【短編小説】喫茶店
異常なほどの緊張感を強いる喫茶店があるのは入谷口通りの交差点だった。
辺りには珈琲の香りが強く漂う。降る雨が跳ね上げる埃の匂いはその隙間を埋めて、様々な匂いで満ちた鼻腔に反応して体が硬直する。
俺はその喫茶店のドアの前に立った。
ドアに嵌め込まれたガラスには向こう側から黄色い紙が貼られており、手書きのメッセージ——警告文が記してある。
「店内撮影禁止」「雑談禁止」「勉強禁止」
他にも様々な行為が禁止されている。実在する注文の多い喫茶店。入口から客を緊張させる。
俺は隣に立つ女の手を引いて強く握った。
恐怖している。
手に汗が滲む。
湿度のせいじゃない。心拍が上がる。体温が上がる。女の指の感触だけが伝わる。こめかみを水滴が流れ落ちる。それが汗か雨かは分からない。
強く握り返す手が俺の意識を呼び戻す。女を見る。その茶色い目が俺を見据えている。短い金色の髪を水が滴る。白い肌は一段と白くなり、唇は薄く紫色に変色している。
俺はひとつ呼吸を入れてドアを押した。
乾いた真鍮製のベルが鳴る。珈琲の香りが強くなる。俺は足を踏み入れる。握ったままの手に力が入る。柔らかい手が握り返す。雨と埃の匂いが薄くなる。俺と女が店の中に収まり、ドアが閉じると再び乾いた真鍮製のベルが鳴った。
店内を素早く見回す。珈琲豆が詰まっていたであろう麻袋と木製の樽が客席の大半を潰して天井まで積まれている。
俺は繋ぎっぱなしだった手を離し、女と並んでカウンター席に座った。
目の前にも店のドアと同じような手書きの黄色いカードが幾枚も垂れ下がっている。
「長時間の読書は禁止とさせて頂きます」
「携帯電話は開かないようお願いいたします」
「店内の写真撮影はお断りさせて頂いております」
「挽き方のご注文はお受けできません」
「焙煎方法はお選びになれません」
「俄か鑑定士お断りします」
喉の奥が締め付けられるような緊張を憶える。
カウンターの上に置かれたメニューを手に取ると、古くなって茶色く汚れたメニューはまるで鉄でできているかのように重く感じられた。
俺は緊張で張り付いた喉を、店主が置いた氷水で無理やりに開いた。喉は潤った。だがまだ細く閉じたままだった。
背筋を丸めたまま絞り出すように珈琲を二つ注文する。メニューの一番上に書いてあるやつだ。
店主の老人は「オリジナルふたつね」と思ったより高い声に出して確認をした。
無言じゃないのかよ。
俺は自分の思い込みで恥ずかしくなり、体が一瞬で熱くなるのを感じた。髪の毛を伝って冷たい雨水が背筋を走る。
女がグラスの水を飲み込む。
例えこれがコントレックスだとしてもそんな音は立たないだろう、と言うほどの音で氷水が女の喉を駆け降りる。女は自身の喉の音に驚いて目を見開いている。
君の瞳に映った店内に乾杯。黄色い禁止カードには書かれていない行為だ。大丈夫、きっと水を啜って飲まないなら平気だ。
俺は首を捻じ曲げてカウンターの中にいる店主の方を見る。
店主はこちらに背を向けたままだ。ほっと胸を撫でおろす。女がグラスをゆっくりとカウンターに置いた。
その刹那に起きたシンクロニシティ。彼女のグラスを俺のグラスの氷が同時に溶けて崩れる。店主が珈琲を淹れる音以外は無音の店内。
まるで林の奥の神社か海の上に放り出されたかと思うほどの孤独。
それを打ち破る邪な音。ガラン。伽藍と表記してもいい。とにかく小さな氷が大きな音を立てた。俺は丸めた背中に力が入った。女は俺のコートを握りしめた。
静止した世界。
珈琲の香りと湯気だけが動き回る。店主はじっとカップに落ちていく茶色い水滴を眺めている。
そうだ、それは連続した飛沫だ。きっと何滴の珈琲がドリップされていくのか数えているに違いない。そう錯覚させるほどの殺気を店主の背中から感じる。
俺たちはこの店のルールを——店主の警告を全て確認した訳じゃない。ある程度は予想をして珈琲を飲まなきゃならない。
だから逆にどんな行為が違反に該当するのかも見当がつかない。
たった今、音を立てて水を飲んだ事やグラスの中で氷を派手に溶かした事とかだ。
俺はかつて他の喫茶店で、ティーカップにスプーンを三回ぶつけた事により店を追い出された事のある女を知っている。
その女は箸を置く音が規定デシベルを超えた為に日本料理屋を追い出された事もあると言っていた。
そんな話を聞いてビビらないはずがない。
だから俺は極度に緊張していた。
ここはまだ入門編だと言う。これだけ警告がわかりやすく掲示されているのだ。確かに入門編かも知れない。だがそれでもハードルは高い。
店主の動きから氷の音が行為が違反でないと予測をつけて俺は少し背筋を伸ばした。
