HUNDRED TO ONE
手首の震えを感じ、本能的に起き上がる。と言っても、元来人間にこんな本能は備わっていなかったはずだが。二秒も経たず、雨透穹狐は左に見える洗面台の前へと立ち、捻っても数秒間しか水の出ない蛇口で器用に顔を洗っていた。ベッドに手をつく、という一瞬の怠惰も許されないような環境で育まれた無意識下の離れ技だった。
「国家規定アラーム、七時です、七時です」
遅れて、手首の液晶が高らかに叫ぶ。国民保護管理デバイス「心腦」は、全身の血液の循環から健康状態、また国民自身の行動、更には装着者の感情まで把握可能な優れ物だ。穹狐は一拭きで顔の水を全て拭き取ってから、鏡に向かって口を動かす。
「おはようございます! 顕堯様の加護を享受出来ることに今日も感謝し、仰せのままに奉仕させていただきます! 全ては顕堯様のために!」
「健全な起床を確認」
機械的な音声と共に、手首がじんと熱くなる。血管の浮き出る細々とした、しかしそれでいて筋肉を感じさせる腕が反射的に一瞬の震えを見せた。その熱の感覚の後、画面上の模範国民メーターは緩やかな進みを見せる。生まれた時から接着された心腦の液晶はもはや皮膚と同化しており、違和感など歩き始めた頃にはもう消えていた。
手の届く位置にある冷蔵庫を開ける。中には大量のスパウトパウチ。銀色の画一的なパッケージの列の中から一つを取り、乳飲み子のように飲み口に吸い付く。口内に入ってくるゼリーを、もはや舌を通さずに直接喉へ流し込む。味などない。でもそれでいい。顕堯様に奉仕できる栄養さえ取れればいいのだ。またじんと手首が熱くなり、液晶上のメーターが進む。思考が評価されたらしい。
ベッドのフットボード側にあるテレビがひとりでに点く。時間だ。パウチをゴミ箱に捨て、今の位置から首を捻るだけで見れる画面に、穹狐は限りなく近づきあぐらをかく。
「こちら、安全保障局です。顕堯様が表出される時間となりました。国民の皆さん、身を委ねてください」
呼びかけるは、全身純白の国民服に身を包む政府組織「安全保障局」の組織員の一人。闇に包まれた部屋でライトに照らされており、顔に張り付く皺がその風格を目立たせている。
ピー、という電子音が鳴って画面が切り替わると、今度はまた別の暗闇に包まれただだっ広い部屋が映された。床材が木であることしか分からない視界の悪さ。画面の中心にスポットライトが当たる。照らされたのは、地面から長く伸びる大理石の台に、尊く鎮座されている一体の銅像だった。
限りなく真球に近い形をした、体。その円周を埋めるように、無数の腕が規則的かつ放射螺旋状に外に伸びており、先端にある手のひらは指を大きく開いている。全体の様相はさながら太陽。そして体の真ん中には大きな一つの目が堂々と。黒みがかった深い青緑の全身には目立つ、緋色の目だ。
「顕堯様……!」
まさにこれが、人類に光をもたらす救いの神様であり、大指導者として祀りあげられるべき存在、顕堯。太陽神という枠組みには収まらず、テレビや心腦といった電脳的な光までも恩恵としてもたらしてくれる超越的存在。じっと手を合わせ、穹狐はその緋色の目と自分の薄茶色の双眸を画面越しに合わせる。銅像の光沢が淡い光に反射してぬらぬらと輝く。深淵、そう形容するに値する蠢く宇宙の壮大なる比喩。儀礼で頭を下げるその寸前まで、彼の視線は顕堯に向いていた。生まれてすぐに教えられた経典を音読する。頭の中でページを巡り続ける途切れなしの二十分間を経て、またじんと手首に熱を感じた。
「模範国民メーターが、10ポイント蓄積されました。大指導者様の教本vol.1と交換出来ますが、消費しますか?」
心腦の言葉に、穹狐は心中で「もうそれは持ってる」と唱えて視線をテレビ台の下の本棚にやった。教本や指導書の数々が三段全てに綺麗に埋められている。心腦はすぐに意図を理解し、自動的にスリープモードへ移行した。
テレビが消え、それと同時に立ち上がる。ベッドの下に置いてある白い国民服を上下間髪なく着用して、ズボンのポケットから取り出した櫛で髪をかきあげ、おでこの見える男性規範の髪型に整える。玄関のノブにかけてあるバッグを取り、そのまま外へと出た。本来の出勤予定時刻よりも少し早いが、彼にとってはいつも通りだった。
明京都の街並みは、時代が違えば文化財にでもなったであろう整頓された様相だった。碁盤の目状に区画された土地に等間隔に置かれるは、混凝土の壁で四方を囲まれた正方形の家々。どの国民のものも内装、外装共に統一されており、安全保障局の謳う平等をまさに体現している。家と家の間に走る無数の道路には、少ない頻度でロングホイールベースの白い車が駆けていく。乗っているのは、政府関係者や支配層の人々のみだ。国民が貨幣を持つ時代はもう数十年前に終焉を迎えた。「欲」の象徴である金は汚らわしく、顕堯の怒りを買うとして例外なく政府に回収されたそれらは、今では顕堯に関わる仕事を行う支配層達によってこのように活用されることとなった。一切の不満なき待遇である。車が切った風が、そこらの家や電柱に貼ってある顕堯のポスターを激しく揺らす。「あなたは常に顕堯様の元にある」という上下の文言に挟まれるようにして、白黒に抽象化されたデザインの顕堯はその緋色の目で街中に視線を張り巡らせている。
