愛と絶望のジレンマ
再び煮玉子を口の中に放り込むと、永武さんはふわふわした口調で「とにかく」と言った。
「僕もそろそろこの町を去らなきゃならん、後のことはよろしく頼むぜ」
回らぬ舌でそれだけ言うと、突き飛ばされたかのように床に倒れこみ、あっと言う間に彼は寝息を立て始めた。
○
八月も末の頃である。
相変わらずの熱帯夜に辟易しながら、光源氏の常軌を逸したモテモテぶりに悪態をついていると、戸を叩く音が聞こえた。
青汁を持ってきた千草が惰性でまだ二○三号室に残っていたので、誰だろうかと訝しみながらドアを開けると、途端に強烈なアルコールの臭いが鼻を突いた。
私の知る限り、永武さんはあまりお酒を飲まない方であった。
秘宝館でバイトをしている時、彼は「喉が渇いたら、冷蔵庫の中にあるやつを適当に見繕って飲んでいいよ」と私に言って、卑屈な私は「ああ言ってはいるが、本当に飲んだら白い目で見られるかもしれん」といやらしい遠慮をして、なかなか手をつけなかった。
しかし、夏場に制服である覆面を着けて接客をしていると、無性に喉が渇くもので、ある日私はりんごジュースを一本だけ頂いたことがあった。
その際に見た冷蔵庫の中は綺麗に整頓されていて、黒ずんだ野菜のかけらが散逸する私の部屋のそれとは雲泥の差であったが、しかしアルコール飲料の類は一本も入っていなかったことを覚えている。
今、私の目の前で手すりにしがみつき、青白い顔でぷるぷると震えている永武さんの背中を、どうにも信じられない気持ちでさすっていると、不意に背後から「なんとまぁ!」と声がした。
私が彼女の方を向くよりも早く、千草は永武さんの手を取ると、早速彼をたしなめ始める。
「いけませんよ、永武さん。いけません」
口調こそ厳しいものの、満腔の笑みを浮かべている彼女の表情にうそ寒いものを感じながら、私は永武さんを二○三号室へと運んだ。
○
けしからぬ映像作品を大量にコレクションしている、という事実を考慮に入れても、依然永武さんは議論の余地無き好青年である。誰に対しても謙虚な物腰で接し、口を挟むべきでない時にはしっかりと自己を律するが、肝心な時には自らの意見をはっきりと表明できる強さを持っている。
一分の隙もない好漢であり、人類全般を馬鹿にしている節のある院部や、とにかく口をつっこみたがる千草、重要な局面になると途端に舌の廻らなくなる私とは話にもならないほどの違いがある。
だから、その夜泥酔状態にある永武さんの口から「彼女が出来たのだよ」という言葉を聞かされた時も、私はそれほど驚かなかった。
「それは、おめでとうございます」
食いついたのは千草である。「お相手はどういう人なんですか?」
「高校時代の同級生さ。いつだったかなあ、確か女教師もののレアなやつが地元のビデオ屋さんにあるって聞いたんだけど、なかなか目的の店が見つからなくてね、途方に暮れてた時に話しかけられて……」
「そんな阿呆みたいなきっかけで、友達に噂とかされると恥ずかしい関係へと発展したといいやがるのか」
「それ、嫌われてる時のセリフじゃあなかったっけ?」
深酔いしているためか、蒼い顔をしている割に、永武さんは普段よりもよくしゃべった。
つまみにでもなれば、とラーメンに入れようと作っておいた煮玉子を適当に切り分けて出すと、院部は露骨に嫌そうな顔をした。
「まあとにかく、それから今日まで、彼女と僕とは程よい付き合いの友人だった訳ですよ」
自体が急展開を迎えたのは、今朝のことであるという。
日課である商品のチェックを終え、さて新しいものでも仕入れに行こうか、とコーポを出ると、突然携帯が鳴りだした。彼女からの着信である。
「ちょっと話があるって言われて、電車で彼女の所まで出かけて行ったんだ。今までも二週間に一回くらいは遊びに誘われてたから、普段着のままでいいかな、と思ってたんだけど」
目的駅に到着した彼を迎えたのは、これから友人の披露宴があるのとでも言わんばかりにめかしこんだ同級生の姿であった。
