼を見つめている。

 話しかけられると千沙の頬が弛む。嬉しそうにする。

 私は、千沙の告白するときの高揚した茹で蛸のような顔を忘れない。樋口は答えの代わりにまず頷いていた。それから「おれも好きだ」とはっきり言った。

 予想できなかったのは翌日になって千沙が樋口に別れを切り出したことだ。


     *


 オレンジジュースをくいと飲み干して千沙は席を立つ。

 案内された席がドリンクバーから十歩足らずで、いくらおかわりしても値は変わらないとはいえ頻繁すぎる動きに思わず訊く。

「今何杯目」

「まだよっつ」

「あのさ、メイン来てないのに食べられないとか勘弁ね」

「全然お腹できてないから平気」

 薄紅色の透き通った果実水をあおるように含んで、「あたし制覇してやるの」と呟くと視線を移した。

 並べられた飲み物の容器は八種ありドリップ式のコーヒーもある。酒の用意はない。わざとカフェテリアを選んで連れてきたのに、一滴も飲んでないくせして千沙の頬は赤みを帯びて感じられる。

「飲んでないで食べなよ」

「呑んでいるって、言わないもん」

 ため息をつく。

「ソフトドリンクだって飲み物」

 小鉢を千沙のほうへ押しやった。

 主役のパスタ料理と抱き合わせに選べる小鉢が三種もついて上限千七百円は安い。私は野菜料理二種とデザートを選択し、小松菜の胡麻和えから箸をつける。食べながら目の前の女を観察する。まだ奴は呼び出した原因に触れずにただ飲んでいる。

「なんでお酒だめなの」

「こんな飲み方、酒でされたら帰せないじゃん」

 給仕する店員に、見られた気がする。

 グラスを揺すれば千沙は「ネットカフェか漫喫行くからいい」とだけで、泊めてとは言わない。その瞳に私は映っていなかった。

 追えば、隣のテーブルの男女を眺めている。スーツ姿の男性は三十過ぎか。女性の方は暖かそうなモヘアのセーターを着て私とそれほど変わらない年齢に見える。二人は間にテーブルを挟んで私と千沙のように変わらずに腰掛けているはずなのにどこか近い。重なりあう手にあるのか。女の、じっと相手の瞳を捉え視線を外さないことにあるのか。

 男女の、距離だと思った。

 求める女の感情に答えるように、男は合わされた手を取って指でゆるく絡めて撫ぜていく。どちらの手にも指に印となる物は無かった。だが動作は明らかに恋人という関係性を唱えている。千沙は向かい合う私ではなく彼ら二人を見つめている。熱に帯びた瞳をわかっているのだ。

「亜紀ってさ」

 見せるのは横顔でまだ私を視界に入れない。

「なに」

 隙を付いて手をつけない千沙の小鉢を頂戴してひとくち。

 パプリカに茄子。

 ふたくち。ほくりとしたいもに胡瓜。五目豆もある。胡椒が効いておいしいのに、もったいない。代わりに小松菜置いておこう。

 伺いつつもそっと手を伸ばして並べておく。カチ、と立てた一音に千沙は焦点をやっと私に合わせた。ふうふうと呼吸音して、喉が上下する。唾を呑み込んでいた。

「いつ結婚決めたの」

 しぼる声に驚いてわずかに尻を浮かせる。

 その動作に隣のテーブルの彼氏がこちらを気にしている。千沙に殺気があった。髪が逆立てば完璧だ、とアホなことを考えたら含んだ野菜がぐっと喉にひっかかる感じがあって飲み込めない。下せなかったそれは消化器に行かず気管に入ってむせる原因になる。急いでグラスを空けた。

