既知との遭遇
玄関近くの壁に張り付いていた蛾を刺激しないよう、細心の注意を払ってドアを開くと、その隙間にゆっくりと体を滑り込ませる。三和土に散らばっている靴を蹴ってしまい、ぴくりと蛾が反応して、瞬間血の凍るような思いをしたが、幸い奴はまだ壁に張り付いたままである。ドアの外に残っていた右足を内側に入れると、私は安心して戸を閉める作業に入った。
ここまでくれば、よほど迂闊な失敗でもしない限り、外敵が入ってくることはできまい。勝者の笑みを浮かべながら、私は戸を引いた。
「慌てんぼうのサンタクロースめがっ」
万年床からぴたぴたと足音がして、振り返ると、宇宙人がプラスチックの縄跳びを持ってこちらに突っ込んでくるところであった。
とっさのことで身をかわすことも出来ず、半開きのドアに押し付けられて、我々二人は廊下に転がり出た。
途端に、人の顔ほどもある蛾が、こちらをめがけて飛んでくる。
「ぎゃっ、泥棒だけでも厄介なのに、この上敵襲とはっ」
「馬鹿ッ、誰が泥棒だ、俺だ、井筆菜 伸太郎だよ」
「おのれ、顔面のみならず、声帯までも忠実にコピーするとは、所属を名乗れいっ」
「阿呆なことを言ってるんじゃあねえっ」
その内に、憎いアンチクショウがぺたりと頭に張り付き、宇宙人はいよいよ見境をなくしても悶えする。
「わあ、もう駄目だ。もし我が死んだら裏庭にお墓を作ってくれ」
「阿呆、それよりこの縄を解けッ」
実に残念なお知らせだが、自称宇宙人の院部 団蔵は美少女ではない。美が少ない年寄り、という意味では美少年かもしれないが、実際、年の方もよく分からないのである。
異星人らしい目つき、地球人とは思えぬ耳、ベテルギウス星系人のような頭、地球外生命体じみた顔つき。
これらが院部の偽らざる全てである。有機物も無機物も引っ括めて、地球上で彼に欠片でも似ているものはない。無理矢理例えるならば、太陽の塔を人間大にして、噛み付き、捻り、蹴倒し、踏みつけ、唾を吐きかけた上で、極めて悪意に解釈すれば、多少は似てくるかもしれない。
しかし、著名な文化財にそんなことをする人間がいるはずもないから、殆どの人類は、彼の顔面に少しでも似ているものを全く見ることなしに生涯を送ることができるだろう。
これはとても幸いなことだと、私は思う。四月にうろな町に越してきて以来、私は目撃した瞬間、反射的に憎しみを覚えるくらい、この顔には苦労してきたのである。
失敗談というものは他人事だからこそ面白いのであって、語る当人にとっては苦痛以外の何物でもない。なので、手短に説明させていただく。
私井筆菜伸太郎は、今年の二月、大学受験に失敗し、失意の中で迎えた卒業式では悪い風邪をひきこんでめまいを起こして、三年間の嫌な思い出ばかりが頭の中を回りだして吐きかけ、家に帰ってからは、家族の純粋な思いやりから出る一つ一つの言葉が、逆に私の尊大な自尊心をめった切りにして、いよいよ身の置き場がなくなり、息も絶え絶えに親戚のつてを頼って、うろな町まで逃げてきた。
私がお世話になっているのは、町の西側、山裾にひっそりと建つ小さな二階建てのアパート「コーポ鸚屋」である。日によく焼けたお爺ちゃんのお肌のような肌色をした木造のこの建物の、二階の角部屋の四畳半で私は寝起きしている。
家賃は恐ろしく安い。というのも、このアパートの持ち主たる鸚屋一家には、採算を度外視してでも、二階奥の角部屋に人を入れておきたい事情があるからだ。
それが院部団蔵の存在である。
半年ほど前に山から降りてきたこの生物は、鸚屋家の一瞬の隙を突いてアパートに住み着いてしまったのである。アパート内において神出鬼没を誇るこいつが、最も好んで出入りするのが二○三号室、つまり二階奥の角部屋であった。
家賃も入れず、傲然と万年床に寝転がって惰眠を貪るこのナマモノを、鸚屋家が追い払わない理由は二つある。
とにかく騒ぎを大きくしたくない、というのがそのうちの一つである。ただでさえ安い以外の魅力がないコーポ鸚屋にとって、悪評はたった一つだけでも、その風前の灯を吹き消す最後のひと吹きになりかねない。警察に通報するなんてことは、以ての外であった。
かと言って、ただ放っておく訳にも行かない。厄介なことに、院部は人に構ってもらいたがる性質があり、誰にも遊んでもらえないことが分かると、拗ねて外出しようとする癖まであった。そのまま二度と帰ってこなければ万々歳なのだが、残念ながら彼には帰巣本能が備わっているらしく、十九時前までには帰ってくるのである。
