第七話「伯爵としての体裁も、誇りも」ルーカス視点
あの時ほど、自分の無力さを呪ったことはなかった。
書斎の扉の前で、僕は拳を白くなるほど強く握りしめていた。
「……お願いします」
気づけば、僕は深く頭を下げていた。
伯爵としての面子も、積み上げてきた誇りも、今の僕には塵ほどの価値もない。
そんなものはすべて捨てていい。
リリエルさえ救えるのなら。
「リリエルを守りたいのです! どうか……この屋敷から、僕の側から、彼女を遠ざけてください。今すぐに」
ジーク伯爵の鋭い視線が、射抜くように僕を捉える。
だが、ここで怯むわけにはいかない。
「王都にいては……僕の側にいては、彼女は泥沼のような運命に巻き込まれます」
言葉にした瞬間、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
愛していると叫びたい口で、彼女を遠ざける言葉を紡がなければならない。
「必ず、解決します。すべてを片付けて、必ず彼女を迎えに行きます! だから……その間だけでいい。彼女を匿う時間を、僕にください」
沈黙が、重く部屋に落ちた。
ジーク伯爵は、すぐには答えなかった。
聞きたいこと、怒鳴りたいことが山ほどあるはずだ。
それでも彼は、焦点を結ばない視線で宙を見つめたまま、静かに僕の覚悟を計っているようだった。
その沈黙が「拒絶」ではないことを、僕は直感で悟った。
「……ひとつ、条件がある」
低い声に、僕は顔を上げた。
ジーク伯爵の瞳が、逃げ場を許さない鋭さで僕を射抜く。
「お前が今、リリエルを突き放し、どん底へ突き落とそうとしている事実は変わらん。その約束を信じるに値する誠意を見せてくれ。 お前が何を捨て、何を賭けてあの子を迎えに行くつもりなのか、私に納得させてみろ」
「……っ」
喉の奥が熱くなる。
誠意。
それは言葉で飾るものではない。
僕の今後の生き様そのものだ。
「婚約を破棄する以上、彼女は自由の身になる。その事実は、理解しています」
身勝手なのは分かっている。
自分から手を放しておきながら、彼女が他の誰かに奪われる未来など、想像しただけで狂いそうになる。
だが、僕はあえて言葉を続けた。
「ですが、どうか……その期間だけは、他の男との縁談が持ち込まれぬよう、僕の代わりにあの子を匿ってはいただけないでしょうか。それが……僕の求める唯一の『猶予』です。その間に、必ず結果を持って戻ります」
「……横暴だな、お前は」
ジーク伯爵の声には、呆れと、冷ややかな怒りが混じっていた。
否定はできなかった。
「承知しています。ですが……僕は必ず、この状況を終わらせます。すべてを解決し、彼女を……僕の妻として、必ず迎えに行きます。それが僕の見せられる、唯一の『誠意』です」
それは祈りではなく、命を賭した誓約だった。
しばらくの沈黙の後、伯爵は長く、深い溜息を吐いた。
「……覚えておけ。今のお前は、あの子を守る資格のない男だ。その言葉が偽りだったと分かった時、お前の居場所はこの国のどこにもないと思え」
冷酷な通告。
だが、その言葉の裏には、僕の覚悟を認め、リリエルを託そうとする「父」としての苦渋の決断が滲んでいた。
(……あの方ならば、リリエルを“誰の手にも渡さず”匿うことができるはずだ)
伯爵が思い浮かべている人物を、僕も察した。
権力の中心から距離を置き、後妻を迎えぬと誓い、静かに生きるあの公爵。
あそこならば、蛇のような貴族たちの手も届かない。
でも、あの男は‥‥
かつて家族だった男。
もう二度と、家族には戻れない存在。
それでも、彼以上に
「誰の手にも渡さず」彼女を守れる者はいない。
「……不名誉を、挽回して見せろ。あの子を傷つけた罪を、お前は一生背負って生きるのだ」
書斎を出る直前、背後から小さく呟きが聞こえた。
「……神よ。あの子を……私の娘を、どうか守ってやってくれ」
それは、権力者としてではなく、一人の父としての、精一杯の懇願だった。
数日後。
リリエルのいなくなったエーレンベルク家は、音を立てて崩壊し始めたという。
彼女が一人で処理していた膨大な事務は滞り、母は癇癪を爆発させ、何も分からぬ弟はただ立ち尽くすばかり。
だが、誰も助けの手は差し伸べない。
彼女がいたことが、どれほど得難い奇跡だったのか。
愚かな彼らは、身を削るような後悔の中で思い知ればいい。
僕は、暗闇の中で誓う。
必ず迎えに行く。
すべてを灰にし、その先に作る平穏な場所へ。
今度こそ、彼女と結ばれる未来を、この手に掴み取るために。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回はルーカス視点で、
「守れなかった側の選択」を描きました。
貴族としての面子を捨ててでも、彼が何を選んだのか。
少しでも伝わっていれば嬉しいです。
次回から、物語は新たな場所へ動き出します。
リリエルの“その後”と、彼女を迎えた男の視点が始まります。
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