第三種接近遭遇
今、私は声を大にして言いたい。私は浪人生である、と。
浪人生は、親のすねをかじる地位としてはかなりの上位に位置する、なかなかの穀潰しである。であるからして、本分の勉学に全てを注がなくてはならないのである。それ以外のことにの割く時間など、ありはしないのである。
しかし、大家の孫娘、鸚屋千草にはその認識が著しく欠けているらしく、土日の昼頃になると決まって二○三号室の前にやってきて、ドア越しに、
「オムライスの美味しいお店があるんですよ、『流星』というらしいのですけど、行ってみませんか」
等と甘美な誘惑を仕掛けてくるのである。そういった悪魔の囁きから逃れるために、生まれ故郷を離れてうろな町まで越してきたというのに。
そういうとき、私は捗らない勉強、使えなくなった布団、極めて面倒くさい同居人のことなど、一切合切の怒りを無理やり詰め込み、ドアに向かって叫び返すのである。
「申し訳ないのですけれど、只今非常に勉強がはかどっておりまして、手が離せませんので、またそちらの都合の良い時にお誘いいただけましたら幸いです、どうもすいません、かしこ」
実に軟弱な外交である。恐らく、敬語も間違っているけれど、彼女は「言い過ぎかな、と思うくらいに目上の人を敬わなければ、社会人にはなれません」と言って聞かないのである。もっと子供らしく振舞ってくれないものかと、私は常々思っているのだが、なかなかそうもいかないようである。
例えば、私が小粋なクイズで場を和ませようとした時のことだ。
「くだらない問題なのですけれど、良いですか。ここにエレベーターがあって、今は二階に止まっています。さて、ここからこのエレベーターは上に行くでしょうか、それとも下に下がるでしょうか」
「下です。一階はフロントなのですから 、確率論的に考えて、一階に行く人は多いはずです」
「正解は上でした。最初に『下らない問題』と言ったじゃあないですか」
説教は三時間にも及んだ。
目上の人がしたと言ったら下なのです、問題を捻じ曲げてでも、相手を敬わなければなりません、と彼女は言ったものである。
院部もこの手のクイズが苦手であった。私はよく三食兼用のカップ麺を買う為に外出するのだが、その度に院部は自分も外に出ると騒ぐのである。ある日とうとうたまりかねて、私は机をはさんで彼と差し向かいになり、
「分かった、お前がそこまで言うのなら、今から出す問題に正解したら出してやる」
「よし来た」院部は何故かキックボクシングの構えを取った。
「山の上に住む伸太郎君は、風邪をひいたのでふもとの病院に行くことにしました。道の途中で、彼は牛がモーと鳴き蝶々が飛ぶのを見ました。さて、彼の病名はなんでしょう」
「そりゃあ盲腸炎だろう」
騙されたと叫ぶ院部を尻目に、私は悠々と外出した。以来、院部は外出の度に私に問題をせがむようになったのである。
ある日のこと、カップ麺と青汁の夕食を済ませた私は、院部と彼女がトランプに興じる横で不規則変化動詞と死闘を繰り広げていたのだが、ふと気付けば明日以降の分のカップ麺がない。キリの良いところで手を止めると、私は今から外出する旨を二人に伝えた。
「ふむ、それではバトルタイムですな」
「なんですか、それは」
「こいつが僕の出す問題に正解したら、外出を許可してやるっていう遊びですよ、今のところ、僕が全戦全勝中です」
そうですか、と言ってしばし考えた後、彼女は目を輝かせて、
「では、今日は私が出題しましょう」
「何かいい問題でもあるんですか」
「ええ、この間自分で考えだした、最高傑作があるのです」
「よし来た」院部はなぜかチェスボクシングの構えを取った。
「山の上に住む公太郎君は、ある日、もう、もうちぇ、モーチョーエンにかかったのでふもとの病院に行くことにしました。その途中、彼は牛がモーと鳴き蝶々が飛んでいるのを見ました。さあ、彼の病名は」
「盲腸炎」
彼女は顔を真っ赤にして、涙さえ浮かべて私を睨むと、
「あとでお説教ですからね」
