始まりの7歳
私は7歳の時に成人した。
もちろん、法律上の成人ではない。はるか昔の元服の話ではなく、遠い未開の異文化の話でもない。
ただ、私は7歳にして精神的に親に頼ることをしなくなった。念のため付言すれば虐待の話でもない。肉体的にも制度的にも親の庇護下にあり、親からは十分な庇護を与えられ、精神面は年齢相応に未熟であったことも事実だ。
しかし私は小学校に入学したあの日から、独りで修羅の道を歩んできた。独りで観察し、独りで考え、独りで決断し、道なき道を体当たりで切り開いていく。
私の心はあの日以来、休まることを知らなかった。そのことに今まで気付きもしなかった。
私立小学校という階級闘争の場において武器となるのは本人の実力と実家の後ろ楯の二本立てだ。幸いなことに実家の後ろ楯だけでは勝てない点において、子どもなりの平等意識が機能している民主的な環境であった。粒揃いの私立小学校の児童たちは、在学する以上、闘いから「降りる」という選択肢を持ち合わせなかった。在学し続けたければ、闘う。闘いが嫌ならいつでも退学し公立小学校に転校できる。そういう選択の自由が与えられていた点も非常に民主的だ。
この高いレベルに民主的な自由競争社会に私は飛び込んだのである。当然ながら実家の後ろ楯はない。後ろ楯とは、親の資産、学歴、職歴、収入、住んでいる場所といったもので判断される。
入学前から自分には後ろ楯がないことは認識していた。しかし、後ろ楯の価値までは理解できていなかったと今ならば分かる。親は弱冠6歳の子ども同士の間でこんなにもシビアな階級闘争が行われているとは明らかに想像していなかった。敵は常に鵜の目鷹の目で相手の失態を待ち構え、カーストを下げようと狙ってくる。
私の小学校時代には無邪気な時間が全くなかった。習い事をしない理由、流行品を入手できない理由、塾に通わない理由、お金のかかる遊びの誘いを断る理由、長期休暇に海外旅行をしない理由、こういった様々な場面が試練となる。迂闊な返答をすれば即恥をかく。すぐ分かる嘘をつけば悪評が立つ。体面を保ちながら上手にかわす方法を、毎度薄氷を踏むような心地で必死に考えた。小学校低学年のうちは不慣れで居心地の悪い思いをしたり、失敗することもあったが、次第に慣れていった。
親に訴えたところで無駄だった。親に変えられることがあればとっくに変えているのだから。親はこの闘いの勝ち方についても無知だった。こういった諸々の制約条件を悟り、諦め、自分の力だけでやっていくと決心したのが7歳の時である。
まずいことに、私の実力の方も不足していた。習字やそろばんを習っている同級生たちには逆立ちしても敵わず、運動は苦手、図工も下手で、取り柄のない子どもであった。
それでも、ビリではなかった。
私はすでに出遅れている国語や算数での巻き返しを諦め、理科と社会と英語の先取りに力を入れ始めた。
さらに幸いなことに、私は体格には恵まれていた。身長は学年でも1、2番目の背の高さだった。成長は足の骨ばかりに偏り、すべての栄養は縦方向に消費された。おそらく私を哀れに思った神のご加護だろう。この体格が私を守ってくれた。
理科や社会の本は図書館や本屋で読めた。歴史の本を夢中になって読み、歴史好きな父と会話し、美術館に通い、知識を増やしていくうちに、私は「物知り」というポジションを手に入れた。
下校中の電車で楽しめるお金のかからない新しいゲームを考案し、文房具屋を何軒も巡って安くて物珍しい文房具を収集し、「アイデアマン」という評価も得た。そして毎晩ヨガをして体型を整えた。
低学年の頃は日々の生活で頬がこけるほどのストレスだったが無我の境地で耐え、出血を伴う物理攻撃を受けても怯まず、総攻撃のような逆境もはね除け、同級生の誰が敵か味方か日和見か見極めて付き合うようになっていった。
この頃になると、私の弱味であった後ろ楯の無さでさえ武器として扱えるようになった。私の後ろ楯の無さを侮辱しようとする人間に対して、その卑怯さを指摘すれば反撃として役立つことに気付いたのだ。
笑いたければ笑え、自分の力では変えられないことを公然と馬鹿にして自分の品格や評判を落とさない自信があるならやってみるがいい、と腹をくくったのだ。
私に心境の変化をもたらしたのは心理学の勉強だった。目につく範囲で読める難易度の心理学の本を図書館で読み漁った。
その結果、物事には優先順位が必要であること、他人の影響で精神が蝕まれること、捨てるべきものは捨てざるをえないこと、自分の内面と深く向き合って本心を探る方法を覚えた。
私は両親と自分の身を護るために、祖父母や叔父叔母との絶縁を決断し、家庭内の精神的安定を再構築した。
この時点で完全に、私がこの家を支えていくという決意が固まっていた。以後、私は勉強に打ち込み、大学受験と就職で有利な結果を掴むことに集中する生活を送った。すべては、家族が今より良い生活を送るための努力だった。




