二人の生活圏
大量の古着を抱えた千草が、二○三号室のドアを蹴り開け、靴だけは綺麗に脱ぎ揃えて四畳半に踏み込んできたのは、私が朝食用カップ麺のチャーシューを巡って、院部とじゃんけんをしていた時のことである。
手に持っていた服をぽんと放ると、彼女は私と院部のズボンを脱がし始め、我々は十四の乙女のような甲高い悲鳴をあげた。
「一大事なんです、今すぐ全部脱いでくださいッ」
下着を抑えてきゃあきゃあ逃げ回る二人に、彼女は焦燥に駆られた声でとんでもない要求をする。掛け布団を腰に巻き、どうにか、必ずしも猥褻とは言えないかもしれない姿になった私は、何があったのかと彼女に訪ねた。
「同級生に院部さんのことがバレたんです。今日の午後に、友達を誘ってウチに来ると。それまでに、お二人をなんとか人目に晒せるような格好にしないと、二学期からの私の学生生活が大変なことになってしまうんです!」
そう叫んで院部に飛びかかると、彼女は凄まじい勢いで次々と院部の服を剥いでゆく。
「いやあっ」と妙に色っぽく悶える院部を救うべく、ひいては千草に、今はまだ知るべきではない男体のあれやこれやを見せないために、私は彼女を止めに入った。
説教癖や家事における手際の良さなどの、子供らしからぬ数々の点のせいで、つい忘れてしまいがちではあるが、千草はれっきとしたうろな北小学校の六年生である。
私が自称宇宙人その他などで構成される歪な生活圏の中で日々を送っているように、彼女もまた、小学生のコミュニティ内で生活している。
その彼女側のコミュニティに属しているのが、自称宇宙人の正体を究明せんとする男子小学生、金井大作と相田慎也の二人である。南小の友人二人と共に、町内狭しと駆け回るこの少年たちに対する千草の評価が、ただの同級生から、今後の彼女の人生を左右するかもしれない存在へと変貌したのは、つい今朝方のことである。
私が駄々をこねて散歩を拒否したその日、院部とふたりで商店街を歩いていた千草は、小さな掲示板に張り出されたチラシに目を留めた。
海の家のオープンを知らせる可愛らしい文字に、彼女の心は一時肉体を離れ、幼い頃から慣れ親しんだ、うろなの砂浜へと飛んでゆく。
あの白い海岸で、伸太郎さんを正座させて説教ができたら、どんなにか良い気分だろうか。
「明日の予定は決まりです!」
一人でそう呟き、ふと振り返ると、院部が商店街の駄菓子屋「奥田商店」で、何やら大演説をぶっている。
「しからば、今日の正午に二○三号室まで来たれ勇者ども、そこで決着をつけんとす!」
「よし、覚悟しとけよ、その化けの皮をむいてやるからな!」
「間違っちゃいないけど生々しいよダイサク、化けの皮は剥ぐものだよ」
総身の血が引いてゆくようだったという。電光石火の勢いでオクダ屋に飛び込み、店主に挨拶をして院部を引きずり出すと、千草はアパートへの帰路を全力疾走し始めた。
パーカーのフード部分を掴んでいるせいで、彼の首が締まっているのを気にも留めず、彼女は足を動かしながら、忙しく頭を働かせる。
今からでも引き返して、駄菓子屋にいた同級生二人に院部を見せて、「これは宇宙人ではありませんから、今見たことは忘れてください」とでも言うのはどうだろうか。いや、かえって怪しまれるかもしれない。第一、じゃあ何なのだと問われたら、それこそ返す言葉が無い。
では、午後に訪れてきた彼らを、全く無視してしまうというのは。しかし、呼びつけておいて門前払いというのも、なかなかに不審な行動だ。
何より、院部という存在を知られた以上、なあなあにごまかしてしまうと、噂が拡散してしまう恐れがある。やはり、ここは一度腹を決めなくては。
コーポ鸚屋の前で足を止めた彼女は、二○三号室を見上げて、きっと睨みつけた。
道は二通りしかない。抱き込むか、さもなくば。
千草が悲壮な決意を固めたとき、院部は無呼吸のために、いよいよ人外じみたどす黒い顔色をして、泡を吹いていた。
仕上げに私の髪を二、三度なでつけると、踏み台から軽く音を立てて飛び降り、千草は私を前方から眺め回した。
「おじいちゃんのお古ですから、確かに多少時代錯誤の感はありますが」
ポマードの蓋を締めてから、彼女は私に手鏡を渡した。
「いつものジャージ姿よりは、大分ましでしょう」
手元に映し出された男の姿を見て、私は少々げんなりした。
確かに、無精髭を剃って髪を整えたこの格好ならば、後ろ指を指されることもなく、大手を振って往来を歩くことができるだろう。
もちろん、今が書生などの闊歩していた、明治大正の世であるのならば、である。
濁った緑茶のような色合いの着物を羽織ったまま、千草に不満げな目線を送ると、彼女はぱちぱちと瞬きをして、
「それとも、院部さんの服と交換しますか」
「結構です」
件の院部は、卸たてのスーツを着込んでいるのだが、妙に手足が細長いせいで、磨きぬかれた便器のような白い肌がそこかしこからチラチラと見え、烏の濡れ羽色をしたスーツとそれとの対比が、絶望的なまでの違和感を生じさせて、見る者全てに凄まじい生理的嫌悪感を催させる、悍しき生物兵器と化していた。
「まあ、誤魔化せない事もないと思いますよ」
出来るだけ彼を視界に入れない努力しながら、私は千草と自分を励ますように言った。
「少なくとも、一般的な宇宙人はスーツを着たりしませんから」
その時、控えめに戸が叩かれた。正午ちょうどのことであった。
三衣 千月さんの『うろなの小さな夏休み』より、金井大作君、相田慎也君の二人をお借りしました。
何か不都合な点などございましたら、ご連絡ください。