ジーパン姿で気後れする永武さんの手を取り、彼女は意気揚々と街へ繰り出したのだという。
永武さんにとって幸運だったのは、前日の深夜、秘宝館にて「女教師の誘惑――二人だけの七時間目――」シリーズ全十三作品(外伝含む)が売れたことで、今朝の懐具合がだいぶ温まっていたことであった。
普段から守銭奴を自称し、親しい友人と食事に行った際には水道水で腹を膨らませて食事量を減らそうとするというほどの彼女が、その日は高級ブティックを見て回り、クラシック観賞のためにコンサートホールまでタクシーを拾ったりしたのである。
別けても永武さんを驚かせたことは、夕方になり「そろそろご飯にしようか」と彼が言った際、彼女が微笑みながら、
「実は予約しておいたお店があるんだ。結構雰囲気の良いレストランなんだよ」
「雰囲気どころか!」
煮玉子をつまむと、永武さんは恍惚と陶酔の入り混じったため息をついた。
「彼女、ミシュランに載ってるようなレストランのディナーを予約していたんだぜ」
擦り切れた普段着姿の永武さんが、その「結構雰囲気の良いレストラン」の前で如何なる感情を覚えたのか、言葉では説明できないけれども、私には痛いほどにその気持ちがわかる。こと要らぬ恥をかくことに関して、私はプロである。
針の筵に座らされたような気分で、ほとんど味もわからないままに食事を終え、呆然としていると、いつの間にか彼女に手を握られていたのだという。
「あとはまあ、言わなくてもわかるだろ」
照れくさそうに湯呑を弄りまわし、永武さんは下を向いた。
「それで告白されて、晴れて恋人になったというわけさ」
「素敵ですねえ!」
黄色い歓声をあげたのは千草である。
忙しなく手を動かし、我が事のように喜ぶ彼女の姿を眺めながら、しかし私は、何かしこりのようなものを感じていた。
「だがしかし、料金ばかりむやみと高いレストランで男女がすることといえば、普通は求婚交渉ではないのか?」
どこからそういう知識を得たのか、院部が私の抱えていた疑問をストレートに口にすると、永武さんは曖昧に首を振った。
「そう言われても、彼女の気まぐれだもの。それに、いずれは結婚も考えてるって言われたし」
そこまでしゃべると、やにわに彼は机に突っ伏し、「そうとも、結婚が問題なんだ」と呻いた。
その深刻そうな空気に私たちが口をはさめずにいると、腕の間からぷつぷつとつぶやきが聞こえてきた。
「彼女の親御さんは、がちがちの堅物でね。「男女七歳にして席を同じうせず」って言葉を床の間に飾るような人達なんだけど。どういうわけか彼女の男友達の中で、僕だけはお目こぼしに預かっていたんだ、今までは」
自虐的な笑みを浮かべながら、永武さんはゆっくりと顔を上げる。
「しかし、彼女と本格的に付き合うとなれば、必然、ご両親とも親しくならなければなるまい。するとどのような惨劇が予想されるか。陽光うららかな春の日、縁側で二人、将棋なんかを指している時に、お義父さんが謹厳実直そのものの声で僕にこう問う。
「あ~、君。今は私の趣味たる将棋に付き合っているわけだが、君も若いんだし、他に好きなものの一つでもあるんじゃあないかい」
笑顔を取り繕ってはいるけど、その瞳は冷徹無比、気に入らないものは容赦なくこき下ろすし、嘘は絶対に見抜かれる。そんな状況の中で、僕は馬鹿みたいな笑顔でこういうのさ。
「はい、実はAVの収集を少々」
たちまち僕は犯罪者と見なされ、地獄の果てまで石持て追われ、その足は二度と彼女の家の敷地を踏むことはないだろう」
そう言って、彼はうつろな笑い声を立てた。
「僕は彼女のことが嫌いではない……いや、こんなところで誤魔化しても意味ないか。白状するさ、そうとも、僕は彼女に惚れている!だが、彼女とお付き合いするということは、即ち全国百八つの秘宝館をすべて閉館し、その所蔵品を売るなり渡すなりしなければならないということにほかならない!」
