第十一話「守る覚悟の距離」
朝のサンルームは、まだ人の気配が薄かった。
ガラス越しの光は柔らかく、冬の名残を含んだ冷気が、土と葉の匂いに混じっている。
リリエルは小さな鉢の前にしゃがみ込み、指先で土の乾き具合を確かめていた。
「……もう少し、ですね」
独り言のように呟き、霧吹きを手に取る。
水滴が葉に弾かれ、朝の光を受けて一瞬きらめいた。
そこへ静かな、けれど確かな足音。
驚いて振り返るより早く、低い声が降ってきた。
「朝は冷える」
リリエルはびくりと肩を揺らし、慌てて立ち上がった。
振り向いた先にいたのは、アレクシス様だった。
いつもの隙のない軍服ではなく、執務用の簡素な上着。
けれど、どこか眠りの浅さを残した深い眼差しが、
まっすぐに彼女を見ていた。
「も、申し訳ありません。すぐに——」
「謝るなと言ったはずだ」
短く遮られ、言葉が喉に詰まる。
アレクシス様は一歩だけ近づき、
彼女の手元へ視線を落とした。
霧吹きを握りしめた指先は、寒さで赤くなっている。
「水仕事は、もう少し暖かくなってからにしろ」
命令でも忠告でもない、淡々とした口調。
けれどそれは、これまで彼女が向けられてきた「効率」や「義務」を強いる言葉とは、明らかに種類が違っていた。
「……はい」
頷きながらも、リリエルは戸惑いを隠せなかった。
実家では仕事の遅れを咎められることはあっても、
体調を気遣われることなど一度もなかったからだ。
アレクシス様はそれ以上追及せず、
サンルームの一角に置かれた椅子を引いた。
「座れ」
「え……?」
「話がある。立ったままでなくていい」
反射的に背筋を伸ばしかけ、
彼女は一瞬迷い、それからそっと椅子に腰を下ろした。
主と保護対象。
明確だったはずの境界線が、
ほんの少しだけ、春の雪のように揺らいだ。
沈黙。
葉擦れの音と、遠くの廊下から微かに聞こえる生活音だけが流れる。
「……ここでの暮らしに、不都合はないか」
問いは、唐突だった。
リリエルは一拍遅れて、首を振る。
「はい。皆さん、とても親切で……十分良くして下さっていて……」
その言葉に、アレクシス様はすぐに返さない。
代わりに、視線を窓の外の冬枯れの庭へと移した。
「“十分”かどうかを決めるのは、お前だ」
低く、静かな声。
「遠慮や義務感だけで留まっているというのなら、それは私の望みではない」
リリエルの胸が、きゅっと縮んだ。
追い出される、という意味ではない――
それだけは、なぜか分かっていた。
けれど「自分の望みを選べ」と言われること自体が、
選択を奪われて生きてきた彼女には、
あまりにも眩しく酷だった。
「……私は」
言葉を探し、
指先が膝の上で白くなるほど絡まる。
「ここにいると……怖くありません」
ぽつりと落とした本音に、自分自身が一番驚く。
「何かをしなければ価値がない、という気が……しなくて。ただ、ここにいてもいいのだと、初めて思えたのです」
顔を上げる勇気はなく、視線は床のタイルの継ぎ目に落ちたまま。
その沈黙の中で、椅子がわずかに軋んだ。
アレクシス様が、立ち上がった気配。
(……やはり、不敬なことを言い過ぎたかしら)
不安に駆られた瞬間、大きな影が、彼女の視界を覆った。
「それでいい」
短く、だが地を這うようなはっきりとした声。
「ここでは、それでいいんだ」
リリエルは、思わず顔を上げた。
彼は彼女を見下ろしてはいなかった。
同じ高さまで、そっと身を屈め、逃げ場のないほど真摯に視線を合わせている。
「どんな形であろうと守ると決めた。……そこに、理由や条件を探さなくて良い」
それは説明ではなく、不器用な男なりの「誓い」だった。
胸の奥で、張り詰めていた何かが静かにほどけていく。
「……はい」
答えた声は、少しだけ震えていた。
アレクシス様はそれ以上踏み込まず、すっと距離を取って立ち上がる。
まるで、これ以上近づけば彼女が壊れてしまうと知っているかのような、慎重な動作。
「今日は、さらに冷える。戻る時は上着を羽織れ」
そう言い残し、彼は一度も振り返らずにサンルームを後にした。
残されたリリエルは、しばらくその場から動けなかった。 胸の奥に残る、確かな温度。
それをどう扱えばいいのか分からず、ただ自分の胸元をぎゅっと押さえる。
サンルームの花は、静かに朝の光を受けている。
その外で、止まっていたはずの時間が、確かに少しずつ音を立てて動き始めていた。
お読みいただきありがとうございました! 二人の距離が少しずつ縮まっていく様子を、楽しく書いています。 続きが気になる!と思ってくださったら、ぜひフォローや応援をお願いします。 次回更新も頑張ります!