目前に横断歩道が迫ってきた。歩行者信号の根元に佇む一人の男と目が合う。制服が張るほどの剛健な肉体、膝に装着されているは白い滑らかな銃身のハンドガン。臆せず穹狐は近づく。彼の鋭い目つきを受け流すように、純然たる笑顔を浮かべたまま。案の定、政府警察の男はドスの聞いた声で釘を刺してきた。
「止まれ。既定の奉仕時刻にはまだ早いぞ」
「ああすいません。ちょっとここらの信号を掃除させていただきたいと思いまして」
「掃除?」
「はい、顕堯様への奉仕心が抑えきれないものですから。ここに雑巾が一枚入ってます」
差し出された鞄を見て、警官は眉間に皺を寄せる。他の警官との無線を取り合っている間も穹狐は、一切彼から目線を逸らすことはなかった。
「了解。……この鞄の中から雑巾一枚だけを取れ。それ以外は一旦こちらで預からせてもらう」
「お気遣い感謝します」
簡単な荷物確認をこなすと、少し離れたところで警官に見られながら穹狐は信号の柱を丁寧に拭き始めた。力任せではなく、表面を静かになぞる。車が通らない時間帯の街の静けさはまるで水の中。手の感覚だけに意識が吸い込まれ、柱の表面の凹凸のその一つ一つが手のひらをくすぐってくるのがよく分かる。柱の根元から届く限界まで上に手を伸ばす。上げ切ったら、また下に。今度は、上に。往復を繰り返す。遠くに見える政府当局の本部である要塞じみた官邸の頂点に立てられた、顕堯が映る巨大な旗に視線をやりながら。上、下。ああ、今、僕は顕堯様の役に立てているんだ。外には出さない、そんな忠誠心が手首にじんと熱を帯びさせた。メーターが進む。
しばらく経って、人がぞろぞろと外へ出始めてきた。時を忘れて掃除を行っていたせいか、近くで監視していたはずの警官はもはや退屈そうに頭を掻きつつ預かった鞄を足で粗末に挟んであくびを見せている。掃除の手は止まった。横断歩道に人が並び始めたからだ。一瞬口角を下げてから、色の違う笑顔で穹狐は多くの荷物を重そうに肩に抱える老婆に声をかける。
「そこのお姉さん。随分、多くの荷物を背負われてますね。よかったらあちらの歩道まで、僕お持ちしますよ」
腰の曲がった彼女は俯いた姿勢から首だけをゆっくりとこちらに上げた。顔を走る皺の数は年齢に比べて格段に多く、その溝も深かった。目の奥には漆黒の闇が広がっていて、まぶたが上を見ることを拒否しているようにも思えた。
「それは……顕堯様のためかい?」
「ええ、もちろん!」
腹から出した底抜けの明るい声に、彼女は思わず薄ら笑いを浮かべていた。そこからは躊躇いなく穹狐に荷物を渡し、彼が何の気なしに運び切って見せると、彼女は再びその重い荷物を背中に背負った。
「熱心だねぇ……あんたは」
去っていく彼女のわざとみたいな短い足取りを横目に、追い越すように心腦のメーターが進むのを感じた。その感覚以降、彼は彼女の顔を忘れた。
再び戻り、雑巾を柱に滑らせていると、信号待ちをする人々が近くにいくらか溜まってきた。その中のスクールバッグを背負った子供二人が、何やらこちらをしきりに見てくる。不審に思っていると、彼らの方から近づいて穹狐に話しかけてきた。
「「おはようございます、お兄さん」」
「おはよう」
「あの、突然すいません。僕、健って言います。僕の友達の蓮の話を、ちょっと聞いてくれませんか? 最近こいつ変なんです」
「変?」
穹狐が手を止めて返す。蓮は不本意だというような表情で、健の前に体を入れて穹狐を見上げるようにして目を合わす。
「変なことではないよ。むしろ、真実かもしれない。なあ、あんた。顕堯様のこと、相当崇拝してるみたいだよね。さっきから政府当局の旗とか、ポスターを注視してるし」
「もちろん。自分でもこの区域内では、相当の信心深さだと自負しているけどね」
蓮は周囲を見渡してから、もう一度向き直り今度は囁くように語る。
「……その顕堯様によく触れてるあんたなら分かるはずだ。どこかおかしいとは思わないか、この社会のシステムが」
言葉を放った瞬間。ビー、という暴力的な電子音と共に蓮の心腦が赤く発光する。模範国民メーターの減少と共に手首に流れる電流に、彼は声を出さずに悶える。隣にいる健が気の毒そうに見守りながらも、彼は再び言葉を続けた。
「顕堯様に実体なんかない。あの政府官邸にあるただの銅像が、偶像として存在するだけなんだ。あいつは生きてなんかない、故に意思も皆無。なのに……今みたいに顕堯様の教えに背くことを行うと罰が下る。こんなの辻褄が合わない。そもそも、こんな思考を管理する機器が生まれた時から人間の体に接着されていること自体がおかしい」
穹狐は首を傾げた。蓮の言っていることが嘘偽りなく、理解できなかったのだ。諭すような優しい声色で返す。
「君は不思議な子だな。辻褄も何も、顕堯様はあの政府官邸にいるじゃないか。あれが本物以外の何なんだい? 君達も学校でそう習っただろ」
