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不法滞在宇宙人  作者: 出汁殻ニボシ
不法滞在宇宙人
20/30

一介の阿呆文系学生

  西の山裾という素敵な地理条件故か、コーポ鸚屋の辺りにはよく虫が湧く。

 幸いにして、今までハチやシロアリ等の害虫が巣を作ったりすることはなかったが、それでもハンミョウや便所コオロギなんかが、廊下を埋め尽くさんばかりに群れているのを見るのは、あまり気分の良いものではない。

 もちろん、私とてコーポに集まる全て虫類を嫌っているわけではない。

 浪人生という身の上であっても、夏の夜半、ベランダから見える小川に浮かぶ蛍の儚い光や、窓の外から流れてくる松虫の音色等の風流を解する程度の余裕は持っている。持ってはいるがしかし、顔も洗った、歯も磨いた、さあ後は寝るだけ、と眠い目をこすりながら布団に目をやれば、私よりも先にカメムシがちょこんと独坐していらっしゃった、という場面に出喰わせば、誰だってうんざりするはずだ。

 奇妙なことに、院部は昆虫から嫌われている節があって、だから私はそういった事態に遭遇すると、押入れから彼を引っ張り出し、彼奴らにけしかけるのである。これはそこらの薬剤を撒くよりもよっぽど効果があった。

 益虫害虫を問わず、院部が不安定な足取りで近づくと、彼らは泡を食って逃げ出すのである。後で掃除をする必要もなく、地球にも優しい。

 ついでに懐にも優しい、と言いたいところだが、院部を養うために喰ってきた精神的及び経済的損失のことを考えると、そう易々と頷く気にはなれない。結局、市販の殺虫剤を買ったほうがよっぽど安上がりである。


 ○


 八月三十日。再びえも言われぬ芳香が立ち上り始め、私は彼を連れて行きつけの銭湯を訪れた。

 案の定院部はいくつもの騒動を起こし、私は実家で飼っていた猫を風呂に入れた時の苦労をまざまざと思い出した。世の大凡の愛猫家が味わう苦しみではあるが、「洗う対象が全く可愛くない」という一点だけでも、今日の苦痛は倍加していたように思う。

 私は脊椎を蛇口に打ち付けてしばし呼吸もままならなくなり、足を滑らせて水風呂に落ちた院部はサウナに篭城して危うく脱水症状を起こしかけた。


 二人して悪態を吐きながら部屋に戻ると、院部はすかさず押し入れに潜り込む。

 ここ数日、彼は不気味なほどにおとなしい。またなにかろくでもないことを企んでいるのだろうが、しかし彼の計略を打ち砕こうにも、つい最近「布団が糸を引くようになった」と嬉しげに語っていた彼の領域に踏み込む勇気は、私にはない。

 それより今の私には、卑劣な宇宙人の悪計などよりも、明後日に控えた全国統一模試の方が数段恐ろしく感じられるのである。

「手段と目的を取り違えるな、あくまでも本試が最終目標であって、模試はそれを得るために何が足りないのかを確認するための手段に過ぎやしないのだ」

 既に先輩となった同級生や、昨年世話になった塾の先生、何よりも私自身が自らに何度も言い聞かせてきた台詞である。全くの正論ではないか、と頷く一方で、「そんなものは聞きあたりの良い逃げ口上に過ぎぬ」と私を糾弾する私も、また存在するのである。

「手段であれなんであれ、結果は結果だ。芳しくない成績が帰ってきた時も、お前はその言い訳を口にできるのか。想像してみろ、電話口で親に結果を伝えるときのことを。近況報告も終わり、いよいよ模試のことを話さなくてはならんときのことを。さもなんでもない事のように、よろしくない結果を口にして、白々しく苦笑などして見せて「まあ本試に受かれば良いのだから」と言い逃れするときのことを……母は笑うだろう。それも悪意のある憫笑などでは決してない、徹頭徹尾憐憫に満ち溢れた笑顔だ。そうとも、二月の終わりの、最後の合否が分かったあの時と同じものだ。さて、その時お前の傲然たる自尊心は、果たしてどうなることやら」

「到底耐えられるものではない!」

 卑小な浪人は机に向かいながら気炎を吐くのである。

「あの同情に耐え切れるほどの精神的益荒男ではなかったからこその、うろな町への遁走ではないか。逃げ延びた地で再び同じような目にあったら、これ以上どこへ逃げればいいのか!」