何のことはない。その問題は、今日の朝私が彼女に出したものであった。
自分なりに改造したのだろうが、それが見事にあだになってしまっているあたり、まだまだ子供である。私は願いが叶ったと阿呆なことでほくそ笑んでから、院部を連れて外出しなければならないことに思い当たり、ぐっと落ち込んだ。
「娑婆はええのう、生き返るようだわい」
物騒な口調で先を歩く院部を、私たちは五メートルほど離れた場所から追っていた。履き古したせいで、度々ずり下がるズボンを引き上げながら、私は恨めしげに院部を睨んだけれど、すっかり浮かれている様子の彼がそのことに気付くはずもなく、やるせないため息をついて、私はひたすら歩き続ける。
「良いですか、あまり私にくっついてはいけませんよ。犯罪者と間違われてしまいますからね」
どうやら彼女は本心から私のことを心配しているらしく、その言葉にどう反応すべきか、無精ひげを撫ぜながら私は大いに悩んだ。
「伸太郎、おみゃあ、カップ麺はどうするんだ」
「明日の朝買う。お前を商店街に連れて行けやしないんだから」
私たち三人が歩いているのは、アパートから出てすぐの山道である。
人の目があるところに院部を連れて行く訳にもいかず、やむを得ず私が勝手に「夜明けの道」と名付けて、そのキザな空気に一人酔いしれているこの道を歩くことにしたのである。
両側を林に挟まれたただの獣道ではあるが、数ヶ月ぶりの外出に舞い上がっているとようで、院部は文句ひとつ言わない。
月の上を歩くかのような足取りで進む彼をのんびりと追っていると、やにわに片足立ちの状態で院部が動きを止めた。何事かと近寄ろうとした瞬間、突如彼は右手の林の中に駆け出していったのである。
私たちは唖然として顔を見合わせてから、同時に別々の行動をとった。
彼女は院部を追うべく林へ走り出そうとし、私はその彼女を抱え上げて、今来た道を全力で引き返し始めたのである。
離して、と叫んで散々腹のあたりを蹴られたけれど、私はアパートに着くまで彼女を開放する気はさらさらなかった。
院部が林の中に飛び込む直前、左手側の林に、ふっと四つの光が浮かんだのである。ピンポン玉くらいのそれは、木々を掻き分けてゆっくりと道の中央に滑り出た。
宇宙人であった。宇宙人らしく黄色く光る丸い目をしていて、宇宙人の如く身長は私が彼女を肩車してもまだ届かないほど高く、宇宙人のように手は鉤爪状であった。
今一度私は声高に高主張したい。私は浪人生である、と。浪人生の本分は学業である、と。
従って、奇態な宇宙人に遭遇した際に、絹を裂くような悲鳴を上げて逃げ出すのは、浪人生として実に真っ当な行動であると。
これは宇宙人が恐ろしい故の言い訳ではない。極めて論理的に導き出されたこの世の真理であり、異論を挟む余地など毛程もない、偽りなき理である。ゆめゆめ疑うことなかれ。
だがこの鉄壁の論理も宇宙人には通用しないようで、アパートが見えてきたあたりで、前方の林から、今度は六つの光がぼうっと現れた。
ここに至ってようやく事態を把握した様子の彼女は、絶対離さないでくださいと、先程までと主張と百八十度真逆のことを叫んで、痛いほど私にしがみついてくる。
前に三体後ろに二体、進退窮まった私は、やむを得ず光のない林の中に飛び込んだ。しばらくアパートの方角を向いて走り続け、足音が聞こえてこないことに安心してから、そういえばさっき地面の上を滑るように移動していたから、足音がしないのは当然ではないかと思い直し、焦って駆け出したせいで三度ほど転びかけた。
どこをどう走ったのか、気がつくと私たちはアパートの裏手に立っていた。建物の角から正面の道路を伺ったが、もうあの宇宙人はいない。放心状態で彼女は地面に降りると、ふらふらと歩き出した。
とにかく千草を鸚屋家に送らなければ、と後ろを歩いていると、今度は彼女がはじかれたように走り出した。
てっきり背後のあの宇宙人が迫っているものかと思って、私も彼女を追うように走った。