「あんなの……ただの金属の塊だろ! 結局俺達国民は政府の良いように思考を管理されてるんだ。政府に都合の悪いことを考えた者が罰を下され反逆は根元から淘汰される、そんな抑圧的な社会に今生かされてて────」
「うわぁぁああああ!」
蓮が言い終わる前に、反対側の歩道から叫び声が聞こえてきた。穹狐達を含め、信号待ちをしている人々が一斉に視線を移す。叫ぶ男は、両腕を二人の政府警察に掴まれ、まさに連れていかれる真っ最中であった。激しい抵抗を繰り返しながら、区域中に響く声量で主張を撒き散らす。
「お前ら! この国は腐ってる! 顕堯とかいう訳の分からない存在に服従させて、政府や支配層はお前らの金をむしり取って暮らしてるんだ!」
「黙れ! それ以上抵抗するなら即座に処刑するぞ!」
「やってみろ! 俺は自由になるんだあああ!」
二人の警官が銃を取り出したのにも関わらず、男は抵抗を止めず、遂に彼は歩道の真ん中で地面に押し付けられるようにして拘束された。そしてそれからはすぐで、銃声が二発、その場を支配した。暴君は次の瞬間には遺体となり、警官に運ばれていった。信号が青になる。待っていた人々が歩き出す中、蓮だけはその光景を見て全身を震わせ始めた。
「や、やっぱりだ……! この世界の構造に気づいた者はみな……!」
歯を食いしばり、後退りする。そう呟いた彼の心腦は轟音をさせてから画面の色を赤黒く染めた。
「模範国民メーター、ゼロ。模範国民メーター、ゼロ。有害国民です。直ちに処罰を要します」
息を呑んで、蓮は目を血走らせる。手首の皮膚と一体化していて取れないはずの、心腦の液晶を指で掴んで引き剥がそうとする。それが徒労と分かると、泣きじゃくりながら赤黒く光る画面を自暴自棄に叩き始めた。吠える飼い犬を黙らせるかの如く、何度も、何度も。そのまま誰のことも見向きもせず、彼はただ必死に駆け出した。だが、そのわずか五歩目。実体の持たない水色の電子の弾丸が、彼の頭を貫き、全身が地面へと伏した。穹狐の荷物を足に置いていた警官が銃を膝に戻すと、また壁を背もたれにしながらあくびをした。その光景を呆然と見ている健に、穹狐はしゃがんで目線を合わせて呟く。
「君は、あんな風になっちゃだめだよ。顕堯様を大切にするんだぞ」
「う、うん」
手首が熱くなり、またメーターが進んだのを感じる。健はもう登校の時間だ、と信号を渡っていき、その様子を手を振って送った。久しぶりの静寂。一度嘆息した穹狐は警官から荷物を引き渡してもらい、平然と次の目的地へ向かった。その途中、彼はあの無惨に転がる幼い屍を思い返しながら舌で唇を湿らす。
「そういうのは、うまくやんないとなぁ」
クッションなんてない、プラスチックの座面が国民服ごと腰に食い込んでもう久しい。机の端にあるケースから左手で緑の基板と部品諸々を取り出し、右手に持ったはんだごてでそれらをはんだ付けしては、完成品を目の前のベルトコンベアに乗せていく。単純作業ながら、油断すればすぐに両肘を当ててしまうほど隣との距離は近い。そんな仕事場、いや奉仕場での決して良好とは言えない待遇下でも、穹狐は眉間に皺を寄せることさえ無駄に思い、直感的に手を動かしていく。ほんの少し目線を上げる。横にも縦にも並ぶは、同じ作業を行う老若男女の白服達。ざっと百、もっとか、恐らく二百人程度、揃ってマニュアル通りに作業を重ねる。抵抗器、ダイオード、コンデンサを接着、ひっくり返し、裏面に集積回路、トランジスタ、センサー、トランスと順々に接着していく。もはや彼は手元を一切見ずにそのままコンベアへと流し切った。またすぐ別の基盤を机に取り出し、作業を始める。今度は視線を作業員の間を闊歩する一人の剛健たる男に移した。
「丁寧かつ迅速に! 顕堯様への奉仕の機会を頂けることを有難く思え!」
手を後ろに組み、芯の太い声を響かせるのは奉仕場E地区の管轄長。朝から巡回を続けるその鋭い眼光は、作業者達一人一人の加工速度、手元、振舞いなどを悉く監視し続けていた。三六〇度の管制塔、と比喩される彼の出で立ちは名ばかりではなく、現に彼の監視により今月だけでももう何十人もの検挙者が出ており、彼の包囲網から逃れることはもはや困難だとされていた。ただ一人を除いては。
穹狐は唇を舐めるふりをして一瞬舌を口腔前庭の左部に入れ、中に入れていた五×五ミリの青い基板を持ち上げる。ほぼ同じ瞬間、唾液を拭こうと唇に近づいたように見えた左手がそれを捉え、手のひらにパームした状態で机に戻した。手元を見ないが故の迅速、管轄長はこちらに気付いていない。表情ひとつ変えず、彼は机上の緑の基盤に部品を取り付ける隙間を縫うように、手のひらに一瞬はんだごてを触れさせ、青い基盤の組み立ても同時並行で進めていく。緑の基盤には次はトランジスタ、青の基盤には抵抗器二つ。頭の中で整理しつつも心腦がアラームを鳴らすことはない。視線で管轄長を追いながら、目的は順調に達成されようとしていた。
