暁の紳士たち
近頃の院部は、頭を打った時の妄想を未だに引きずっている様子で、侵略宇宙人との徹底抗戦の準備に余念がない。
「そして懐に入ってきた奴を、我の必殺のコブラツイストでしめる、かくして世に平安は戻りにけり」
不可解なガラクタの詰まったダンボール箱を挟み、私と院部は差し向かいで話している。より正確に記述するならば、彼のご都合主義的妄想を、私が上の空で聞き流している、というのが、夜半過ぎの二○三号室の内情である。
先程まで院部が紹介していたのは、「遠赤外線照射光線銃」という武器で、なんとたった八十分間人体に浴びせ続けるだけで、そいつに水膨れを起こすことが出来るのだという。八十分間微動だにしない敵がいるかどうかは、この際問わないでおく、ということらしい。
「それじゃあこの、充電機能付鼻毛カッターとやらで、その宇宙人と戦う時はどうすんだ」
「よくぞ聞いてくれた。これは数ある武器の中でも一級品の武器ござりましてな、こうやって」と、棒状のそれを振り回して幻の侵略者を押入れの前に追い込み、やにわにカッターを打ち捨てて、
「そして奴の懐に飛び込み、我が究極のコブラツイストで」
「分かった、分かったから」
四畳半に空しく転がるカッターを拾い、彼のコレクション箱に放り込む。
「しかし、お前の戦いは、いつもコブラツイストで終わるな」
「必ず殺すと書いて必殺技なのですぜ、当然ではないか」
何やら物騒なことを口走る彼にダンボールを押し付けて、私はいそいそと外出の支度を整える。
「とにかく、そのコレクションを捨てられたくなかったら、ちゃんと人目につかない所に仕舞っておけよ。僕は今からバイトに行くから」
「ふん、せっかく対宇宙人対策宇宙人撲滅キャンペーン円卓会議に招集してやったというのに、後で後悔してもしらんぜ」
「何処の世界に、炬燵で円卓会議を開く馬鹿がいるよ」
もう寝ろよ、と注意をしてから部屋を出て、徒歩十秒もかからない仕事場へと急ぐ。
ここで、永武秘宝館の事について触れておこう。
世の偉大なる賢人たちの作り上げた素晴らしい作品の数々を、広く男性諸君に提供したい、というスタンスで成り立つこの店は、深夜二時にその扉を開く。
店内では、蠱惑的な商品の賃借売買の他、手にとった作品を試しに視聴するために、視聴覚室と名付けられた二○一号室へ続く扉も付いていて、訪客は充実した環境の中で心の赴くままに一夜の夢を追い求めることが出来る。
私が担当する仕事は、初回来訪客に店のシステムを説明することと、カタログからお客さんの求めるタイトルを探し、それが在庫しているかどうか、あるならば何処に在架しているかを調べることである。
一見さんといっても、永武秘宝館は看板すら出していないアンダーグラウンドな店だから、客の方も何処からか情報を仕入れてやってくるので、全くの初心者が訪れる事は殆どない。
また、商品が商品なだけに、そのタイトルはこの場では挙げられないような凄まじいものばかりで、もちろん親の前では到底口に出せないような商品名を、辺りを憚ることなく私に質問する猛者もいるにはいるが、大体の人は羞恥のために、社会問題や人類の未来について思索を巡らせているかの如く振舞いながら、棚の前をうろうろしている。
つまり、殆どの場合、台帳の前に二時間ただ座っているだけで、私はバイト代を得ることが出来たのである。けれど、私はそれを良しとせず、空いた時間を見つけては、商品棚の整理を行なったり、人のいない辺りの掃除をしていたりした。
といってもそれは、別段奉公心や親切心からやっていた訳ではなく、単に「本当に何もせずお給金を貰って帰ったら、永武さんに内心失望されるのではないか」という臆病な精神から出たもので、まあ褒められるものではなかった。