「なに、いってんの」

 まだ足りずにお冷やを飲み干した。

「あたしがいつ、なにするって?」

「亜紀と、樋口くんと結婚するでしょ。おめでとう」

 口調は平坦だった。

「いつ式なの。お祝いの準備しないと。みんなには知らせたの」

 と口が回り続ける一方で頬は引き吊っていた。連射式に向けられる言葉を遮って間を作りに立った。

 偉そうに振る舞いながら私だって三杯目だ。熱いコーヒーを飲むと頭がしゃんとした。

「なんで、それも私が、結婚なんて思ってるのさ」

 千沙は無言で俯く。やっと小鉢を入れ替えられたことに気づき、眉を寄せながら小松菜を一口で食べた。空になった器を堂々と戻して自分のものである小鉢を左手に抱える。が、せっかくのマリネは箸でつつくだけにしている。

「今日のメール、樋口くんと結婚するって書いてあった」

 千沙は豆を器の外に弾き飛ばした。豆はテーブルの上を転がって、テリトリーを越えると止まる。私は拾い上げて口に含んだ。

「それは私じゃなくて、樋口が結婚するって送っただけだって」

 咀嚼すると容易に口の中でほどける。

「うそ、ちゃんと読んだもん」

 操作してメール画面にした携帯の液晶を千沙に向けて見せてやる。ほら間違えてるじゃん。いくら読んだって相手なんてないでしょ、と言い聞かせる。

 千沙は食い入るように画面が発火しかねない熱量をはらむ眼差しで一分、二分と瞬きせず顔を寄せたままでいる。私も微動だしない。いや、しないのではなくてできないのだ。

 弾丸を放たれ当たる寸前で一時停止ボタンを押し再生すれば死んでしまう相手役のような、それか眼差しに射抜かれたら石になるメドゥーサの贄でもいい。起爆装置の矛を突いたとようやくわかる。喉に真綿を詰め込まれる感覚を覚えだすと、視界を遮るものがある。

「たいへんおまたせ致しました。サーモンとアスパラの豆乳クリームパスタでございます」

 店員の訪れを救いと思った。

 目の前に置かれる揃いの皿を千沙は一別し、店員が伝票を置いて去ってから携帯を返してくる。

「なんで送ってきたの」

 低い声音で言う。

 私は言葉選び方に惑い「知りたいと思って」と結局率直な表現にしかならない。

「樋口くんから直接訊いたの」

 問いかけに頷く。

「いつ教えてもらったの?」

「きのう、いや一昨日にメールだったっけ」

 記憶を探りながら答えると、千沙は「そう」と鞄の中身をまさぐり財布を出した。

「あたし帰る」

 伝票をちらり見て、千三百円きっちりテーブルに置いた。

「ちょっと、千沙が呼び出したんじゃない」

「うん。ごめん……でも帰る」

 千沙はコートと鞄を引っ掴みヒールの踵を鳴らしながらいなくなった。

 お客様、と店員が寄ってくる。

「いいです。全部食べますから」と断って自分のものから手を付ける。あの人って、とひそめてはいるがテーブルのあちこちからはっきりと声は聞こえてくる。

 そうだよ、置いていかれたんだ、悪いか。

 私は麺をフォークに軽く巻き取る。けっして啜らない。スープを含む。まったりとした豆乳は確かにほうれん草の織り込まれた麺とよくあって、ほうと息をつく。鮭とアスパラの選択も間違っていなかった。おいしいのにもったいない。そう、千沙はもったいないやつだ。

 繰り返し思って、電話をかける。


     *


 あの日、樋口の欠席の理由は知っていた。

 人のいない図書室に千沙を連行して、なんで振っちゃったのと感嘆符を付けて訊く。そのまま付き合っていれば鬱陶しいほどに弛んだ顔をみせただろうに千沙は能面のような顔をしていた。

「耐えられなかったの」

「どこが」

 たった一日で相手を深く理解できるはずはないし、瞬時に見限りたくなる男なんかいない、と当時の私は思っていた。身体の関係だけ迫り続けるような屑と出会ってこそ誤ちに気づいたが、樋口は当時だって違った。