ふらつく足で立ち上がり、両手を天に掲げて彼は再び呻いた。
「なんという地獄の二者択一!」
「AVってなんですか?」と執拗に尋ねてくる千草に「アニマルビデオの略です」と教えると、私は永武さんを宥めにかかる。
高校時代から収集し続け、秘宝館にコレクションされた映像作品は、彼にとって青春そのものである。秘宝館で働いていた時、私はそのことを何度も意識させられた。
新たなビデオを入荷した時、商品をお客さんに手渡す時、返却されたものをチェックする時。
そしてなにより、最後の紳士が店を去った後、薄明の差し込む秘宝館を掃除している際、ふと一本だけ作品を手に取り、それを手に入れた頃の思い出話をする時、永武さんはいつも笑顔だった。
かたや愛しき思い人、こなた美しき青春のスーベニール。あちらを立てればこちらが立たず。この愛と絶望のジレンマに際し、彼はどのような決断を下したのか。その時、私はようやく永武さんの常ならぬ深酒の理由を理解したのである。
「永武さん」
私は湯呑を取り出し、なみなみと琥珀色の液体を注いだ。
「今夜は飲みましょう。ほうじ茶と青汁しかないけど、それでも飲もうじゃあありませんか」
○
既に日付も変わり、永武さんが寝息を立て、院部も押入れに潜り込んでしまうと、私は残っていた卵をつまんで、皿を洗うため、流し台に立った。
「千草さん、そろそろ帰らないと、鸚屋さんが心配しますよ」
「大丈夫です、青汁を持ってくるときに、お爺ちゃんに言いましたから」
そう言って姿勢を正すと、彼女は私を睨めつけた。
「良い機会です。最近はちょっと忙しくて、あまりお説教ができませんでしたが、今日でその遅れを取り戻すのです」
恐らく、先程までは傷心の永武さんが起きていたので、ある程度の遠慮をしていたのだろう。
その鬱憤が溜まっていたのか、今の彼女の口角はうっすらと上がってる。ひょっとすると、今日の説教は夜明けまでかかるかもしれない。
しかし、私は説教を土壇場になって回避することに関しても、またプロである。
慣れた手つきで牛乳を温め、コンビニで買っておいたチョコレートを少しずつとかしてゆく。
「そもそも、食生活が良くないのです。朝からラーメンだけなんてもってのほか。きちんとした食事は、社会人としての常識なのですよ」
十分にとかしきってからコップに移し、少し冷ましてから炬燵に運ぶと、千草は寸刻の間説教を中断した。
「懐柔するつもりですか?」
「まさか」
喉が渇いていたのか、尚も不審げに私を見つめながら、説教の合間合間に少しずつ手を出し、彼女はあっという間にコップを空にしてしまった。
やがて、数分も経たずして、私の狙い通りになった。千草は船を漕ぎ始めたのである。
もとより千草は夜更しのできるタイプではない。説教への執念だけでこんな時間まで耐えてきたのだろうが、以下に説教好きとはいえ、夜半に飲むチョコレート入りのホットミルクには勝てないようである。
炬燵の上を片付けると、私は彼女を抱きかかえて二○三号室を出た。
○
一○一号室で私を出迎えてくれたのは、鸚屋さんの奥さんであった。
私が孫娘を抱えているのを見ると、彼女は上品な仕草で口元に手をやった。
「ごめんなさいね、こんな遅くまで……孫吉さん、さっきご友人の方と一緒に出かけちゃって」
千草を何処に寝かされば良いか尋ねると、和室に布団が強いてあるというので、私は一○一号室の玄関をくぐった。
どうにか千草を起こさないように和室まで運び、神棚に鎮座する爆弾を見て複雑な気分になった私が帰ろうとすると、不意に声をかけられた。
「本当にありがとうねえ、わざわざ送ってもらっちゃって。千草ちゃんもそろそろ帰っちゃうし、寂しかったんでしょうけど、ずっとお部屋にお邪魔するのはちょっとねえ」
「そろそろ帰る、とは?」
「ほら、もうすぐ学校が始まるじゃない。千草ちゃん、成績は申し分ないんだけど、やっぱり千恵子ちゃんも心配してるのね、九月からは家に帰ってきてほしいって言ってるのよ」