開店から一時間ほど経った頃であろうか、肌色占有率の高いパッケージを棚に押し込んで、ふと台帳の前を見ると、一人の男性が下を向いて立っているのが見えた。
慌てて足音を立てないように駆け戻り、私は覆面の下で笑顔を浮かべる。実際にお客さんの目に触れる訳ではないのだが、雰囲気は伝わるのである。
「何かお探しの物でも」
「これを借りたい」
台帳の横に投げ出された五本のビデオを見て、私はにわかに緊張した。
別に本数に驚いた訳ではない。二ヶ月に一回程度しか開店していなかった頃には、計四十二本の作品を借りようとして、ビデオを傷付けないよう、内側に衝撃吸収材を貼り付けたトランクケースを三つも持参した紳士をも、私は知っているのである。問題は量ではなく、質であった。
その作品たちは、主演女優がその撮影をきっかけに結婚したり、既に倒産してしまった会社の遺作であったりと、いずれも今は手に入れることの出来ない、貴重なものであった。これらを入手するために、永武さんは貯金の大部分を取り崩してしまい、一時は小麦粉と水だけを嘗めて、お金の入る営業日までを過ごしたという。
「それだけの価値があるんだ、この作品にはね」
そう言って、秘密基地の奥底に隠していた宝物を見せるような笑顔を浮かべた彼のその表情を、私は今も瞼の裏にありありと浮かべることが出来る。
その五本を狙い撃つように借りたいと申し出たこの男に、私は強烈な不信感を覚えた。真夏だというのに、床まで届くような長い外套を着込んで、室内でも山高帽を脱ごうとしないこの客に、一体どう応対すべきか。
私が黙ったままでいると、男は重ねられた五つのビデオの上に脂ぎった手を置き、ぷつぷつと何事かを呟き始めた。
「一人の男がいた。会社では生意気な部下を相手に良き上司を演じ、家に帰れば良き夫、良き父の仮面を、妻と二人の娘の前で被り続けなければならない生活に、男は疲れ果てていた。男は次第に、崇高なる映像作品に惹かれていった。特に、コスチュームプレイというものに、男は次第に傾倒していった。やがて男には共通の趣味を持つ仲間が出来た。彼らの目的はただ一つ」
「世に遍く存在する大人向けビデオ、その全てを、己が手中に」
後に続く言葉を引き取り、私は生唾を飲み込んだ。バイトを始めたばかりの頃に、永武さんの話していた冗談のような注意が思い出される。
「秘宝館のコレクションを狙う人たちの中でも、一際厄介な組織が一つだけあってね。中年の親父さんたちだけで構成されてるんだけど、中には奥さんのいる人も少なくない」
「そんないい大人が、ビデオを奪いに来るんですか」
私は思わず憤慨したのである。「仕事しろよ!」
「とにかく、人生経験も豊富だし、資金も潤沢。もしも襲ってこられた時のために、一応知っておくといいよ、彼らの名前は」
「大日本桃色調査委員会が一人、『コスプレのレイヤ』、このビデオ、貰い受けた!」
男が懐から霧吹きを取り出して吹き付けるのと、私が身を屈めるのとは、殆ど同時であった。制服であるマル秘マスク越しにも分かる刺激臭に顔をしかめて、何故か故郷の母のことを思い出した。
「トウガラシ水溶液か!」
母が家庭菜園に手を出した時、作物に何匹も虫が湧いて難儀したことがある。その際に、農薬の代わりとして母が用いたのが、トウガラシ水溶液である。
早い話が唐辛子の煮汁で、そいつを希釈したものを青虫に吹きかけると、面白いようにぽろぽろ落ちて行ったことを記憶している。
今、彼が私の顔面に吹き付けようとしたのもそれであろう。臭いからすると、大分薄めてあるようだが、それでも目に入ってしまったら、フランダースの犬を朗読する位の効果はあるはずだ。
