第九話「花を植える日」
朝の光が、ガラス越しにやわらかく降り注いでいた。
リリエルは、その眩しさに一瞬だけ目を細めた。
図書室の隣にある小さなサンルーム。
昨日まで埃をかぶっていたその場所は、今朝にはすっかり様変わりしている。
新しい土の匂い。
窓際に並べられた素焼きの鉢。
まだ名も覚えきれない、小さな花苗たち。
(……本当に、好きにしていいのよね)
「どうせすぐ取り上げられる」
「これは仮の居場所だ」
そう思ってしまう自分を、リリエルは静かに押し殺した。
けれど――。
背後で、かすかな足音がした。
「土はこれで足りるか」
背後から聞こえた低い声に、リリエルははっと振り返った。
アレクシスが、袖を少しまくり、袋いっぱいの土を抱えて立っている。
辺境伯としての威厳も、昨夜の凄みもない。
ただ、少し不器用な男の姿だった。
「は、はい! 十分すぎるほどです」
受け取ろうと手を伸ばした瞬間、リリエルは土袋の重さに指先を滑らせた。
麻布がこすれて、思わず息が止まる。
アレクシスの手が支えるように動く。
彼女の手の甲に触れそうになって、直前で止まる。
代わりに、袋の向きだけを静かに整えた。
「……無理はするな」
「……はい」
それでも、胸の奥に残った熱が消えない。
リリエルは逡巡してから、小さく口を開いた。
「……あの、アレクシス様」
呼びかけただけで、胸がきゅっと縮む。
「手伝っていただくなんて……申し訳ありません。私ひとりで——」
言い終える前に、彼は土袋を置き、短く息を吐いた。
叱られる――体が、勝手に強張った。
「気にするな。手を動かしている方が性に合う」
視線は窓の外へ、言葉はそれ以上増えない。
けれど、その不器用な逃げ方が、なぜだか優しく見えた。
リリエルは返す言葉を探して、見つからず、代わりに小さく頷いた。
「……はい」
それだけ言って、彼は黙々と作業に加わった。
指先が土で汚れるのも構わず、鉢を運び、棚を動かす。
リリエルは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
……怒られない。
……急かされない。
……何も、奪われない。
それが、こんなにも心を緩ませるものだとは知らなかった。
それは、彼女にとってあまりにも珍しい感覚だった。
苗を植え終えた頃、アレクシスは一歩下がり、出来上がったサンルームを見渡した。
「……悪くないな」
「はい」
リリエルは、思わず笑ってしまった。
この人は、褒め言葉がとても少ない。
でも、その一言がどんな装飾よりも嬉しい。
しばらく、二人は並んで花を眺めていた。
会話はない。
けれど、沈黙が怖くない。
その代わり、彼が体重を移すたび、空気がほんのわずかに揺れるのが分かった。
肩が触れるほど近くはないのに近い、と感じてしまう距離。
リリエルは視線を花に落とし、指先についた土をそっと払った。
その仕草を、彼が見ていた気がして、呼吸が一瞬だけ乱れる。
何も起こらない。
それが、なぜか心地よかった。
その様子を、廊下の向こうからセバスチャンがそっと見守っていた。
(ようやく……ですな)
彼は微かに目を細め、音を立てぬように立ち去った。
夕方。
リリエルはサンルームの片隅に腰を下ろし、夕陽の中で静かに目を閉じた。
これは、褒賞だ。
役に立ったから、与えられただけの場所。
——だから、勘違いしてはいけない。
一年が終われば、ここを出る。
この陽だまりも、花も、すべて返す。
それまでは。
壊さず、汚さず、失望させずにいよう。
読んでくださってありがとうございます。
今回は、花を植えるだけの穏やかな回でした。
でもリリエルの中では、「ここに慣れてはいけない」という気持ちが、静かに根を張り始めています。
この関係が“褒賞”なのか、それとも――。
次回、少しずつ空気が変わっていきます。