ふと、前から鈍重に歩いてくる老翁に管轄長が敬礼をする。老翁はそんな彼の振舞いを大仰だといなすように軽く手を挙げてからすれ違った。揺れる藍鼠の羽織袴、積もりかけの雪に思える白髪、年の割には恰幅の良い体躯。奉仕場では稀に見かける姿だ。それもそのはず、彼はこの奉仕場を建設する際に政府に資金を調達した富豪のうちの一人であり、今でも行政の様々な援助を行っているいわゆる支配層だ。彼の持つ木の一本杖を床に突く音が、はんだの焼けた匂いに混じって冷たく響く中、その音を止めると顔に皺を寄せてしゃがれた声を吐く。
「君、ちょいと遅いなぁ。ちゃんとやっとらんと」
作業員の背中を杖で何度も突く。体が揺れるほどの強さだが、作業員はその横槍に屈することなく作業を続けようとしている。
「ほら手元狂っとるぞ。さあさあさあ、ああもうさっさとそんなん済ませ」
富豪は杖を突く力を強め、下卑た笑い混じりの言葉で更に焦燥を駆り立てた。作業員は反抗できるはずもなくただその時が過ぎ去るのを待つしかなかった。気が済むと、彼は杖を突きながらまた通路を歩き、次の標的のために顔を見回していた。
気の毒だなんて思いさえも想起寸前で顕堯への奉仕精神に変えた穹狐は、微量に放浪していた意識を戻し、これまで以上に素早く手を動かす。コンベアに一、二、三と小気味よく緑の基盤を出荷していく中、視界で捉えることがほとんど不可能な、微小の青い基盤を手の感覚だけで組み上げていく。あと抵抗器を数個付ければ。
「百二十八番、手を止めろ」
背後からの高圧的な言葉が全身を駆け巡った。見下ろす管轄長のその目は、完全に疑念を持った時のそれだった。彼の指示に従ってはんだごてを一旦台に置き、ゆっくりと腰を上げる。停滞していた血流が鎖を解き放った感覚に恍惚を覚えつつ、手のひらの中に隠し持っている青い基盤の存在がありありと伝わってくるのを感じて、穹狐は唇を噛む。
「作業内での不審な動きが見られた。この場で全身を確認させて貰う。手を挙げろ」
立っても顔一つ分大きい管轄官の身長は、この場ではあまりにも圧政的だった。だがそれでも穹狐は、まるで子供が花を見つけた時の純粋無垢な笑顔で返した。
「分かりました」
手を挙げようと刹那に身を屈めた瞬間、彼は口角を微かに上げる。爪先の重心をわずかに管轄長側へ向けて前傾姿勢となり、穹狐は彼の体に被さるような形を演出した。そして目だけを限界まで上げ、管轄長のその高々とした鼻に狙いを定める。手のひらに収まっていた基盤を親指で掬うと、そのまま、弾いた。全てがコンベアの駆動音よりも小さく、政府警察の放つ弾丸よりも素早く行われ、基盤は管轄長の鼻の中へと消えていった。倒れそうになる穹狐が、管轄長に片腕で跳ね除けられる際、耳に口を近づけてほとんど無声音で囁く。
「去れ」
そして、元の位置に戻ってきた二人。再び対面する管轄長の双眸には光が無くなっていた。彼はどこか意識を虚ろにさせながら、一応の習わしのように穹狐の体を軽く触ると、作業に戻れ、と呟き、通路をまた歩き出していった。座り、作業を再開した頃。管轄長は遠くで瞼を大きく開き、頭を大きく振るような動作を見せた。まるで、途切れた意識が戻ったような。穹狐は口腔前庭の右部から取り出したもう一つの基盤を組み立てながら、やはり生者かつ不完全な基盤では効果が薄いのだなと再確認した。
燃ゆる夕焼けが空に墜ち、建物の混凝土が僅かに紅葉色に包まれる。帰路に着きつつ、穹狐は脳内で顕堯への忠誠心を高めていた。もはや癖のように心腦の模範国民メーターは進んだ。歩いている最中、ふと道路の死角から男が飛び出してきた。避けきれず、思わず肩がぶつかってしまう。その時、何かがその男の懐から落ちたのが分かった。地面から拾い上げると、それは手で包み込める大きさの封筒だった。
「あのすいません! これ……」
思わず振り返って持ち主に呼びかける。だが、その途中で言葉が詰まった。段々と遠ざかっていく、その男のやけに整ったベージュのスーツの後ろ姿。穹狐はその瞬間全てを理解し、静かに封筒を手の中に収めた。
見慣れた自室で鞄を下ろす。それから何をすべきかはもう分かっていた。封筒を開けて中から手紙と一枚の写真が飛び出す。全てを確認する前に手紙にテープで貼り付けられている細く黒い柄を取り出した。背面にあるボタンを押す。すると、柄の中から青色の電子の刃がポップアップした。鞄の奥底で丸まっていた雑巾を取り出し口に咥える。彼はその刃を手首に這わせ、そしてほんの少し強く目を瞑ってから振り下ろした。心腦が接着された皮膚の表面ごと切れ、それらが床に落ちる。付けて剥がしてを繰り返しているから、感触はもはや軽く、血など出ることはなかった。口から投げ捨てた雑巾には歯形が付いていた。
