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不法滞在宇宙人  作者: 出汁殻ニボシ
不法滞在宇宙人
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精神的ドレスコード

言うまでもなく、私は院部の外出を良しとしていない。むしろ、機会さえあれば押し入れに封印してしまいたいとさえ思っている。

だが、その私でさえ院部を外に追い出してしまいたいと考え出す時期が来た。

つい先日、院部から饐えた獣のような臭いが立ち上るようになって、私は決心したのである。

「こいつを風呂に連れて行かなくては」

その日の昼過ぎ、三人で町に出ようとする千草を説得し、私たちは商店街から少し離れた銭湯へと向かった。


そこで起こった筆舌に尽くしがたい騒動について、私は生涯口を開くことはないだろう。

ただ、いくつか教訓めいたことを後世のために残しておくとするなら、それは宇宙人を銭湯に連れて行く時は、開店直後の誰もいない時間帯にすること、石鹸を食べようとする宇宙人がいたら、迷わずそいつを喉の奥まで突っ込んでやれ、ということだけである。

フローラルな香りのしゃっくりを連発する院部と共に浴場から出てきた私を待っていたのは、番台のそばでフルーツ牛乳を飲む千草であった。

「あまり人を待たせるのは感心しませんね」

言い返す気力もなく、四人がけの小さなテーブルに座ると、私は頬杖をついた。

「ところで、お昼は食べましたか」

「まだです。こいつを連れて行くのに必死で、すっかり忘れてました」

「我も口直しがしたい。なんだあの柔ら固い豆腐のような何かは」

まともに答える気もせず、一言「酢豆腐だよ」とだけ言うと、足に力を入れて立ち上がる。

「さあ、飯を食うために帰りましょうか。お前、豚骨と醤油、どっちがいい」

「塩」

「じゃあ今日は味噌だな」

「駄目ですよ、カップ麺なんて」

口元にミルク髭をつくって、彼女は空になった瓶を机に置いた。

「不健康極まりない。もっと野菜を摂らなければ」

「もやしなら三食欠かさず具にしていますが」

混ぜっ返さないでください、と睨んで席を立つと、瓶を番台の親父さんに返して、彼女は小さな財布をポケットに押し込んだ。

「今日こそは私のお昼ご飯に付き合ってもらいます。お金が無いなんて言わせませんよ」

言い訳を見抜かれて、私は低く呻いた。いつもなら財布に入っている紙など、カップ麺分のレシートしかないのだが、先日永武さんの手伝いをしたことで、運の悪いことに臨時収入があったのである。

流石に観念して、何処に食べに行くのかと聞くと、彼女は心なしか緊張した様子で、

「『流星』へ」とだけ言った。




お洒落すぎる。

ビストロ「流星」の椅子に座っても、私の頭の中にある思考らしきものは、これしかなかった。

店内を優しく照らすシャンデリアも、気取らないジャズのBGMも、店の内外に施された気配りの一つ一つが、明らかに私の身に余る。

ここは将来有望な若者や、人生の酸いも甘いも噛み分けた素敵な有閑婦人などが訪れるべき場所であって、ボロアパートの四畳半で「源氏がなんだ、平家がなんだ」と叫んで涙ながらに青汁を飲み干す腐れ浪人生の来るところではない。


店内に足を踏み入れた時点でそうは思っていたのだが、しかしここで回れ右をして引き返すのはとんでもない失礼にあたる。私は一世一代の覚悟を決めて、端の方にある目立たない席に二人を座らせた。

昼時を少し過ぎているせいか、店内は多少空いている。もしも私たちがピーク時の、恐らく長蛇の列が出来ているであろうこの店の席にちゃっかり座っているのを目撃されたら、たちまち上品な常連客に「浪人生のくせに生意気!」と蹴り出されていただろう。院部を風呂に入れてきて、本当に良かった。

際限なく膨れ上がる私の自虐的妄想を知ってか知らずか、千草は落ち着き払った様子で優雅にメニューを広げると、

「もっとしっかりしてください、今日は私の保護者という立場なのですから」

そう言って典雅な振る舞いで逆さになったメニューを眺めているあたり、彼女も相当緊張しているのだろう。本当に落ち着いていたのは院部くらいなもので、反対向きのメニューを横目で見ながら、机の綺麗なことに感心している。