横に転がってから立ち上がると、男は玄関から出て行くところであった。咄嗟に駆け出して廊下に飛び出すと、一瞬狼狽えた後、彼は手すりを乗り越えた。慌てて手すりに齧り付いて下を見れば、華麗な着地を決めた男が、通りに停めてある車に向かって、挫いたらしい足を引きずりながら懸命に走っている。
「おのれ、桃色調査委員会め!」
私はわざと大声で騒ぎ立てた。「娘さんが泣いてるぞ!」
「レイコの名前を出すな!」
思わず振り返った彼の顔をめがけて、私は右手に握りこんでいた秘密兵器を投げつけた。もやし高卒生の手から放たれたそれは、少し狙いを逸れて男の胸部に命中し、恥ずかしくなるような蛍光ピンクが彼の胸に広がって、「なんじゃこりゃあッ」という叫び声が上がった。
私が投擲したのは、永武さん謹製のお手製カラーボールである。中身を吸い出した卵の殻に、極めて落ちにくい塗料と凄まじい悪臭を発する液体をブレンドしたものを注入した爆弾で、炸裂した箇所にド派手な模様と耐え難い悪臭を付着させる、強力無比な防犯グッズである。
「一張羅なのに!」と悲痛な叫び声を上げる男を捕らえるべく、少しの間躊躇った後、私は手すりを乗り越え、怪我をしない程度に素早く地面に着地した。早さを追求するあまりに足を挫いて機動力を失っては意味がないという深い考えから出た行動だったのだが、恐る恐る立ち上がった時には既に遅く、「覚えていろ!」というお手本のような捨て台詞を吐いて、男は車に乗り、そのまま走り去ってしまった。
反射的に道路に飛び出そうとした私の背中に、「待て」という声がかかった。
振り返ると、二○二号室の前で、覆面をとった永武さんが手を振っている。
「戻ってきてくれたまえ、井筆菜君。君がいないと、商品の検索が出来ないんだ」
台帳の上にきちんと置かれた五本のビデオを見つけて、私は仰天した。まぎれもなく、それは盗まれたはずの作品たちであった。
一体あの騒ぎの中でどうやって、いやそもそも、何処にいたのか、と訊くと、彼はいつものように爽やかな笑顔を浮かべる。
「皆さんを避難させてたんだ。まさか毒ガスとまでは思わなかったけど、体に良いものじゃあなさそうだったしね、君の方は大丈夫だったかい」
「ええ、まあどうにか。それよりこのビデオは」
「簡単な話だよ、実は今日棚に置いてあったこの五本は、僕の作った偽物だったのさ」
にわかに推理モノじみて来たような気がして、私はまじまじと彼の顔を見つめた。
永武さんは切れ長の目をしているから、真面目な表情をすると、名探偵のように見えなくもないのである。彼はゆっくりと話し始めた。
「一昨日、桃色調査委員会から予告状が届いてね。だから一応作っておいたんだけど、まさか成功するとは思わなかった」
「それだけですか」
情けないワトソンは思わずため息をついた。巧みなロジックもなにもあったものではない。「でしたら、最初に言ってくれれば良かったのに」
「冗談みたいな予告状だったからさ、実際の商品の貸し借りは僕がやってるし、もし借りたいって人が来たら、レジの時に入れ替えれば良いと思ってたんだ、申し訳ない」
深々と頭を下げられて、私はひどく恐縮した。彼は振り返ると、数人いたお客さんに向かっても、再度謝った。
「この度は私の注意不足のせいで、皆様に多大な迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。お詫びと言ってはなんですが、本日お借りになる商品につきましては、借料はいただきません」
私も彼に倣って頭を下げると、やにわにお客さんの方から「頭を上げてくれ」と声がした。
見れば、あの四十二本の紳士が、永武さんの手を握って、涙さえ浮かべていた。