こんなのが出入りしていることが周りに知られたら、商売上がったりである。解決策は、奴を家から出さないことだ。しかし、それは一日二十四時間、常に彼と共に暮らすことを意味する。
一昼夜彼のお守りをするという、人間としての尊厳を踏みにじられるような行為を、引き受ける人間が何処にいるだろうか。
何のことはない。私がコーポ鸚屋に白羽の矢を立てた時、向こうもまた、私の白髪交じりの頭髪を掻き分け、皺の少ない我が脳をめがけて白羽の矢を突き立てていたのである。
けれども、これらは些細な理由である。違法に滞在する自称宇宙人が門前に蹴り出されない最も大きな理由は、鸚屋家の孫娘、鸚屋 千草と深い関わりがある。
裸電球の下で、まだ柔らかい髭をこすりながらカップ麺をすすっていると、控えめに戸を叩く音がした。弾丸の如く飛び出す院部の足を掴んで引き倒すと、私は悠々と玄関のドアを開けた。
「やあ、千草さんじゃあないか、何かありましたか」
「夜ご飯のあまりを持ってきましたよ」
小柄な体に味噌汁の入った大鍋を抱え、粉末青汁を握りしめて部屋に入ってきた彼女は、三和土に散乱する靴を見て笑顔になり、私の無精髭を見て目を輝かせ、丸裸の炬燵の上に置かれたカップ麺を見て嬌声を上げた。
「いけません。いけませんよ、こんな生活態度では」
あら、おばんですね、と院部には勿体無いくらいの丁寧な挨拶をすると、彼女は鍋をカップ麺の横に置いて、早速玄関の靴を整え始めた。
うろな北小学校に通う小学六年生、鸚屋千草には、頭脳明晰で礼儀正しく、誰にでも優しく接し悪いことには悪いとはっきり言える心の強さがある。そしてまた、そういった数々の美点を打ち消してなお余りある一つの精神的欠点がある。
駄目人間が好きなのである。それも、駄目であれば駄目なほど、世話をしてやりたくなるのだという。
彼女が老人や赤ん坊に優しく接するのは、決して尊き人間愛に依るものではなく、その者の生殺与奪の権をおのが手のひらに握ることに、堪えられない恍惚を感じるがゆえの行動なのである。
そんな人間の目に浪人生と自称宇宙人はどう映るか。これについては、私が貧弱な語彙を振り絞り、勿体ぶって説明するよりかは、二○三号室における彼女の行動を逐一描写した方が分かりやすいだろう。
いつの間にか、彼女は二人分の青汁と味噌汁を用意し終えていた。この青汁は、彼女の祖父、鸚屋 孫吉がテレビの通販で買ってしまったもので、院部はこれを蛇蝎の如く嫌い、それでも彼女に逆らうことはできず、口をへの字にしてちびちび嘗めては、こんなものに効果はないと毒づくのである。
どうも彼女は、そのリアクションを見たいがために毎晩これを持ってきているきらいがある。
ぴっぴと服の裾を伸ばすと、彼女はまだまだ仕事があると言わんばかりに、今度は院部が寝床にしているせいで、乱れに乱れている押し入れに突撃した。
「あ、いや、待たれよ、そこはいじらんでいいから」
泡を食って彼女を引き止めると、院部は産毛すら生えていない奇怪な腕で肩をはっしとつかみ、
「離してください、私、どうしてもあそこが掃除したいんです」
「へへ、我のところなんぞより、もっと酷い箇所がありますぜ」
ぴくんと反応した彼女に、院部が指差したのは私の勉強机である。
「見たまえ、あの汚れ具合。もはや奴一人ではどうしようもない。やはり千草ちゃんがいないと、あそこは生涯綺麗にならんよ」
ぎょっとして、私はすぐさま反論を開始する。
「いや、あんなのなんかより、余程酷いものだぜ、その押し入れは。こないだなんか、茸が生えてたぞ、茸が」
「ほれ、あの机の黒ずみ方ときたら、勉強すると言いながら、実際には頬杖ついて寝てるだけだ。あの黒ずみは、やつの涎とケシカスが混じり合って化学結合したものでっせ。我々ベテルギウス星系人は涎どころか汗なんてものもかかないから、押し入れの中も新品同様でありまするぞ」
「コノヤロウ、お前、俺がカップ麺買ってくる度に、涎垂らして『一口くれ』ってうるさいじゃあないか」
「黙れ、下賤の者。あれは宇宙的に見てすごい清潔な汁だから、すごく全然汚くないですよ」
互いに罪を擦り付け合う私たちを、彼女はうっとりと見つめたまま動かない。駄目人間に夢中になる自分自身もまた、かなりの駄目人間であることに、彼女は未だ気付かない。
私たちがこれほどまでに彼女の手が入ることを嫌うのは、ひとえに彼女の説教が長いということにかかっている。