 いかめしい面で図体も大きく、部活の剣道のせいか肩幅も広ければ腕ふしも良い。が、中身は乱暴と真逆にあって、言葉を選んで使う気遣い屋だ。もっと早口になれないのと文句つけても、これが俺の調子だからと譲らない。それを高校からの人間がどれだけ知るかしらない。中学からの四年間の下地があるから思うだけで、夢見る夢子ちゃんの千沙が理解できたとは想像しがたい。

「ねえ、どこが」

 私は語調を強めた。

「だって亜紀」

 一度区切る。

「付き合うってなってから心臓がずっとおかしくて、ばくばくして、自分でもわかるほど心拍数が速いのが聞こえるの」

 それで、と続きを促す。

「落ち着かなくて、どうしようもなくて、ふつうでいられなくて、あたし」

 能面の顔にわずかに色が戻る。

「あたし死んじゃうと思った」

 だから、と続ける先は言葉にならなくて千沙は逃げようとする。腕を無理に引くと勢い余って千沙は私に倒れ込むかたちになり、押し倒されて私は勢いよく棚に背を打った。本が落下して派手に音を立てる。

 千沙は小さく、「あたしのせいじゃない」と呟く。

 チャイムが鳴った。

 逃げるように千沙は駆けていく。教室に戻ったところで結局は私と顔を突き合わせるのに、一人で帰った。

「好きなくせして」

 私は本を拾いあげる。

「ばか、なんだから」

 今度こそ千沙は樋口に恋をした。

 振った一件でクラスの周囲の知るところになっているのにも留めず追いかけて、半年後再び告白する。だが二度の頷きは得られない。

 樋口はあろうことか私を好いた。


     *


 感心するほど自然な微笑みを浮かべて店員は温め直しますね、と口元を弛める。私は千沙の皿を取り上げるのを見守りつつ、当分この店は使えないなと判断しながら渦中の女を眺めた。千沙は頭を垂れたままにしている。

 周囲の居た堪れない視線に晒されても千沙を呼び戻し元の席へとおさめたのは、金だけ支払っておいて料理を無駄にトンズラする精神が許せなかったからだ。

「食べ物を大切にできないひとはね、禄でもないから信用しちゃだめよ」

 祖母の言葉で唯一素直に頷けたこの文句は、今でも私のなかに息づいている。

「あとで酒おごってよね」

「え、でもさっき飲ませないって」

「明日休みなんでしょ、うちに泊まればいいじゃん」

 千沙はあさってを向く。

 嫌なのだろうか。私はやつのふくらんだ鞄に目をやる。財布を取り出すときに見えた、マツキヨのレジ袋にあるメイク落としを覚えている。

「別にいいよ、もう気を遣わなくてもさ」

 ため息が混じる。

「だって樋口くん、亜紀選んだんじゃないし」

「……なにそれ」

 返す声の音量が大きくなる。

「だって嫌がらせでしょ、後悔してるの知ってて話す話題じゃないもん。言わなかったけどさ」

 私はテーブルの下でこぶしを握る。

 そのまま二分。

 お待たせ致しました、千沙の手元に店員の柔らかな手で湯気の立つ皿が置かれる。千沙は両手をきちんと合わせ、おいしそう、ほんと。いただきます、口の中で言ってスプーンを取った。豆乳のスープをすくい、匙の先から穏やかに流し込む。