「いやなに、無料なんてそんな、申し訳ないのはこちらです。騒ぎの直後、入り口近くにいた私を、身を挺して庇ってくれた恩人に頭を下げさせるなんて、いやはや、私はむしろ今日の賃料を多めに支払ってもいいくらいです」
頬のあたりが赤らんでいて、どうやら少し酔っているご様子である。
周りの人々も口々に「私も多く払うぞ!」「いやもう財布を置いてく!」「いっそ娘を嫁にだね!」といたく感激しているようで、次々と私たちの近くに歩み寄って来ては、感謝の言葉を述べる。
永武さんは、真から嬉しそうな笑顔を浮かべて、何度もお礼の言葉を繰り返していた。
「というような具合で、僕の投げた爆弾は、過たず敵に命中した。それが、これだ」
今となっては、何故そんなことをしたのかわからない。明け方に特有の、頭の芯が弱火で熱せられているかのようなあの高揚感のせいだったのであろうか。
私は卵型爆弾をいくつか二○三号室に持ち帰ってきて、事件のあらましを、特に私の活躍する部分に色を付けて、既に起き出していた院部に語っていた。
「お前にそんな投球センスがあろうとはな。しかし、この白球の中身はなんぞや」
塗料といくつかの汁だと説明すると、彼は露骨に侮るような笑顔を浮かべて爆弾を見下ろした。
「へ、そんな貧弱な武装なんぞより、もっと強力なのがこちらにはありけるのですぞ」
「別に殺傷力を求めてる訳じゃあないんだよ、防犯グッズなんだから」
私がそう反論するのも聞かず、院部は先程の銃を取り出すと、
「こいつの最大出力を目の当たりにし、その威力にビックラこくが良いわッ」
薄ら赤い光が卵を照らすのを見届けてから、私は万年床を整え始める。横になって炬燵越しに、なんとなく院部の方を見ていると、ふとあることに気がついた。
私は幼い頃から半熟卵が好きで、よく親に無理を言って作ってもらっていたのだが、ある日、何かのテレビ番組で、水と一緒に卵を電子レンジに入れて、五分だか十分だか温めると、美味い半熟卵が出来るという情報を得て、これだ、と思ったのである。
料理の素人ほど、余計な工夫を加えたがるというが、当時の私も、番組内で再三注意されていた「水と一緒に入れること」「空気穴を開けること」という二手順を、意図的に省いてしまった。これは、テレビの中で出来た半熟卵が、私の最も好む半固形の半熟卵ではなく、液体状であったために、子供の浅知恵で、「水が熱を吸収し、空気穴が熱を放出してしまうのならば、ただの卵をそのまま温めれば、熱が逃げずに半固形の半熟卵が出来上がるはずだ」と考えてしまったが故に起こった悲劇であった。
結果、煩悶を抱える青少年の如く、熱せられたことによって発生した大量の水蒸気を溜め込んだ卵は、レンジから取り出すために触れた手の衝撃だけで爆発してしまい、私は軽い火傷を負った。
今、眼前に見える炬燵にくっついているのは、遠赤外線装置である。レンジに使われているのも、規格は違うが同じ仕組みのものであるはずだ。そして院部が構えているものは遠赤外線照射光線銃で、彼はそれで卵を温めている。
いわば連想ゲームのように導き出された最悪の結末に、私は慄然として、ろくに使ったことのない腹筋を酷使し、がばと半身を起こした。
「おかしいな、こんだけあっためてやりゃあ、ひよこの一匹や二匹」
そう言って、彼は指をデコピンの形にして、ゆっくりと卵に手を伸ばした。
私が取ることの出来た行動は、精々布団を引っ被って防御姿勢をとることだけであった。
その直後に起こった惨事の有様については、諸賢のご想像にお任せする。ただ一つ言い切れるのは、恐らく想像の二○三号室よりも、現実の方が遥かに凄惨な状態に陥ったであろう、ということだけである。
以降、院部はラーメンに乗った煮玉子にすら、非常に怖がるようになった。
庭訓。宇宙人に卵を与えてはいけない。