第五話「去った才女、残された混乱」
執務室を辞したあと、
セバスチャンは一人、
長い廊下で足を止めていた。
壁に掛けられた燭台の火は、
風のないはずの屋内でわずかに揺れている。
夜が深まるほど、屋敷という器の中に沈殿していく静けさが濃くなる。
分厚い扉の向こうからは、紙を繰る微かな音が漏れていた。
一定の間隔で、ため息のような音が混じる。
アレクシスが、リリエルの残した書類に再び目を通しているのだろう。
その事実だけで、胸の奥に重たいものが沈んだ。
執務室の前を通る者はほとんどいない。
夜更けに主人が灯をともすとき、それはたいてい「怒り」か「焦り」か、あるいは「取り返しのつかない何か」を見つけた時だ。
今夜の灯は、きっとそのどれにも当てはまる。
(五カ国語を操り、これほどの手際で家政と領地運営を支えていた才女を……エーレンベルク伯爵家は、ただの「侍女代わり」として使い潰していたというのか)
セバスチャンは唇の裏を噛み、喉の奥で息を押し殺した。
怒りの矛先は定まらない。
伯爵家への憤りか。
リリエルを軽んじた周囲への侮蔑か。
あるいは、気づけなかった自分への苛立ちか。
リリエルが去ったあとの、あの屋敷の混乱は目に見えるようだった。
帳簿は滞り、商談は止まり、日々の判断を下す者がいなくなる。
いや、滞るなど生易しい。
帳簿の「読み方」を知っている者がいない。
数字の並びを見て、何が危険で何が好機かを嗅ぎ分ける者がいない。
貯蔵庫の在庫を把握し、使用量を計算し、補給の時期を先回りする者がいない。
馬車の手配も、使用人の配置換えも、急な来客への対応も「誰かが当然のように決めていたこと」が、すべて宙に浮く。
書類仕事だけではない。
夫人付きの侍女が「いつものように」と口にした瞬間、その“いつも”を作っていた人間がもういないことに気づく。料理長が食材を前に立ち尽くす。
商人が笑顔のまま、目だけで値踏みをし始める。
そして最初に起こるのは、混乱ではない。
責任の押し付け合いだ。
機能していた心臓を失った身体が、
どうなるかなど考えるまでもない。
血が巡らず、指先から冷えていく。
壊死は静かに始まり、気づいた時には、もう戻らない。
セバスチャンの脳裏に、彼女の父ジーク伯爵の顔が浮かんだ。
「不名誉な娘を送り込む」と、平然と言い放っていた男。
娘を「厄介払い」の道具としか見ない目。
己の体面だけを守る口調。
あの声音が蘇るたび、セバスチャンは胸の奥に黒い塊が増していくのを感じた。
(気づいていないのでしょうな。あなた方が捨てたのが、ただの娘ではなく、家そのものを動かしていた“中枢”であったことに)
そして、気づいた時には遅い。
中枢を失った組織は、外から見ればただの豪奢な屋敷でも、内側は瓦解していく。
人間関係も、金も、信用も、均衡を保つには“整える手”が必要だ。
その手を、彼らは自ら折った。
今頃、伯爵家では帳簿を前に怒号が飛び、商人たちは去り、屋敷は火が消えたような有様になっているはずだ。
「どうしてこんなことになった」と喚き散らす声が響き、誰かが「リリエルはどこだ」と口走り、別の誰かが「戻せ」と命じるだろう。
セバスチャンは深いため息を吐いて、
やがて自室へ戻っていった。
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