「へえ、豆臭いと思ってた。けどそんなことない、甘くてコクがあって」

 千沙は麺をすする。

「すごい、麺とよく合う」

 私はじっと千沙を観察していた。

「おいしいでしょ」

「うん、おいしい」

 千沙は鮭に箸を入れる。

「私嫌がらせしてるつもりない」

「なに唐突に」含み咀嚼している声はくぐもって聞こえた。

「唐突じゃないじゃん。ならあんた、さっきのはなに」

 無視してアスパラガスをつまみ口に含む。噛めばポキッと小気味良い音がする。食べることに集中しだす千沙をにらみつける。

「ねえ、どういう意味よ?」

「え、言葉どおりだけど」

 目を見ないで、千沙はフォークを取ってパスタを巻き付け始める。

「樋口くんに告白されてアッサリ振ったのにふつうに話せて、そのくせ大学になって彼女できたことも聞いていてさ」

 麺は追いかける手を逃れようと皿を滑っていく。

「加えてフェイスブック始めたって教えてくれてさ、もう余計なお世話だよね」

 持ち上げたフォークから麺は全て滑り落ちて、やり直しになった。私は言葉が出てこない。誤魔化しに最後の小鉢にと選んだデザートをつつく。

 千沙は答えを待たず、「ねえ」と呼びかけた。しかし瞳に私は映っているのか。

「だってそりゃ心残してる相手だもん。登録しちゃうでしょう」

 千沙は一呼吸置いた。

「ねえ亜紀、知ってる?」

「なにを」

「フェイスブックってさ、あれ、友達申請受け入れてもらうと相手の誕生日の三日前と当日にお祝いしましょう、ってメール来るの。たまんないよね」

 私は押し黙った。

「亜紀さ、よく女の恋は上書き式っていわれるけど、あたしは保存式なんだよ」

 千沙は糸玉のごとく巻き付けた麺でフォークを膨らませておくと置いて口角を引き上げた。

 状況も場所さえ関係ないのに、ふと祖母が母に向けた棘の混じる言葉と口元に浮かぶ笑みを思い出し、背筋に寒いものを感じた。千沙は話すのをやめない。

「ねえ自分を振った相手に結婚まで教えられる間柄ってすごい」

 スープで咥内を湿らせ、

「あたし、亜紀のこと尊敬できると思うの」

 そう俯いて糸玉を口に入れる。千沙の咀嚼する姿は頬袋に物を貯めた栗鼠のような滑稽な顔をしていて、それにも関わらず私は怖くなった。逃げる時間欲しさにドリンクバーに立つ。

 戻ってみると千沙の皿の嵩は減っていた。気を揉んでいる私を分かっていても、それでも千沙は食べることに集中できるのだ。

「尊敬ねえ……」

 聞こえないと踏んで漏らした声を、千沙はしっかり耳に入れている。

「無神経さは見習いたいよ」

「あんた言うようになったじゃない」

 むくれたら、千沙は何年経つと思ってるのと笑った。


 送るよ、店を出ると千沙は言った。断っても改札口までついて来る。今度は呑もうねと話を畳む千沙に後ろ手を振って駆けて改札を抜けた。

 九時を過ぎて駅は帰宅路を急ぐ人であふれている。

 エスカレーターを使わず階段を選ぶ。と、携帯が震えた。千沙が呼んでいた。通話ボタンを押す。

「なにどうしたの」

 話しかけるが雑音混じりでよく聞こえない。ちょうど出発のベルが鳴り響きよけい妨害される。一度切って掛け直す。呼び出し音三つですぐ応答があった。私が聞こえていると確認した千沙は深呼吸した。息の音だけして、続きがない。切れた。通話時間十三秒。私は次の快速を待つホームで携帯の画面を見つめている。


     *


 あれは冬だった。

 私はスカートなんてやめてスラックスになる。女子用のそれだ。二年生後半になって、「寒い欲しい」と主張したら母は「バイト代あるでしょう、半額自腹ね」と二万円くれた。来月も薄くなると決められた財布でダッフルコートを拒否し、トレンチコートを求める。ともかく身体だけは暖かな状態で通学路を歩む。

 バレッタでまとめた髪のためか、駅前の学習塾のチラシ配りは私が通過する段になると差し出した手をふいと下ろした。振り返ると同じ行き先の学生へ渡している。年相応に見えないか。べつにいい。それより保育園の門前で私を「目撃」した園児の、無邪気な性別論議のほうが勝っている。女に見えないか。黙れよ、ガキが。