千恵子ちゃんなる人物に心当たりがなく、暫し狼狽えたが、しばらくしてその名前が千草の母親にあたることを思い出した。
彼女の両親は共に働いており、そのせいで一人娘の千草を家に残したまま何日も帰らない、ということが多々あったらしい。そのために、今年の初めから千草は祖父母のいるコーポ鸚屋に預けられていたのである。
「最近二人共お仕事が落ち着いてきたみたいでねえ、ちょっと前から三人で暮らしたいって言ってたの。ちょっと寂しくなっちゃうけど、千草ちゃん、お父さんもお母さんも大好きだから、きっと喜んでるわ」
私が呆然としていると、その阿呆面を好意に解釈してくれたのか、鸚屋さんは私にゆっくりと微笑みかけた。
「別に一生会えないって訳じゃあないのよ、土日くらいは顔を見せてくれると思うし……だから、そんなに悲しい顔をしなくっても大丈夫よ」
そう言って彼女は励ましてくれたが、、しかし私は失望などしていなかった。むしろ目も眩むような幸福感に打ちのめされていたのである。
その場で小躍りしたくなる衝動を押さえ込み、私は極めて紳士的に一○一号室を出た。そして階段を上りきってしまうと、我慢できずにその場で小さく快哉を叫んだ。
千草がコーポを出るということは、あの悍しき説教地獄からついに抜け出せるということではないか。
私は貴重な勉強時間を取り戻したのである。
○
部屋に戻ると、永武さんはベランダに出て風に吹かれていた。私が帰ってきたのを見ると、「だいぶ迷惑をかけたね」と苦笑いして頭を掻いた。
「さっき目が覚めてね、夜風に当たったら結構酔いが醒めたよ。ところで、千草ちゃんは?」
「今しがた、鸚屋さんの所に送ってきました。なんだか、九月になったらご両親のもとに帰るみたいですよ」
「へえ、そうすると来月から二人もこの家を出るのか。随分寂しくなるなあ」
私は万年床に座り込んだまま尋ねる。
「永武さんも、ここを離れるんですか」
「うん。各地の秘宝館にある在庫を、全部処分しないといけないからね。お得意様には閉店セールって伝えてあるから、さばくのはそんなに難しくないと思う」
どことなく秋めいてきた風を顔に受けながら、永武さんは優しげに笑った。それは、思い出話をしている問と全く同じ表情であった。
「AVを売りながらの全国行脚なんて阿呆な旅は、今しかできないからね、せいぜい楽しんでくるよ」
もう一度楽しげに微笑むと、彼はベランダを離れ、廊下への扉に手をかける。
「今日は悪かったね、埋め合わせは、今度必ずするから……」
「いいですよ、これくらい」
私がそう言うと、永武さんは申し訳なさそうに自室へと帰っていった。
ベランダに続く窓を閉めると、二○三号室は静寂に包まれた。祭りの後のような寂寥感を誤魔化すように、私はいそいそと万年床に潜り込む。
考えてみれば、数日後には今日のように四人が揃うこともなくなるのである。腐れ浪人、説教癖持ち、AV収集家、自称宇宙人という面子で一夜を過ごすというイベントが、今後の人生に再びありうるとも思えず、そうすると今宵の会談も、なにか非常に素晴らしいものであったというような気がして、柄にもなくセンチメンタルな気分になり、私は顔を覆って呻いた。
「おお、なんという切なさか!」
掛け布団を引き上げ、何度も寝返りをうつ。
「何か僕、今ものすごく青春してるっぽいぞ!」
妙に気分が昂ぶったまま捻転している内に、「院部にもこの感動を味あわせてやろう」と至極迷惑なことを思いつき、私はゆっくりと押入れの戸を開けた。
院部は、何一つ変わらぬ普段の院部であった。
即ち、黒ずんだ菌糸類の上に横たわり、不潔の総元締めのような人外じみた顔をしかめ、ひたすらに腹をかきむしっている、というロマンチシズムの欠片もない寝相である。
心の中の風船に穴を開けられたかの如く、感傷的な気分が急速に萎んでゆくのを感じ、私はため息をついて、そっと戸を閉じた。