手首を軽く振り、自由になった体の底から安堵の嘆息をする。刃は使い切りで、形を構成していた電子はもう既に空気中に溶けていた。折りたたまれていた柄を開いて櫛にし、前髪を下ろしていく。ああなんてふしだらな格好だろう。心腦なき今、もはや思考や行動が読み取られることはない。封筒を拾い上げ、中身を確認する。写真には、奉仕場内を彷徨っていたあの富豪の姿が映っていた。名を郷砂重光郎、というようだ。つまり彼が今日の標的というわけだ。手紙に書かれた、集合場所、遂行時刻、現場、標的の特徴……等々に軽く目を通し、迫る集合時刻に後押しされながら準備を始めた。テレビ台の下の棚を開け、顕堯の教本を全て取り出す。それぞれのページの間に挟まれているは、大量の部品。棚底から引っ張り出した器具を使ってそれらを急いで組み上げていく。図面、マニュアルなどは一切ない。唯一の手がかりは政府警察となるべく接触し、本物の外装から内部構造を想像すること。徐々に形になっていく。外からはもう何の音も聞こえてこなくなって、完全な日没を感じられた。
出来た。彼らが使っているのと全く同じ、白く滑らかなボディの制裁用拳銃。政府から盗んできた材料だから当たり前か。床に皮膚ごと転がっている心腦の液晶の表面に電極パッドをつけ、伸びる導線の先は銃の先端部分にある本来は充電ソケットとなる部分に繋げる。ノイズ混じりの画面を映す心腦から、今日溜めた模範国民メーターに換算される電力を銃に移していく。くるぶしを人差し指で叩きつつ、銃身全体に這う青い光の濃度が濃くなってくるのを確認。
メーターがゼロになる寸前でパッドを取り外す。ベッドに心腦を放り投げ、銃を鞄へと詰め込んだ。教本の群を棚に戻す前に、穹狐はvol.1の最後のページに挟んでいた、四つ折りの皺だらけの紙を鞄に入れた。続けて手紙も入れ、それから部屋を元通りの状態にした。立ち上がる。もうすぐ時間だ。鞄を持ち、前髪越しに見る扉を開けた。目の前には今この瞬間に偶然止まったように思える黒い車が停まっていた。
「それで、今回は仕留めるだけじゃないんでしょ?」
後部座席で、支給された黒いスーツに着替える。顔を隠した運転手に命を預けるのは少々癪だ。揺れる体。同じく支給された無線をつけながら通信先へと声を発すると、芯の太い低音の声が返ってきた。
「ああ。お前ならあとはみなまで言わなくて分かるだろ」
「ってかさボス。今日ちょっと封筒渡すの下手じゃなかった? なんかすげぇ肩痛めそうだったんだけど」
「任務に関係のない話は慎め、エージェントK」
「……とか言ってるけど。別に俺、あんた達の理念に賛成してるわけじゃないし」
「……」
手を首の後ろで組み、飄々と返答する。不躾な態度に通信先のボスも言葉を詰まらせ、息を漏らす音のみが耳元にしばらく響く。
「まあでもいいじゃん。あんたは国を取り戻すために支配層を打倒したい、俺は政府官邸内の顕堯様に近づくために邪魔者を排除したい、目的は違えど利害は一致してるんだから」
依然、通信先の彼は黙りこくっていた。それからしばらくして絞り出すような声が聞こえてきた。
「……遠くない未来。もし政府が崩壊して我らが国を動かすようになった時、お前は……どちらにつくんだ」
「何? もしかしてボス、俺が怖いの?」
半笑いで放った言葉の中には、冗談のニュアンスを含んだはずだった。それでもボスは一切声色を変えない。腹の中が震えるような低音が鼓膜に密着してくる。
「正直、お前は普通じゃない。他の奴らの持つ信念や正義とやらとはまるで違う……狂気じみた衝動を感じるんだ、この粗雑な音質の機器越しですらも。私含んで少なくとも野放しにするべきではないと、組織は方針を固めている」
「……そりゃ、ごくろうさん。言っとくけど、今んとこどっちにもつく気はねえよ。俺はただ、自分でも分からない自分のために生き続けるだけだ」
視線を上げる。車の窓越しに見える、政府官邸が大分大きくなってきた。昼に作業をした奉仕場がすぐ前にあり、その横に伸びた直方体の建物と比べてみてもやはり官邸は別格というように縦、横どちらも二倍以上はあった。月明かりに照らされずに影となっている輪郭だけのそれは、昼間とはまた違った静かなる闇を思わせる。建物の半分までが石壁で覆われ、それが全方位に張り巡らされているまさに要塞。
「エージェントK。今回銃に貯めたエネルギーはいくらだ」
「あー……。一日分かな」
息を飲む音がノイズ混じりに聞こえてくる。
「……何発分になる?」
「一発、だな」
「……日頃から任務のために貯めておけと言っただろ」
「いやわかってんだけどさ。どうしても顕堯様の新しい教本が欲しくて、ちょっと……我慢できなかった」
前と同じ言い訳をしたのに気づいたのは、ボスがもう何度目かも分からないため息を今日一番深くついた時だった。掲げた銃の引き金に指をかけ、銃身をくるくると回す。
「まあいけんだろ。ボス、もう今官邸前通った。じきだぜ」
「把握済みだ。潜入場所は手紙の通りだが、そこに行くには政府官邸裏の関係者駐車場に向かう必要がある。官邸向かって左にある西ゲートの警備員はチップ挿入済みだ。こちらから操って通過可能にさせよう。そのあとは、任せる」
「了解」
通信を切る。政府官邸前の道路を駆け抜けていく車は右に旋回し、敷地内へ進むための西ゲートへ進んでいく。降りているゲートバーが見える。守衛所の前で止まると、案の定その中に座っている警備員が顔を上げた。穹狐が窓を開ける。目を少し細めた警備員は彼の顔を訝しげに見つつ、規定の文言を並べる。
