少女は夢を見ない
自分の感情が分からない。
彼の笑顔を見ていると嬉しくなるし、落ち込んでいると悲しくなる。
同情、それとも共感だろうか?
一日中彼の事を考えてしまう時がある。
彼の言葉が。奏でる音色が。仕草が。一つ一つ気になって勉強なんて全く手につかなかった。
どうしてしまったんだろう。
自分のことなのに、自分で自分を制御できない。暴れ狂う波のように私の心は荒ぶっている。
呼吸が落ち着かない。平静を装っていてもドキドキしてしまう。
昔読んだ漫画に出てきた描写に例えるのならば。
私は、きっと恋、してしまっているのだと思う。
始まりは、今年の春。
高校生になったばかりの私は強烈な責任感に襲われていた。
小学校の次は中学校、中学校の次が高校。
ここまでは何とか母親の期待に応えている。学年主席を維持して、通知表でオール5を取り続けた。
高校はさらに難しい内容になっていると聞く。果たしていつまで保てるのだろうか。
額にじっとりと嫌な汗がにじむ。春風はまだ冷たいというのに。
私は校舎を目指して桜並木の大通りを突き進む。
ここは市立の学校にしては大きすぎる程、だだっ広い。下手すると迷ってしまいそうだ。
「ん?」
私の位置から少し離れた所に周囲を見回している人がいた。
同じ新入生なのか途方に暮れているのが分かる。
案の定、といったところか。しょうがない、助けてあげよう。
「どうしました?ひょっとして迷ったんですか?」
近づくと一歩後ずさられた。少し傷ついたけど、余程困っているのか逃げて行ったりはしない。
「……えと、入学式の会場ってどこっすか?」
辛抱強く待っているとぼそぼそ声が返って来た。
見た目は冴えない青年といったところか。
くすんだ緑のボサボサの頭のせいで、新品の制服が浮いて見える。前髪が長すぎて顔はよく見えないが。
「私も今から向かう所なので、良かったら案内しましょうか?」
「……あ、あざっす。」
目的地に着くまではお互い一言も発さなかった。
会場に滑り込むと、まもなく式が始まるところの様で、ざわざわとしている。
やがて、マイクの前に立った男が注意すると式が始まった。
校長先生らしき人が出てきて滔々と挨拶を述べ始めるのを欠伸を噛み殺しながら聞く。
話が長いのは法律で決まっているからというのは知っていても、それで退屈が無くなる訳じゃない。
隣をちらと見ると、青年は寝ていた。
どうやったら他人のいる場所で無防備になれるのか、知りたいものだ。
「「あ」」
青年と私の声が重なった。
声が漏れたのは、クラス表に自分の名前があったからだ。それを前提に考えると、青年も同じだと推理できる。
つまり……同じクラス。……ここまで来ると誰かの作為めいたものを感じるが、そんな訳はないだろう。今日会ったばかりだし。
「一緒、みたいですね。」
「……そうっすね。」
なんとなく気まずい空気が流れる。いや、誰が悪いという訳ではないのだけれど。
ふと、好奇心をくすぐられた。青年の名を聞いていない。
「そういえば貴方の名前って何ていうんですか?」
「……え?」
青年は口を半開きにしてポカンとしている。
「言いたくないなら、無理にとは」
「一。」
「え?」
私の言葉が途中で遮られて、思わず聞き返す。
「……自分の名前。井上一……って言うっす。」
青年、一君はそれだけ言うと目を反らす。多分人見知りなのだ。
相手に訊いておいて、自分だけ教えないのは失礼だろう。
「私は篠崎緋色。……もし、何か困ったら、いつでも言ってください。力になりますから。」
私が言うと、こくり、と頷く。
それでお終いかと思ったのだが。
「……………あの。………教室って、どこっすか?」
「………一緒に行きます?」
私の井上君について抱いた印象が方向音痴だったのは、仕方ないと思う。
いざ学校生活が始まってみると、予想以上に大変で。
勉強も国語、数学、理科、社会だったのが理科だけで生物、物理の2教科に分かれ、社会も歴史、地理、現代社会と以前より数が増え、言語学としては新たに英語が加わったのが大きい。
カリキュラム自体も中学校よりグン、と難しくなり、私は以前よりも多くの時間を勉強に費やす羽目に。
加えて部活。内申点の為にも入る必要があり、経験がある方が何かと有利だと思い、中学と同じ吹奏楽部に入ることにした。
勉強と部活の両立の他にもう一つ問題がある。
それは私の意識に入ると無視できなくなるもの。そう、井上君だ。
「………。」