もし彼女が世話をするだけして、何も言わないような子であったら、我々も人間の屑が如く彼女をこき使うだろうが、彼女は一通り掃除が終わると、まず我々に正座を要求するのである。世話を焼いてもらった手前、従わぬ訳にも行かず、渋々と座り込むと、そこから彼女の愉悦の時間が始まる。
これがまた呆れかえるほど長い。二時間を超えるのは当たり前、今のところの最長記録は四時間半で、これは午後六時から始まって以降途切れることなく続き、流石に帰りが遅すぎると、下の階に住む彼女の祖父母が迎えに来た時には、既に二人共下半身の感覚がなくなっていた。
しかもこの説教、ただ長いだけではなく、的確に心を抉るような台詞が適宜組み込まれているのである。今思い出しても涙が出てくるほどの辛辣な言葉の数々であるから、ここには記さないが、とにかく惰性で聞き流せるような代物ではなかったのである。
当然、そんな言葉は聞きたくない。しかし、一度世話をやくポイントを見つけた彼女を止めるのは至難の業である。
そこで、注意を逸らすために、同居人の汚点を突くことになる。元々良くはなかった交友がさらに悪化する。ストレス発散のために相手の掃除を邪魔したり、汚してやったりする。彼女の説教はますます長くなる。彼女ばかりが得をする地獄の悪循環が出来てから、もう二ヶ月近く経つ。当然、勉強ははかどりやしない。
なんの用事だったか、ある日友人から電話があって、その時に身の回りの現状を一切の脚色をせずに話したことがある。
「駄目人間好きの美少女が身の回りのお世話を焼いてくれるだと」
友人は歯も砕けよと言わんばかりの歯軋りを、電話口にて披露してみせた。「今すぐ自害して果てろ!」
「羨ましいと思うのなら代わってやろうか、お前も一度、小学生にプライドを踏みにじられてみろ。怒りすらわかんよ、あるのはただ憎しみだけだ」
それが彼女に対するものかどうかはわからんがね、と私は締めくくった。
友人は、何も言わなかった。
説教が終わって、晴れ晴れとした表情で帰る彼女を見送ってから、私は床に倒れこむ。
ひとつ枕投げでもしてみるか、と沸き立つ院部を押し入れにしまい込むと、布団に潜り込んで早々に眠りに就いた。
目が覚めたのは四時頃である。引っ越したばかりの頃、同居人が出来たのが嬉しかったのか、院部は朝日が昇るよりも早くに私を叩き起して(文字通り頭を叩くのである。おかげで最初の数週間、私たちの朝は取っ組み合いの喧嘩から始まっていた)ひたすら会話を試みていたのである。
けれど、やがてそれにも飽きたのか、彼は大体七時くらいに起床するようになり、私だけが早起きの習慣を引きずっているのである。
私はゆっくりと起き上がると、履きつぶしたスニーカーをつっかけて散歩に出る。
山が近くにあるからか、アパートの付近は風通しがよく、熱帯夜と騒がれるような日でも、汗ばむことなく散歩に繰り出すことができる。
夜陰にひっそりと佇む木造アパートは、それ自体が生き物であるかの如く見えて、ふっと風が吹くと、まるで寝息を立てているかのようにすら思えるのである。
私はしばらく山道を登ると、振り返って町の中心部あたりを眺めた。灯り一つない商店街を見下ろしていると、突然陽の光がその一角を照らし出した。金の絵筆を滑らせるようにして、瞬く間に町が色づいてゆく。
夜明けが来る度に、私はここから町を眺めて、改めて思う。
やたらに節足動物の湧き出るアパートの、扇風機すらない一室で、意味不明な同居人と共に暮らし、天平文化や不定詞と戦い、大家の孫娘に馬鹿にされながらも、それでも、朝日が町を照らす度に思うのである。
うろな町は、実に良いところであると。
底抜けに綺麗な景色を見てから、薄汚れたアパートに帰ると、そのあまりの落差にうんざりさせられる。羽虫の死骸を踏みつけて二○三号室に入ると、実に誇らしげな顔をした院部が立っていた。
「長く苦しい戦いであった」
手に握られたチラシには、形容するのを憚られるような色の汁がこびりついている。「ビザ」「更新」という言葉だけが、その隙間からかろうじて読み取れた。
「しかし、ついに我は此れを征服す。完全勝利ですぞえ」
私の布団の上に、憎いアンチクショウが見るも無残な姿で張り付いていた。チラシについていたのと同色の液体が、ゆっくりと布団に染み込んでゆく。
「さあ、勇者にお褒めの言葉を授けくださいまし」
院部は恭しく跪いて、私に頭を垂れた。丁度、彼の頭は蛾の死体の真上にあった。
私が彼にどのような恩賞を授けたかは、この際書かないでおくことにする。
ただ、院部はその日から青汁を飲めるようになった。
「蛾に比べりゃ全然苦くない」と彼は後に語っている。




