表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『婚約破棄の手紙から始まる、辺境伯との再婚生活』  作者: はる乃


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/10

第五話「去った才女、残された混乱」

執務室を辞したあと、

セバスチャンは一人、

長い廊下で足を止めていた。


壁に掛けられた燭台の火は、

風のないはずの屋内でわずかに揺れている。

夜が深まるほど、屋敷という器の中に沈殿していく静けさが濃くなる。


分厚い扉の向こうからは、紙を繰る微かな音が漏れていた。

一定の間隔で、ため息のような音が混じる。

アレクシスが、リリエルの残した書類に再び目を通しているのだろう。

その事実だけで、胸の奥に重たいものが沈んだ。


執務室の前を通る者はほとんどいない。

夜更けに主人が灯をともすとき、それはたいてい「怒り」か「焦り」か、あるいは「取り返しのつかない何か」を見つけた時だ。

今夜の灯は、きっとそのどれにも当てはまる。


(五カ国語を操り、これほどの手際で家政と領地運営を支えていた才女を……エーレンベルク伯爵家は、ただの「侍女代わり」として使い潰していたというのか)


セバスチャンは唇の裏を噛み、喉の奥で息を押し殺した。

怒りの矛先は定まらない。

伯爵家への憤りか。

リリエルを軽んじた周囲への侮蔑か。

あるいは、気づけなかった自分への苛立ちか。


リリエルが去ったあとの、あの屋敷の混乱は目に見えるようだった。


帳簿は滞り、商談は止まり、日々の判断を下す者がいなくなる。

いや、滞るなど生易しい。

帳簿の「読み方」を知っている者がいない。

数字の並びを見て、何が危険で何が好機かを嗅ぎ分ける者がいない。

貯蔵庫の在庫を把握し、使用量を計算し、補給の時期を先回りする者がいない。

馬車の手配も、使用人の配置換えも、急な来客への対応も「誰かが当然のように決めていたこと」が、すべて宙に浮く。


書類仕事だけではない。

夫人付きの侍女が「いつものように」と口にした瞬間、その“いつも”を作っていた人間がもういないことに気づく。料理長が食材を前に立ち尽くす。

商人が笑顔のまま、目だけで値踏みをし始める。

そして最初に起こるのは、混乱ではない。

責任の押し付け合いだ。


機能していた心臓を失った身体が、

どうなるかなど考えるまでもない。


血が巡らず、指先から冷えていく。

壊死は静かに始まり、気づいた時には、もう戻らない。


セバスチャンの脳裏に、彼女の父ジーク伯爵の顔が浮かんだ。


「不名誉な娘を送り込む」と、平然と言い放っていた男。

娘を「厄介払い」の道具としか見ない目。

己の体面だけを守る口調。

あの声音が蘇るたび、セバスチャンは胸の奥に黒い塊が増していくのを感じた。


(気づいていないのでしょうな。あなた方が捨てたのが、ただの娘ではなく、家そのものを動かしていた“中枢”であったことに)


そして、気づいた時には遅い。

中枢を失った組織は、外から見ればただの豪奢な屋敷でも、内側は瓦解していく。

人間関係も、金も、信用も、均衡を保つには“整える手”が必要だ。

その手を、彼らは自ら折った。


今頃、伯爵家では帳簿を前に怒号が飛び、商人たちは去り、屋敷は火が消えたような有様になっているはずだ。

「どうしてこんなことになった」と喚き散らす声が響き、誰かが「リリエルはどこだ」と口走り、別の誰かが「戻せ」と命じるだろう。


セバスチャンは深いため息を吐いて、

やがて自室へ戻っていった。

読んでいただきありがとうございます。

ブックマークやご感想、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