「愛の国ガンダーラ」

 予期せぬ返答にぎょっとして振り向くと、いつの間に押入れから出てきたのか、院部が頓狂な声を上げて歌の続きを歌っている。どうやら銭湯で流れていた曲をそのまま口にしていいるらしい。

 なおも調子外れに歌いながら、唯一の私物であるダンボールとその中身を弄っている。

 彼が武器庫をまさぐる度にろくでもない事態が引き起こされるのを思い出し、不吉な予感に身を震わせながら、私は院部の横に腰を下ろした。

「一体何をしてるんだ?」

「おう、少しく整理をばね」

 四畳半に並べられた武器類は、どれも見覚えのあるものばかりである。水虫菌噴射銃のように新品同然のものもあれば、ヒュプノパウダーのように使用の形跡があるもの、カリキュラ・マシーンみたいに傷ついたものもいくつかあった。

 その中からスリッパと電子辞書の間の子のようなものを取り上げると、院部はテレビリモコンに向けて、それをひょいと振った。

「見たまへ、電池を入れ替えたおかげで、リモコンコントローラーも絶好調ですぞえ」

「替えの電池なんて、うちにあったっけ」

 テレビに砂嵐が映し出されるのを見ながら、私はそう尋ねる。

「ふん、こんなぼろ部屋にそんなものがある訳があるまい。自前に決まっておろう」

「なんだ、そんなまともなものがあったんだったら、早く出してくれれば良かったのに。電子辞書が使えなくて困ってたんだ」

「けえっ、誰が貸したりするものか。こいつは充電式の非常に貴重なシロモノなのですがな」

「だったら尚のこと貸してくれたっていいじゃあないか。どうせ部屋のコンセントで充電してたんだろ」

 電気代を払ってるのは僕なんだぜ、と我ながらみみっちいことを言うと、彼は見下すように鼻を鳴らした。この行動は、私を馬鹿にしているか、得意になっている時、もしくは私を馬鹿にして得意になっている時の彼の癖らしかった。

「そう思うのがお猿さんのあかさたな、いや、はまやらわだったかしらん。とにかく、この電池はお部屋のコンセントを使用せず、貴様に優しい設計になっておりまして、なんと位置エネルギーを吸収して蓄電を行うので」

 そのあたりで、彼の話を聞くのをやめた。私は一介の阿呆文系学生であり、中学時代に因数分解との壮絶な決闘、及び決定的な敗北を喫して以来、理系的な諸々と袂を分けて来たわけだが、しかしそのような阿呆にも、彼の位置エネルギー充電池の胡散臭さは理解できる。


 そうやって院部の説明を聞き流しているうちに、私は昨夜の感傷的な気分を思い出し、自ずからため息が出た。

 考えてみれば、私の勉強時間は千草の説教も然ることながら、この同居人の尻拭いにこそ、その大部分を費やされていたのである。

 数時間にわたる正座の強要と人格否定気味の罵倒は、確かに異常な拘束ではあるが、例え越してきてから今までの説教時間を合計しても、八月中に私が院部の後始末のために空費してきた時間には及ばないだろうという確信が、私にはあった。

 であるとすれば、彼女が帰ってしまっても、私の勉強時間はそう劇的に増えるというわけでもなさそうである。

 むしろ、院部との喧嘩を諌める者がいなくなってしまった分、浪費される時間は増加するかもやしれぬ。

 忌々しいことこの上ない。いっそ千草ではなく彼が実家へ帰ってしまえば、とは思うものの、腐りきった押し入れのなかで魔王の如くぬくぬくと尻を暖めている彼が、日頃から故郷であると嘯いているベテルギウス星系に帰還する手段を持っているとは思えない。


「君たちの同居生活も、あと少しの辛抱だ」


 そこまで考えたところで、不意にあのラーメン屋の屋台で出会った男の、意味深な言葉を思い出した。

 未だに正体も目的もわからない不審者の言葉を信じる理由もないが、しかし……。

 私が無闇に複雑な状況に頭を悩ませているあいだも、院部は体の一部分なのか服の装飾品なのか今以て判然としない腰の突起に、B級映画の悪役さながらに光線銃を下げて遊んでいる。つくづく憎々しい生物である。

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