「見たまえよ、この机、ケシカスが一つもないぜ。初めて見たな、この分なら、きっと押し入れにも茸は生えていないんだろうな」

「頼むから、大きな声で喋らないでくれ」

どうにかメニューの上下を見極めて三人で眺め回していると、いつの間にかお店の人が私たちの傍に立っていた。

てっきり精神的ドレスコードに引っかかるから帰れと言われるのだろうか、と私は身構えたのだが、どうやら注文を取りに来ただけらしい。私たちは迷いなく「とろとろオムライス」を三つ頼んだ。

千草はそもそも「オムライスの美味しいお店」という評判を聞いてやって来たのだし、私としては、同じものを頼んでおけば失敗はないだろう、という浅はかな考えからそれを頼むことにしたのである。院部には、もともと選択権などない。


料理を頼んでしまうと、私たちは何となく黙り込んでしまった。

いつもなら、私の歪な生活態度の話や、あまりにも胡散臭いがゆえに却って面白い院部の自慢話などが、雑草のように湧いてくるのだが、この瀟洒な雰囲気の中でそんな話をし出せば、たちまち店内中の人間の目がこちらに集まってしまいそうで、まともに喋ることができなかったのである。下を向いて一言も話さなくなった私たちを、院部はつまらなさそうに見ていたが、とうとう痺れを切らした様子で、

「しかし、よくお前に外食などをする金がおありでしたな」

「ああ、バイトしたからね」

「バイトというと、あの裸ビデオの仕分けのことか」

この時点で彼の口を塞げばよかったのだが、あまりのことに私はとっさに動くことが出来なかった。

「よくやるよなあ、何と言ったっけ、「永武秘宝館」だったかしらん。あんな気色の悪いものを、よくもまあ一時間も二時間も」

横から小さい手が伸びて、彼の口元を摘んだ。見れば、千草が真っ赤な顔をしてこちらを睨んでいる。

「二人共、帰ったら覚悟してください」

ちょうどその時、料理は運ばれてきた。




さて、私が大学受験に失敗した理由の一つとして、本の誘惑に耐えられなかったことが挙げられる。

ほかの受験生が参考書を読んでいる間に、私は太宰治の「畜犬談」を読み、ハインラインの「夏への扉」を読み、再び太宰に戻って「親友交歓」を読んだ。

失敗という結果から分かる通り、私はこれらの本を「愉快だから」という理由で読んでいただけで、決して文学的な目をもって読み耽ったわけではなかった。おかげで、評論文の問題を解くときに、私は多大な苦労をした。

何が言いたいのかというと、つまり私は多少語彙には自信があるのである。現に院部を見れば、私の口からは、腐った豆腐を道端に放り出して車に轢かせたような顔面、というように、回りくどい悪口がすらすらと出てくる。

だが、「流星」のオムライスについて、私はとうとう何一つ言うことが出来なかった。店の雰囲気同様、この料理は私の貧乏舌にとって旨すぎたのである。

褒め言葉は頭の中にいくらでも湧いてくるのだが、そのどれもがその美味しさを言い表すには物足りないように、私は思ったのである。

結局、院部が一口食べるなり言った「旨いものは旨い」という言葉が、私の一番言いたかったことなのかもしれない。

私が院部の分の代金を支払って店を出ると、千草がいない。慌てて振り返ると、なにやら店長らしい人と話し込んでいるようで、程なくして帰ってきた彼女は、カサイさんが、カサイさんが、と興奮した様子で喋りだした。どうやら名前を聞き出すほど、このビストロが気に入ったらしい。

「夜までやってて、火曜日が休みらしいですよ」

嬉々として跳ね回り、それから、と付け加えて彼女は言った。

「なにかお悩みの様子でしたが、と心配なさっていましたよ」

私は再度凍りついた。首周りが錆び付いたようなぎこちない動きで彼女の方を向くと、私はゆっくりと尋ねる。

「つまり、店内で僕の精神的葛藤が、すべてばれていた、という訳ですか」

ややあって、彼女はこくりと頷いた。

「だって、相当挙動不審でしたよ、伸太郎さん」




私はその後、どうにも恥ずかしくて「流星」に行くことが出来ないでいる。

院部は初めて食べたカップ麺以外の食物が、よほど美味しく感じたらしく、千草と二人してまた行こうと騒ぎ立て、それを抑えるために、私は今日も時間を失い続けている。

綺羅ケンイチさんの『うろな町、六等星のビストロ』から、「流星」と、葛西拓也さんをお借りしました。

何か不都合な点などありましたら、ご連絡ください。

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