 教室に入ると誰もいなかった。私はカバンを自分の席に置く。

 まだ三十分もあった。

 靴に履き替え昇降口を出ると風が正面から吹き付け髪を乱す。私は顔面に垂れ下がり簾状になったそれを直して、昇降口から校舎の合間を抜け風上へ向かう。四階立ての校舎二棟に挟まれたところは吹き溜まりになって、長かろうが短かろうがスカートを捲りあげるから、女子生徒の姿はない。自分に賞賛の拍手を贈った。

 正門と反対の、北側の通用門を押し開け階段の石段を十八段登りきるともう土手だ。夏場はこの河原に面していることでお隣さんとなった浄水場に閉口させられたが、寒いときは校内よりしんとして冷えた風がよかった。建物に遮られることなく自由に流れているのが好ましい。

 私は川に向かって土手を駆けおり持ってきた五十リットルのごみ袋を敷いて地べたに寝ころんだ。澄んで深さのある青に視界が満たされる。高さのあるビルにマンションはなく余計なものはうつらない。安心して瞼を閉じているには、ふたりの視線の有無が重要だった。

 樋口を未だに好いている千沙と、心変わりした彼の、双方に見張られているような妄想に取り憑かれている。被害者は私だ。

 千沙がまともであったら、焦がれる情に素直に従えるだけの成熟した精神を持ち合わせていたなら、樋口の矛先が私に向かう理由すら無い。

 そもそも、「好きなのはおまえのほうだ」という樋口の文句が気に入らない。頭には千沙という存在が果たして抜けきっているのか、私には測れなかった。長く隣に居て剥き出しの不器用な姿を見守ってきたのに、奴が特別視する樋口本人を好きになるかという問いを与えることがおかしい。

 性格の善し悪し、見た目、趣味の問題ですらない。

 一度目の前の他人、いや、友人のものになってしまった相手を欲しいという気持ちが湧いてこないだけのことだ。無理に立ち位置を変えたがる彼を、恨んでいる。

 風が止んだ。寝ている意味がなくなって教室に帰る。

「おはよう」

 ちょうど登校してきた二人に笑顔を向けてみせる。


     *


 ひさしぶりに夢をみた。

 だから、起きて電話しようと思い立った。

 二十分待って七時を過ぎたところで母にかける。どうせ早く覚醒しているから時間に問題はない。

「母さん、悪いけどさ、高校の制服ってまだあったか覚えてない」

 訊けば予想通りの答えがある。

「あんたの部屋でしょ。わたし知らないわよ。ところで聞いてよ、お父さんがね……」

 受話器を挟みカップに一匙分のインスタント・コーヒーを入れた。蛇口からただの水道水を直接注いで電子レンジで二分、できあがったそれにすぐ口つける。

「あちっ」

 どうしたの、母は言った。

「なんでもない。きょう夜そっち寄るから。うん、ごはん一緒に食べる。父さんは?」

「ううん、飲みに行くって言ったかしら……でも八時には帰ると思うわ」

「わかった。じゃあ八時までには着くようにする」

 受話器を切った。

 寝間着のまま私は二食分のご飯を解凍した。

 一つは朝食に、もう一つは五百ミリのタッパウェア半分に詰めて梅干しを配置する。卵をふたつ溶いて、油をひいたフライパンに少し流して油切りしたツナ缶に醤油と少しのマヨネーズを混ぜた物をまだ半熟の卵にまんべんなくのせて巻く。そして油を慣らしたうえに残りの卵液をそそぎ入れた。ふつふつ泡が立つのを合図に巻いて面をかえながらじっくり待つ。きれいな黄色のまま仕上げて、昼に箸を差し入れて流れ出た液におののいたことがある。火が通っていると信じていたのは甘かった。作りたてならいいが四時間後の、しかも夏場だったからお腹が心配になった。それからはやや茶色味を帯びるまで焼くのが決まりになっている。できたものを分けて半分を弁当にし、残りを朝食用に取っておく。