「通過希望でしたら、身分証明書のご提示をお願いします」
「ベー」
穹狐は、右目を人差し指で下に引っ張り、舌を出した。双眸に宿るは嘲笑を含む、子供じみたいたずら心。瞬間、警備員は電流が流れたかの如く背筋を伸ばし、目を大きく見開いた。霞みがかった表情から霧は晴れ、無理やり笑顔にさせられているように口角が小刻みに痙攣している。
「確認取れました! どうぞお通りください!」
「はい、さんきゅー」
ゲートバーが上がり、車は発進した。窓から吹き込んでくる風が髪を揺らめかせる。官邸を横目に見つつ、運転手の華麗なハンドリングにより遂に駐車場へと入ったのを確認した。地平線まで続いているかのような無駄に広大な土地。適当な場所で駐車し、穹狐はドアに手をかける。
「じゃ、また後で」
車内に言葉を残し、彼は車を降りた。静かだ。人工的な平地を横目に、やはり地上はつくづく殺風景だと任務前に何度感じたか分からない不満をまたも反芻する。袖を直しながら足を進める度に、はためく黒いスーツが夜の暗闇と同化を始めていた。
駐車場の端に着くのにそこまで時間はかからなかった。そこには自分の身長よりも少し高いほどの石の箱。前面に見えているボタンを押す。チーン、という音が鳴って前面が開く。エレベーターだ。中に入り、扉が閉まる。地下へ、地下へと進んでいく感覚。その間に彼は目元に仮面をつける。二分ほど経って、ようやく見飽きた石の扉が二つに割れ、光が差し込んできた。それは太陽のような温かみのある物とは程遠い、眼をつんざいてしまう加減を知らないネオンの刃だった。
エレベーターを出て、目的の場所へ向かう。「桃源郷」、支配層がそう呼ぶこの地下にはいわゆる歓楽街が広がっていた。視線の両脇には遊郭的な施設がずらっと並んでおり、客を誘引するためにそれぞれの店前でスタッフが声を上げている。生活区域の閑散とした雰囲気が堅苦しい妄想に思える、人の入り乱れ具合。路地はそこを通ろうとする者、店に誘おうとする者、また道の真ん中で前戯未満を行う者で埋まっていた。そのほとんどが民衆から巻き上げた金で豪遊する支配層達と、その接待を行う男女。彼ら・彼女らは支配層への「奉仕者」と呼ばれ、ビジネスチャンスを求めて国外から雇われに来た者や、中には以前地上で非国民として処罰されたはずの者もいた。下卑た笑い声、甘ったるい香り、刺さる光。地上で失われたはずの色が皮肉にもここには全てあった。歩き続けること数分。穹狐は自分と同じ服装をしたスタッフがいるホテルを発見した。潜入場所は、あそこだ。ジャケット越しに内ポケットに入っている銃身の表面の凹凸を手のひらでゆっくりとなぞる。興奮で息が漏れるのを必死に抑え込みながら、彼は少しずつ歩幅の間隔を大きくした。
エレベーターが昇っていく中、重光郎の周囲を囲む女性達は必死に声を上げていた。その自分の武器だと理解する豊満な肉体を、わざとらしく彼に当てがいつつ。
「ねぇ重光郎様〜。今夜は私を選んでくださらない?」
「重光郎様〜。私、一度でいいからあなたと一緒に寝てみたいわ〜」
「私、精一杯ご奉仕いたしますわ。ですから重光郎様、私を選んでくださいまし」
口々に彼女達は甘い声で囁きかける。事実、ここに集まる八人の女性は全員重光郎が呼んだ好みの者ばかりであった。先ほどまで別の店で酒を酌み交わし、その成り行きでこのホテルに連れてきたのだ。エレベーターが開き、杖を支えに部屋へと近づく。全員を中に入れてもいいのだが、重光郎は一人を選ぶことにより、選ばれなかった女性が嫉妬の表情を見せ、悪辣な態度を見せるのが楽しみであった。選ばれなかった者は重光郎に好まれようと必死に画策し、一度選ばれた者は更に自分が選ばれようと足掻き続ける。少しばかり高い金を払うだけで、こうも人間の薄汚い部分が見れることが彼にとっては面白かったのだ。
「今日は、神楽ちゃんにしようかね」
部屋の前で、神楽という源氏名の女性の肩を抱く。選ばれた彼女は彼に笑顔を向けつつも他の女性達には鋭い視線を向けていた。二人で部屋に入る。このホテルで一番グレードが高いものを選んだからか、目につく設備のそれぞれが滲み出る高級感を隠せていなかった。革製のソファ、最高画質のテレビ、国外の展覧会で目に触れた記憶のある絵画、高級素材のキングベッド。神楽は自分が選ばれたという高揚感で入った途端、煽てるようにこの絢爛な部屋を選ぶことの出来る重光郎の財力に言及したが、彼は自分の家の敷地の広大さを思い出して内心嘲笑していた。
入るや否や、重光郎は鼻を鳴らして空気を何度か嗅いだ。どうしましたか、と聞いてくる神楽に何でもないと返すと、二人はソファに座って与太話を始めた。彼と彼女の距離が物理的に近まるのは、そこまで経ってない頃だった。神楽の白い柔らかな手が、羽織袴越しに重光郎の太ももを優しく撫でる。
「先、シャワー浴びられますか?」
「いや、神楽ちゃんからでいいよ」
