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『婚約破棄の手紙から始まる、辺境伯との再婚生活』  作者: はる乃


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3/10

第三話「本来の私」

辺境伯の屋敷に到着した日の夜。

私は、用意された広大な浴室で、メリッサの手を借りて湯浴みをしていた。


「奥様、なんて細いお体……。鎖骨が浮き出て、折れてしまいそうですわ」


メリッサが痛ましげに声を落とす。

実家での私は、令嬢としての過酷な勉強に加え、

母から押し付けられた膨大な帳簿管理、

さらには掃除や洗濯といった家事までこなしていた。


食事の時間さえ惜しんで働かされていた私の体は、

彼女の言う通り、あまりにも頼りなく貧相で痩せていた。


香草の香りが漂う泡が、私の頭を包み込む。

何度も丁寧にすすぐうちに、メリッサがはっと息を呑んだ。


「……奥様、この髪。染めていらっしゃるのですね?」


お湯に溶け出した黒い染料の隙間から、月光のような鮮やかな金色が顔を出していた。私は反射的に首をすくめる。


「ええ……。母が、派手で下品な色だから隠せと言って。ずっと、黒く染めてきたの」


「まあ、そんな……。こんなに美しいお色なのに!」


「いいえ、メリッサ。私には似合わないわ。それに、目立つとまた母に怒られてしまう……それにアレクシス様にも‥」


黒染めが落ちていくことに恐怖すら感じている私に、メリッサは真っ直ぐに私の目を見て、諭すように言った。


「奥様、ここはアレクシス様のお屋敷です。お母様はもういらっしゃいません。……奥様が誰かの顔色を窺って、ご自分を殺す必要なんてないのですわ」


「でも……」


「綺麗に洗髪したら前髪も切りましょう? その美しい瞳を隠しておくなんて、それこそ罪というものです。大丈夫、アレクシス様はそんなことでお怒りになる方ではありません。私を信じてください」


根気強く、けれど優しく繰り返されるメリッサの言葉に、私はようやく小さく頷いた。 「……わかったわ。お願い、メリッサ」


湯上がり。

鏡の前に座ると、メリッサの手によって前髪が切り落とされていった。

サクッ、サクッという軽やかな音と共に、私の視界を遮っていた重いカーテンが足元に落ちていく。


「はい、できました! 奥様、見てください!」


鏡を覗き込んだ瞬間、私は言葉を失った。

そこには、今まで見たこともないほどはっきりとした顔立ちの私がいた。

前髪の呪縛から解き放たれ、明るい金色の輝きを宿した瞳。肌の白さが、根元から覗く本来の金髪に引き立てられている。


「綺麗……。奥様、本当に、本当にお美しいですわ!」


メリッサの感嘆の声に、私は戸惑い、思わず鏡から目を逸らした。


「そ、そんなはずないわ。だって、私は母に『可愛くない』とずっと言われて育ったのよ。前髪を切ったからって、中身は何も変わらないもの……」


本来の自分を鏡に見た驚きはあるものの、長年植え付けられた自信のなさは、そう簡単には消えてくれない。

私は落ち着かない手つきで、短くなった前髪をそっとなでた。


翌朝。食堂に向かうと、アレクシス様はすでに席につき、無言で書類に目を通していた。


「おはようございます」


私が挨拶をすると、アレクシス様は不意に顔を上げた。

昨日まで顔の半分を隠していた女が、見違えるような姿で現れたのだ。

アレクシス様は、時が止まったかのように動きを止め、それから逃げるように視線を書類へ戻した。


耳の付け根が、ほんのりと赤くなっているのを侍女達は見逃さなかった。


朝食中、アレクシス様が、不機嫌そうにこちらを見た。


「……リリエル、食が細いな。口に合わないか」


「いいえ! とても美味しいです。ただ……実家では食べる時間を惜しんで働いていたので、こんなにゆっくりいただくのが、まだ慣れなくて……」


私の言葉に、アレクシス様は濃紺の瞳を揺らし、何かを言いかけて口を閉ざした。


その後、執事のセバスチャンに屋敷を案内してもらい

図書室の立派な本棚に圧倒されたあと、中庭で洗濯物を干す侍女たちの姿が目に留まりました。


「あの、私も手伝ってもよろしいでしょうか」


「え?」セバスチャンが驚愕に目を見開きました。


「リリエル様は婚約者候補でいらっしゃいます。そのようなことは……」


「ですが、一年間お世話になる身です。何もせずにいるのは、どうしても心苦しくて」


実家では当たり前だった日常。

私は我慢できずに中庭へ出ると、驚く侍女たちを押し切って輪に加わりました。

手際よくシワを伸ばし、風の通りを考えて布を干していく。


「リリエル様、お上手ですわ……」

感嘆の声が上がり、皆が笑顔になっていく。


誰かに必要とされている。

受け入れて貰っている。

乾いていた心が潤っていくのを感じた、その時。


「何をしている」


突然、低く威圧的な声が響くと、


振り向いた先に眉間に深い皺を寄せたアレクシス様が立っていました。


「リリエル、君は一体何をしているんだ。……君は婚約者候補だ。侍女の仕事をする必要はない」


「でも、私は何もせずにいるのが申し訳なくて……」


「黙れ!」


その怒声に、中庭の鳥が一斉に飛び立ちました。


「君は、何もわかっていない。令嬢というものは優雅に過ごすものだ。君が、誰かに当然のように使われる存在になるのが……私は耐えられない……」


私は息を呑み頭が真っ白になりました。

彼は背を向けて屋敷へと戻っていき、私はその場に立ち尽くしました。


「大丈夫ですよ、リリエル様。アレクシス様は、本当は不器用なだけなのです」

メリッサがそっと肩を抱き寄せてくれました。

「リリエル様が、誰かに無理を強いられているのではないかと案じていらっしゃるのですよ」


その言葉に、私はハッとしました。

実家では、私がどれだけ働いても、誰も心配などしてくれませんでした。

けれど、この人は私の「立場」を守るために、声を荒らげてくれた。

初めて大切に扱われたような気がして、私は声を殺して泣きました。


その夜。月明かりが差し込む部屋に、アレクシス様が訪ねてきました。


「昼間は、言い過ぎた。すまなかった。……君が、自分を削って無理をしているように見えたんだ」


不器用な謝罪。彼は私の金色の髪をじっと見つめました。


「……君の好きにしたら良い。ただし、絶対に無理はするな。……その前髪、切ったのか。……悪くない」


彼は、まるで子どもをあやすように優しく頭を撫でて去っていきました。

私は窓の外を見上げ、右手首のバングルをそっとなぞりました。

(ルーカス‥‥)


その頃、王都。

深い夜に沈む書斎で、ルーカスは一人、冷え切ったワインを煽りながら、彼女とお揃いのバングルを握りしめていました。


「待っていてくれ、リリエル。

必ず、君を俺の手に取り戻す」


読んでいただきありがとうございます。

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