第一話 婚約破棄の手紙
「リリエル、その髪はまた伸びてきたわね」
母の冷たい声が、書斎に響いた。
私は机の上の帳簿から顔を上げる。
母ナーシャは、いつものように
不機嫌そうな表情で私を見下ろしていた。
「申し訳ございません、母上。すぐに染め直します」
「当然でしょう。
金色の髪など、目立つだけで何の得にもならないわ。
マックスを見なさい。
あの子は慎ましやかで美しい黒髪でしょう」
母は満足げに微笑むと、踵を返して部屋を出て行った。
私は再び帳簿に目を落とす。
領地の収支記録。
本来なら大人の仕事だが、母は「令嬢なら帳簿管理くらいできて当然」と言って、この仕事を私に押し付けている。
勉強、掃除、洗濯、家事、そして帳簿管理。
社交界に出る時間も、友人を作る時間もない。
ただ一人、幼馴染のルーカスを除いて。
「リリエル様」
扉をノックする音がして、侍女のアンナが顔を覗かせた。
「ルーカス様がお見えです。応接室でお待ちです」
心臓が高鳴る。
ルーカス。三つ年上の幼馴染で、私の婚約者。
私は急いで立ち上がり、鏡で自分の姿を確認した。
長い前髪が目を覆い、黒く歪に染められた髪が肩に垂れている。
「可愛くない」
母が幼い頃から繰り返した言葉が、頭の中で響く。
でも、ルーカスだけは違う。
彼だけは、私を「美しい」と言ってくれた。
私の心を見てくれた。
応接室に向かう途中、廊下で弟のマックスとすれ違った。
私は僅かに微笑んで、足早に応接室へと向かった。
扉を開けると、ルーカスが窓辺に立っていた。
ダークブラウンの髪は少しウェーブがかかり、
切れ長の瞳は彼の公爵家を象徴する美しい金色。
その整った顔立ちと、物憂げな雰囲気が女性たちを惹きつけると、侍女達のウワサ話しから聞いたことがある。
彼は口数が少なく不器用だが、その分、彼の言葉はいつも私に真っ直ぐに届いた。
「ルーカス」
私が声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。
いつもの優しい笑顔はなく、どこか疲れたような、苦しそうな表情をしていた。
「リリエル……」
彼の声は震えていた。
「どうしたの? 顔色が悪いわ。座って」
私は彼をソファに促したが、ルーカスは首を横に振った。
「いや、座らない。これ以上、君の近くにいてはいけないんだ」
「え……?」
「リリエル、君に渡したいものがある」
ルーカスは懐から一通の手紙を取り出した。
封蝋が施された、正式な文書だった。
「これは……」
「婚約破棄の通知書だ」
世界が止まった。
彼の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「婚約……破棄……?」
「そうだ。今日をもって、君との婚約を解消する」
「どうして? 理由を教えて。私、何か悪いことをした? あなたを怒らせるようなことを……」
「理由は言えない」
ルーカスは目を逸らした。
「ただ、これ以上君と一緒にいることはできない。それだけだ」
「待って、ルーカス! お願い、理由を教えて!」
私は彼の腕を掴もうとした。でも、ルーカスは一歩後ずさった。
「触らないでくれ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「君に触れてはいけないんだ。君の側にいてはいけないんだ」
「意味が分からない……」
「分からなくていい。ただ、これだけは覚えておいてくれ」
ルーカスは、初めて私の目を真っ直ぐ見た。
その金色の瞳には、深い悲しみと、何か必死に堪えているような色が浮かんでいた。
「君は、幸せになるべき人間だ。君に落ち度はない。突然こんな事になって、ごめん……」
「そんな……」
「さようなら、リリエル」
ルーカスは踵を返し、応接室を出て行った。
私は彼を追いかけようとしたが、足が動かなかった。
手の中には、婚約破棄の通知書だけが残されていた。
どれくらいそこに立ち尽くしていただろう。
扉が開く音がして、父ジークが入ってきた。
「リリエル、ルーカスから話は聞いたぞ」
金髪で整った顔立ちの父は、いつものように無表情だった。
「父上……」
「公爵家からの婚約破棄。これは我が家にとって不名誉なことだ」
父の言葉に、愛情は感じられなかった。
「お前を社交界に出すわけにもいかん。かといって、このまま家に置いておくのも困る」
「父上、私……」
「決めた。お前を、アレクシス辺境伯のもとへ送る」
「アレクシス辺境伯……?」
「私の親友だった男の息子だ。彼は半年前に妻を亡くし、後妻を探している。お前を婚約者候補として送り込む。上手くいけば、この不名誉も挽回できるだろう」
父の言葉は、まるで商品を取引するかのように事務的だった。
「準備をしなさい。三日後には出発だ」
「はい……」
私は力なく頷いた。
父が部屋を出た後、私は床に崩れ落ちた。
ルーカスの苦しそうな顔が、頭から離れなかった。
「触らないでくれ」
あの言葉の意味は何だったのだろう。
理由も告げられず、突然婚約を破棄された。
そして今、見知らぬ辺境伯のもとへ送られる。
誰も、私の気持ちなど聞いてくれない。
私は、誰からも必要とされていないのだろうか。
窓の外を見ると、ルーカスの馬車が屋敷を離れていくのが見えた。
私は、右手首につけたバングルを握りしめた。
ルーカスと一緒に買った、お揃いのバングル。
気持ちが追いつかず、バングルを強く握りしめた。
涙が、頬を伝い。
朝が来ても一睡も眠る事ができなかった。
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