後から聞いた話だが、彼女はこの時、祖父の住む一○一号室の戸が開いて、そこから慣れ親しんだ裸電球の灯りが漏れ出しているのを見て、ああ、私は助かったのだという安心と一緒に、無理矢理押し込めていた恐怖心が一気に溢れ出して、涙目になって走っていたそうだ。
一○一号室では、孫の帰りが遅いことを心配していた鸚屋孫吉が、妻の制止も聞かずに外へ探しに出ようとしていたところであった。
その胸に飛び込んできたのが当の孫娘で、しかも服は林の中でのランニングで汚れに汚れ、擦り傷さえこさえて涙目でしがみついてきたのだがら、その時の彼の驚きたるや、如何許りのものであっただろうか。
慌ててドアの外を見れば、無精髭を生やして、ズボンを引き上げながら、同じく必死の形相でこちらに走ってくる男がいる。訳も分からず再度孫娘を見下ろすと、彼女は上目遣いに「あの男の人に、伸太郎さんに」と言って、再び泣き出したのである。
普段の彼女の言動からは考えにくいことだが、彼女はその時「伸太郎さんに助けてもらった」と言おうとしたらしい。
しかし、轟々と渦巻く安堵の波に飲まれ、彼女はその言葉の後半部を喋ることができなかった。
乱れた衣服、体についた汚れ、涙を流す孫娘、ずり下がるズボン。
これらの要素が彼の頭の中で合体融合した時、言語道断の変態犯罪者、井筆菜伸太郎が彼の中に爆誕したのである。
私は一○一号室の前で減速すると、彼に宇宙人を見なかったかと訪ねようとした。
「あの――」
「人間のクズがッ」
七十二年分の血と汗と涙の結晶たるよく日に焼けた鋼鉄の拳に眉間を打ち砕かれたあたりで、その日の夜の私の記憶は途切れている。
院制文化のページをめくりながら、私はぬるくなった水入りのビニール袋を小型冷蔵庫に放り込んだ。
「やあ、見事な目の上のたんこぶ」
嬉々として騒ぐ院部の首元を掴んで引き寄せると、私は夜叉の如き形相で、
「お前、結局昨晩何処に消えやがった」
「いやん、怖い顔しないで」
患部を指で弾かれ、思わず手を離して悶絶する私を見て、院部はため息をついた。
「おのれらとは別ルートで逃げただけさね」
「あの宇宙人はなんなんだよ、お前の知り合いか」
「借金してる訳でもなしに、知人から逃げるわけがなかろ」
「お前も同じ地球外生命体なんだから、話があったりとかしないのか」
「あんな無表情な連中とコミュニケイトできるくらいなら、ヴォゴン人とだって仲良くなれらあね」
いつものように意味不明な院部の言葉を聞いている内に、ひどい頭痛がしてきて、結局私は藤原家の隆盛に思いを馳せる作業にもどる。
あの夜以降、彼女は私に対して少しだけしおらしくなった。未だに祖父の誤解が完全には解けていないことに引け目を感じての行動なのだとは思うのだが、その行為が逆に彼の疑いをより深くしていることに、彼女は気付かないままである。
前にも増して頻繁に二○三号室に訪れるようになったせいで、いよいよ私の勉強時間は削られてゆく。
「今日こそ行きましょうよ、凄く美味しいそうですよ」
「無論、我も同伴でお願いします」
「分かりました。じゃあ今から出す問題にどっちかが正解したら、僕は院部を連れてそのお店について行きます」
「男子に二言はありませんからね」
「よしきた」院部はなぜか指ボクシングの構えを取った。
「あるところに十人乗りの潜水艦がありました。ところが、この船に九人目が乗船したところで、船はあっという間に沈んでしまいました。なぜでしょうか」
「その九人目が百貫デブだったのだよ」
「きっと敵国のスパイだったのです。その船には要人も乗ってて、その人を消すために自分もろとも沈めたのです。間違いありません」
私は冷蔵庫から凍ったビニール袋を取り出して、患部にあてがった。
「潜水艦が沈まなくてどうするんです」
その日、我々は彼女の説教が驚異の五時間越えを達成したことを祝って、涙ながらに青汁を一気飲みして、盛大にむせた。
額の腫れは、未だにひかない。
綺羅ケンイチさんの『うろな町、六等星のビストロ』から、店名だけをお借りしました。
何か不都合な点などございましたら、ご連絡ください。