 あと冷蔵庫になにかないかと探ればサラダがほったらかしになっている。ブロッコリーが凍結しているので再度湯にくぐらせると逆にしなびてしまう。失敗か。

 仕方なくプチトマトを配置して、冷凍食品のグラタンで隙間を埋めて蓋をする。まずまずの達成感に浸りながらお茶漬けを啜った。


 JRから東急線に乗り換え、三駅で下車する。

 踏切を越えて道なりに行くとしっかり歩いたとは感じない内に母校があった。

 陸上部と水泳部の弾幕が屋上から垂れていて、掲げられた生徒の名前は違えどもやることの変化のなさに懐かしさを思う。正門から侵入できないかと一度様子見に素通りして、二度目で脇に据えられた監視カメラを発見して諦めた。私立は厳しい。それとも、今は防犯といってどこにでもあるのだろうか。

 私は学校から一本横道に入り迂回して土手へ上がった。高校を見下ろせる位置にくると当時にはなかったベンチを発見して腰かける。座れる場所があるのだ。長くいたところで怪しまれまい。ちょうど顔と同じ高さにくる第二校舎の三階は広く食堂に割いていて、窓を広くとっているから様子がわかる。カーテンの色やテーブルの配置こそ変わっているが雰囲気は記憶と同じものがある。私はハンカチを敷いてベンチをテーブル代わりに弁当を広げて視界に入るものを味付けに白米を食べる。

「あ」

 食堂の窓際に、男の子一人やってきて辺りを気にするように見回している。

 私は座る向きを直して視線だけ向けた。

 男の子は左手を顔に寄せた。きっと腕時計だ。時間を気にしている。誰かを、待っているのか。

 私は携帯を弁当箱の脇に出した。

 一、二、三分と待つ。

 女の子が駆けてくる。彼に手を振った。

「ごめん、待たせちゃって」

 とでも話す声が聞こえるように思って、耳をそばだてる。

 千沙のときも私は見ていた。

 その場を離れたらよかったのか。ううん、むりだ。動けば気づかれただろう。羞恥する顔を第三者に目撃されるほど嫌なものはない。いや、それ以上に千沙の放つ文句を見たかったのだ。予想した通りの、やつの好きな物語にある世界を追体験したかったのだ。


 土手に風が吹く。私の髪を乱して去っていく。

 私は、千沙がうまくいくかどうかなんてどうでも良かった。やり遂げればそれで満足して読了のしるしをつけられる、そんな「めでたしめでたし」で終わる世界のその後がどうなるかだなんて思わないはずだった。ただ花開かせる術を教えた、さながら魔法使いのような立ち位置でずっと居るつもりだった。

 心臓が持たないから付き合えない、そんな文句をわかれと言われたところで納得できない。なぜ、予定調和を乱しておきながら樋口に告白できるのか。

「やっぱりさ、王子様はプライドが高いのが定石っていうもんでしょ」

 呟いた口にすだれのように垂れ下がった髪が入る。それは視界も遮った。

 私は主人公を逸脱した千沙のこころをみていたい。手に入れられたはずの王子を逃した末の物語を捕まえたいと思っていた。

 だから、髪を掻き上げる。 

「あ」

 彼女は紙袋から小箱を出した。きっと頬を染めている。きっと告白している。彼は彼女の渡そうとする手を握り放さないでいる。

「ああ」

 腕を引いて抱き寄せた。彼は応えたのだ。

 私は背を向ける。塩気のなくなった弁当をかきこむ。梅干しが甘い。まずい。水筒に入れたコーヒーを飲んだ。味がうすい。

 食べ終わったら、千沙に電話しようとアドレス帳を括った。


 いつまでもお姫様でいられるわけがない。

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[一言]  大抵の人にはそんな時期はあるけれど、たまにその一時的なある種の精神的な未熟さから脱出出来なかった人というのがいて、そういうしょうがない心を小説で取り扱うとして、こうデフォルメ無しに、偶発的…
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