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『婚約破棄の手紙から始まる、辺境伯との再婚生活』  作者: はる乃


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9/11

第九話「花を植える日」

朝の光が、ガラス越しにやわらかく降り注いでいた。

リリエルは、その眩しさに一瞬だけ目を細めた。


図書室の隣にある小さなサンルーム。

昨日まで埃をかぶっていたその場所は、今朝にはすっかり様変わりしている。


新しい土の匂い。

窓際に並べられた素焼きの鉢。

まだ名も覚えきれない、小さな花苗たち。


(……本当に、好きにしていいのよね)


「どうせすぐ取り上げられる」

「これは仮の居場所だ」

そう思ってしまう自分を、リリエルは静かに押し殺した。


けれど――。


背後で、かすかな足音がした。

「土はこれで足りるか」


背後から聞こえた低い声に、リリエルははっと振り返った。


アレクシスが、袖を少しまくり、袋いっぱいの土を抱えて立っている。

辺境伯としての威厳も、昨夜の凄みもない。

ただ、少し不器用な男の姿だった。


「は、はい! 十分すぎるほどです」


受け取ろうと手を伸ばした瞬間、リリエルは土袋の重さに指先を滑らせた。

麻布がこすれて、思わず息が止まる。


アレクシスの手が支えるように動く。

彼女の手の甲に触れそうになって、直前で止まる。

代わりに、袋の向きだけを静かに整えた。


「……無理はするな」


「……はい」


それでも、胸の奥に残った熱が消えない。

リリエルは逡巡してから、小さく口を開いた。


「……あの、アレクシス様」

呼びかけただけで、胸がきゅっと縮む。

「手伝っていただくなんて……申し訳ありません。私ひとりで——」


言い終える前に、彼は土袋を置き、短く息を吐いた。


叱られる――体が、勝手に強張った。


「気にするな。手を動かしている方が性に合う」


視線は窓の外へ、言葉はそれ以上増えない。

けれど、その不器用な逃げ方が、なぜだか優しく見えた。


リリエルは返す言葉を探して、見つからず、代わりに小さく頷いた。

「……はい」


それだけ言って、彼は黙々と作業に加わった。

指先が土で汚れるのも構わず、鉢を運び、棚を動かす。


リリエルは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


……怒られない。

……急かされない。

……何も、奪われない。


それが、こんなにも心を緩ませるものだとは知らなかった。


それは、彼女にとってあまりにも珍しい感覚だった。


苗を植え終えた頃、アレクシスは一歩下がり、出来上がったサンルームを見渡した。


「……悪くないな」


「はい」


リリエルは、思わず笑ってしまった。

この人は、褒め言葉がとても少ない。

でも、その一言がどんな装飾よりも嬉しい。


しばらく、二人は並んで花を眺めていた。

会話はない。

けれど、沈黙が怖くない。


その代わり、彼が体重を移すたび、空気がほんのわずかに揺れるのが分かった。

肩が触れるほど近くはないのに近い、と感じてしまう距離。


リリエルは視線を花に落とし、指先についた土をそっと払った。

その仕草を、彼が見ていた気がして、呼吸が一瞬だけ乱れる。


何も起こらない。

それが、なぜか心地よかった。


その様子を、廊下の向こうからセバスチャンがそっと見守っていた。


(ようやく……ですな)


彼は微かに目を細め、音を立てぬように立ち去った。


夕方。

リリエルはサンルームの片隅に腰を下ろし、夕陽の中で静かに目を閉じた。


これは、褒賞だ。

役に立ったから、与えられただけの場所。


——だから、勘違いしてはいけない。


一年が終われば、ここを出る。

この陽だまりも、花も、すべて返す。


それまでは。


壊さず、汚さず、失望させずにいよう。




読んでくださってありがとうございます。


今回は、花を植えるだけの穏やかな回でした。

でもリリエルの中では、「ここに慣れてはいけない」という気持ちが、静かに根を張り始めています。


この関係が“褒賞”なのか、それとも――。

次回、少しずつ空気が変わっていきます。

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