女はまだ俺のコートの袖を掴んだままだった。俺はその手を優しく握りしめてから、そっとカウンターの下に放した。
細い息が口から洩れる。
その瞬間にカウンターの向こうから店主が枯れ木の様な手が伸ばしてソーサーを置いた。
隣で女が小さく息を飲むのが聞こえた。
俺は飲みそうになった息を喉で押しとどめて小さく吐き出すことに成功した。カウンターの下で握りしめた拳に力が入る。掌に爪が食い込もうとしている。
店主はそのソーサーに珈琲が満たされたカップを静かに置いた。
濃く深い茶色の液体から真っ白い湯気が立ち上る。濃密な土と太陽を思わせる珈琲の香りが俺を包む。
そうだ、その瞬間に俺は完全に世界から切り離されて個人に——たったひとつの存在になった。ひとつの存在でありながらその切り離された世界で全てだった。
つまり俺こそが世界になり、宇宙になり、そしてたったひとつの存在になったのだ。
俺は震える右手を左手で抑えながらカップに手を伸ばす。
女が俺のコートを掴む。
俺は動きを止めて女を見る。
先ほどと同じ茶色い目が——珈琲よりも薄く澄んだ——が俺を見ている。俺は頷いた。震えが止まった。
そうだ、二人だけで開く最初のドアだったのだ。
俺は震えの止まった右手で珈琲カップに手を伸ばした。三本の指で取手をつまみ、残った二本の指でカップを支える。
正しい持ち方までは知らない。ダメならそれまでだ。俺はカップを鼻の下に寄せる。強烈な香りが鼻腔から脳みそを直接殴りつける。
俺はまた個人になり、世界になり、宇宙になり、ひとつになる。遠のく意識を無理やりに引き戻す。白い湯気の向こうで店主が俺を見ている。
隣で女も俺を見ている。俺はゆっくりをカップを口元に送り、その茶色い液体——珈琲を口の中に注いだ。
まるで知らない味だった。
濃密な土と太陽、その下を流れる水脈、それを吸い上げる巨大な樹木、その先々に生い茂る深い緑色をした葉の葉脈、その葉脈の向こうに透ける生と死の匂い、空気の密度、記憶の彼方、点と線、原点、人間。それら全てが一瞬にして脳内に広がっていった。
俺の意識はその広がる速度にまるでついていけない。宇宙だ。俺の脳みその中に宇宙が広がっていってしまっている。
俺の頬を透明な水滴が流れ落ちる。汗でも雨でもない。涙だ。
俺は黙って女に向き直った。
女は頷き、同じように珈琲をひとくち飲んだ。そして女も個人になり海になり世界になり銀河になり宇宙になり点と線をつないで原点に戻り人間になった。そして泣いた。
店主は黙ってこちらを見ている。何を言うでもなかった。
俺と女は黙って珈琲を飲み続けた。
冷めないうちに、酸味の出ないうちに。
それはそう長い時間では無かった。
だが俺も女も何度も個人になり海になり山になり風になり世界になり星になり銀河になり宇宙になり点と線をつないで原点に戻り人間になった。
そうしてカップを空にした。
いつの間にか店主が置いた注文票を手に取り、すっかり温まり緊張のほぐれた柔らかい喉で俺は言った。
「ご馳走様でした」
背後で真鍮製のベルが鳴った。
雨が上がり、外は晴れ渡っていた。珈琲の匂いは薄くなり、温められた空気が湿った埃と黴の匂いを一層強めていた。
「味、すごかったですね」
女が言った。
「これが本当の喫茶店の味なんだ」
そうだ。これが本当の喫茶店の味で、これが本当の珈琲の味なんだ。
一時期では絶滅したと言う喫茶店の生き残りを調査するのが俺たちの仕事だった。
そして喫茶店を騙る偽物の店を挙げるのも俺たちの仕事だった。
だが今日の店は本物だった。
そして今日の珈琲も本物だった。まるで知らない味だった。珈琲に打ちのめされた。今まで本物と判断してきた珈琲の店が危うく思えてくるほどだった。
俺は店を振り返り、その店の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「この店の報告書は、いつもより短めにしておくか」
秘密にしておきたかった。
「黙っておくのでこの後なにかご馳走してください」
女が笑う。
「バカを言うなよ、この後に何か口にして味がわかると思うか?」
「そのためにお酒があるんじゃないですか、先輩も案外バカですね」
そういって彼女は足早に入谷口通りの交差点を曲がっていった。
俺は女の背中を見てから、もう一度だけ喫茶店を見上げた。晴れ間から覗く太陽が逆光になり、店の名前を記した黄色い看板がまぶしくて見えない。
「まぁ、名前なんてどうでも良くなる味だったな」
俺は独り言ち、店に背を向けて歩き出した。
店主は二人が歩き去るのを見送ると大きくため息を吐き、手元に置かれた白い粉の詰まった袋をゆっくりとした動作で隠した。