「いいのですか?」
「ああ」
「……それでは、お言葉に甘えて」
乾いた頬に接吻をしてから立ち上がり、彼女は部屋の奥の浴室に入った。遠くで扉の閉まる音。ソファに座る重光郎は静寂の中、両手で地面に突いている杖に体重を預け、うーん、と唸り声を上げた。目を瞑り、緩やかな呼吸を繰り返す。吸って、吐いて。また吸って。吐いて。
金属音。突如左頬に向けられた銃を杖で翻す。軽やかにそれを振り回しながら立ち上がり、距離を取って先端をソファの後ろに立つ黒いスーツの男、穹狐に向ける。対して、彼は銃口を重光郎に向けて牽制を行う。
「やはり、ソファの下に隠れておったか」
重光郎は最初から匂いで違和感に気づいていた。穹狐は自分の顔に張り付く仮面を外し懐にしまうと、その前髪のカーテンを通して双眸を露わにする。
「歳の割に随分身のこなしがいいんだな」
「わしの命を狙おうとする者はごまんといるからのう、貴様もその一人じゃな?」
杖で彼の顔を指すと、その問いに事実上答えていると言える目線をこちらに浴びせてきた。切迫した状況下で二人は見合う。銃口を再び強く突きつけられる。それでも重光郎は口角を上げていた。杖の持ち手部分の一部を親指で弾き、ヒンジで中の隠されたボタンを露出させる。それを押したまま杖を口元に近づけると、杖内のスピーカーから声が聞こえてきた。
「こちら政府警察。どうぞ」
「今、わしの命を狙っている者が目の前におる」
「了解。至急応援に向かいます」
通信はすぐに切れた。あまりにも迅速な対応に、流石の穹狐も動揺しているようで全身を震わせているようだった。息遣いが段々と荒くなる。そんな彼の顔を俯かせ悶える姿に、重光郎は追い詰めるように言葉を続けた。
「じきに政府警察がここに来る。さすれば、お前の身分も、お前を雇う組織も、全て明るみに出ることになるだろう」
穹狐の体の震えは尋常じゃなく強まっていた。重光郎は怯える彼への征服感に酔いしれそうになった。だが、次に彼が顔を上げた時。そこには恐怖でもなく、衰弱でもなく、得も言われぬ濁った沸騰を抑えきれないというような狂気の笑みがあった。彼は人差し指を痙攣させつつ、重光郎の羽織袴に付く紋所を指差した。それはまさしく、大指導者である顕堯の姿があしらわれたものだった。目の焦点はもはやその紋所にしか合っていない。銃を向けたまま、彼は重光郎の方へ千鳥足で進み始め。
「あぁ、わりい……。殺す以上のこと……しちゃうかも……」
言葉を漏らすと、全身を使って一心不乱に駆け出してきた。重光郎は迫力に圧倒されながらも、襲いかかってくる彼の体を杖で受け流す。ベッドの上を転がっていく、細身の体躯。床に落ちたと思ったら今度はその下の隙間を四つん這いで通り、蜘蛛さながらに接近してくる。地面を蹴って飛び上がると、あろうことか穹狐は勢いよく銃身を振り下ろした。重光郎は杖の中腹でそれを受ける。カン、と金属と木の甲高い衝突音が響いたと思えば、それを火蓋に何度もその音が続く。カン、カン、カン。穹狐が動き、重光郎がそれをいなす。だが、穹狐は思考よりも先に手を出しているようで、それゆえに実現された高速の動きに重光郎は段々と壁に追い詰められていく。血走る目。命知らずの衝動。それは確かに人間に恐怖を覚えさせ、圧倒させるのには十分だった。しかし、重光郎はその本能的な行動に生まれる隙を狙っていた。
持っている杖の前後を入れ替え、銃口の部分に持ち手を引っ掛ける。手首を捻らせ、杖を勢いよく動かすと梃子の原理で銃はベッドルームの隅へと飛んでいった。そのまま、一瞬動揺を見せて硬直した穹狐の腹に一突き。前転で彼の懐から抜け出し、床に転がっている銃の方へと向かう。後ろから追ってくる気配。だが先に銃を手に収めたのは、重光郎だった。こちらに猛進してくる穹狐。もはや重光郎には、彼が狂気的な暗殺者から餌を欲しがっているだけのペットにしか見えなくなっていた。唸り声を上げながら近づいてくるその黒いスーツの襟に杖の持ち手を引っ掛け、闘牛士のように受け流しつつ部屋の壁に叩きつける。背を壁につけて尻餅をついた彼の元へ近づき、重光郎は見下ろす形で銃口を向けた。
「若さゆえの激情は、時として自分の首を絞めるものだ。心の制御術を地獄でゆっくりと学ぶが良い」
失墜した猛獣は、子犬のように体から力を抜いていた。戦意喪失と言ったところだろう。銃口から目を逸らして俯き続ける双眸は前髪で見えず、表情を読み取ることは出来なかった。死の直前の人間の様子が精細に捉えられないのは残念だったが、重光郎も待たせている女性のため、うかうかとはしてられなかった。にやりと口角を引き上げ、引き金にかけた指に力を込める。
「さようなら」
刹那。穹狐は顔を上げた。その顔は、笑っていた。静かにポケットから四つ折りの紙を取り出し、人差し指と中指に挟むと、それを目にも止まらぬ速さで手首の捻りだけで投げた。弧を描いて宙を舞ったそれは、重光郎が引き金を引き切るのとタッチの差で彼の両目を綺麗に掠めた。濁音混じりの悲鳴を上げて、片方の手で目を押さえる彼の手から銃を引き剥がし、そのまま近くのベッドへ体を押し倒す。傷もつけないほど浅く掠めたからかすぐに起きあがろうとしたのを、穹狐は彼に馬乗りになって拘束した。四肢が激しく蠢く感覚を下半身で感じつつ、それらをまとめて足で押さえつけて顔に銃を向け返す。死に際に恐怖を感じる彼の顔を見るには、十分すぎる特等席だった。
「ま、待ってくれ! か、金ならいくらでもやる! お前の身分にも外部は出さない! そ、そうだ! お前も上級国民の一人として雇ってやる、そうすれば今までよりも自由な生活が送れるぞ!」
「あぁ〜……。そういうの、興味ないから」
笑顔のまま、銃口を重光郎の口に押し当てる。唇を何回も潰した後、抵抗する彼の態度に焦ったくなって鼻を摘んで無理やり口を開けさせてから銃をその中へと押し込んだ。必死に何かを叫んでいるようだが、それはもはや言葉になっておらず、銃をより奥へ入れ込むために先端に唾液という潤滑油を行き渡らせるのみの行為となっていた。穹狐はベッドの上に落ちている四つ折りの紙を拾い上げ、広げる。家から持ってきたそれは、子供の頃に街のどこかから盗んだ顕堯のポスターだった。中心に大きく映るその魅力的なフォルムに、特徴的な緋色の目。見ているだけで口の中が湿ってくる。彼は、悶え苦しむ重光郎の顔の上にそのポスターを被せた。するとどうだろう。重光郎の顔は顕堯へと擬似的に差し代わった。四肢を震わせ、悶え苦しむ顕堯の姿。
「ああ……! 可愛い……! 可愛い顕堯様……! もっと、もっと滅茶苦茶にしてあげますからね……!」
息が荒くなり、頬を両手で思わず触る。顔が熱い。目の前で体を震わせる顕堯。それを見て、無意識に舌を出している自分に気づく。はぁ、はぁ、と熱い吐息が空中を彷徨う。口に突っ込んだ銃のセレーションの部分に噛みつき、そのまま顔ごと上にスライドする。電子の弾が装填された音。死期が近まるのを悟り、顕堯もとい重光郎は更に体を激しく震わせて抜け出そうとする。その姿がまた穹狐の興奮を煽る。天を仰ぎ、腰を動かして四肢の動きを止めつつ引き金に指をかけた。
「はぁ……! もう限界……! 顕堯様、めいいっぱい奉仕させていただきます……! 俺が一番この世であなたを見ています……! どうぞ俺を……浴びてください……!」
暴れる顕堯の体。震えが止まらない穹狐の体。彼は言葉にならない声をぶつぶつと呟きながら、遂に引き金を引く。電子の銃弾が重光郎の頭を貫き、空気に溶けていった。そして彼の体はそれから一切動かなくなった。訪れし静寂。あるのは、余韻を味わう一人の奉仕者の吐息のみ。脳がぬるま湯に浸かっているような、恍惚とした時間の流れに小さく喘ぐ。そんな夢を醒ましてきたのは、背中から聞こえてくる扉を力強く叩く音。
「政府警察だ! 開けろ!」
むさ苦しい人間の声が聞こえてきて、興醒めに陥るまでは早かった。ポスターをポケットに入れ、銃を懐に隠す。舌で掬い上げ、口の中から取り出した青色の小さなチップを安らかに眠る重光郎の鼻の中へと勢いよく弾くと、穹狐はすぐに浴室に繋がる扉の傍に身を潜めた。度重なる力強いノックと雄叫びに何事かと思った神楽がバスローブ姿で出てくる。その瞬間に扉の影に隠れてやり過ごし、彼は浴室へ侵入した。風呂場の天井の点検口を開け、体を這い上がらせる。パイプだらけの窮屈な通路。ホテルの出口に繋がる裏口は、来る際に通った道を辿ればすぐに着くだろう。匍匐前進で進みながら彼は急いで通信を取った。
「ボス、聞こえるか」
「ああ」
「標的にチップ挿入完了。この後標的はすぐに政府警察と接触する。良い感じに操って誤魔化しといてくれ」
「了解だ」
「すまんのう、さっきまで毒性のある虫がここらを闊歩してたもんで。それで呼んだんじゃが、気づいたらいなくなっておったわ」
「は、はぁ……。でしたら、良いのですけれど……」
盗聴器で録音された重光郎と政府警察の会話の音声を聴いて、穹狐は胸を撫で下ろした。通信が切り替わる。
「任務は無事に完了した。ご苦労だった、エージェントK」
「うぃーっす」
「……ところで、前から一つ聞いておきたかったことがあるんだが」
「今度は何?」
車の揺れが体に沁みてくる。窓のへりに腕を乗せて少々体を預けつつ、話半分で耳に意識を集中させた。
「チップの製作や、政府警察との接触。またそれを含有する、善行を通じて模範国民メーターを上昇させる全行為。これらは全て、反体制組織である我々の任務を遂行するために行われたもののはずだ。なのに、お前は心腦の思考検閲に抵触したことが一度もない。なぜなんだ」
穹狐は迷いなく答えた。
「ボス、あんたの考えはそもそも間違ってるよ」
「何?」
「俺の行動は、全て顕堯様のためのものなんだから」
通信を切り、ポスターに載っている顕堯の輪郭を時間をかけて指で丁寧になぞる。窓越しに見える政府官邸。その頂上で、顕堯の姿が映る政府当局の旗が波打っていた。穹狐は懐から銃を取り出すと、その銃口を揺らめく緋色の目に向けた。
「待っててね、顕堯様。俺が必ず、迎えに行ってあげるから」