入学した次の日。彼はカフェテリアの前に立ち尽くすと、ぼけーっとしていた。
「何してるんですか?」
「………なんでもないっす。」
気になって声を掛けるとふい、と顔を背ける。
「早くしないとお昼の時間過ぎちゃいますよ?」
今は昼休み。多くの生徒はここで昼食を取るのが一般的だ。
「……手元のそれ、お弁当っすか?」
井上君は指で私の持っている包みを指しながら尋ねてきた。
「そうですけど。」
「ふーん……。」
何気ない質問。別におかしなことじゃないけど、井上君が意味もなく話しかけてくるとは思えない。
「私に何か用ですか?」
「……いや、別に用ってほどじゃないすけど。……こういう場所ってカフェ、って言うんすか?」
「……何が言いたいんですか?」
いつまでも核心を話さないので、若干イラつきながら尋ねる。
「……自分、こういうオシャレな場所、初めて見たっす。」
言われて、改めて見回してみたけど、別に普通のカフェテリアだ。
「……もしかして、遠くから来ました?」
私は自分なりの推察を話してみた。田舎って訊かなかったのはちょっとした配慮だ。
予想通り、彼が答えた場所は聞いたことのない地名だった。
「……だから、飯、どこで食おうって。」
漸く何が言いたかったか分かってきた。
「つまり、一人で入れないと。そういうことですか?」
無言が返ってくる辺りきっと図星なんだろう。
「……はぁ、しょうがないですね。じゃあ、一緒に入りましょう。」
手の係る男だ。私が呆れながら中に入ると、数歩後ろをついてきた。
「頂きます。」
私達は奥のあまり目立たない所に二人で並んで座った。
私は自分で作ったお弁当に手を付ける。
夕飯の余り物で作ったから、手間はそんなに掛かっていない。
気になって隣を横目に見ると、井上君はあらぬ方向を向いていた。
「お昼、食べないんですか?」
「……皆、どうやって、お昼頼んでんっすか?」
彼が見ていたのはカレーやラーメンなど、お昼ご飯を運ぶ生徒たちだったようで。
注文の仕方が分からないようだ。
私は自分の手を止めて、券売機へと向かう。
「これは券売機っていってですね……。」
何故、ここまで面倒を見なければならないのか。前言撤回したい気分だった。
授業が終わって。私は誰かさんのせいで疲弊していた。このまま真っ直ぐ帰りたい気分だ。
しかしそういう訳にはいかない。今日は部活紹介のある日だ。何の部活があるか調べておかなければ。
体育館へ向かおうとしてくすんだ緑色が見えた。
「……まさか。」
そーっと近づくとやっぱり井上君だった。相変わらず道に迷っているようだ。
「今度はどこに行こうとしてるんですか?」
声を掛けると彼がびくっとして振り返った。
「……なんでもないっす。大丈夫っす。」
目線を微妙に逸らしながら、ぼそぼそ呟く。
「どこに向かってるんですか?」
「……体育館っす。」
再度問いかけると、観念したように返事が返ってきた。体育館ということは部活に入るのか。
「それならこっちです。」
「……………あざっす。」
彼が行こうとしていた方と反対を指すとぺこりと頭を下げて来た。
「ちなみに何の部活に入るんですか?」
「………まだ決めてないっす。」
つまりこれから探すのか。
「………あの。」
部活紹介を見終わって帰る途中、声を掛けられた。
もう何度も聞いたから振り返らずとも分かる。井上君だ。
「……何ですか?」
「………………………これ。」
すっと差し出されたものを見ると、お茶だった。私に?と自分を指すとこくっと頷く。
「いいですよ、お礼なんて。私が勝手にやったことだし。」
やんわりと断っても、手は差し出されたままだ。受け取るまで帰らない気か。
「………今回だけですよ?」
私がボトルを握るとやっと手を放してくれた。
あまり売れていないのか、お茶はひやりと冷たい。
受け取ってすぐに口に含むと、ほのかな苦みが広がる。自分が思っていたより喉が渇いていたようだ。
「……有難うございます。」
彼の口の端が少しだけ上がってるように見えた。すぐに目を逸らされたから分からないけど。
私と井上君の親しいとは言えないなんとも中途半端な関係は暫く続く。
大抵、彼が何かに困ってて私が助ける、というパターンだったけど、ごくたまにお返しがくることもあり。
変化があったのは入学してから一か月後位だった。
放課後。私は置いてきてしまった楽譜を取りに教室へと向かっていた。
何かの音が教室の外から響いてきた。これは…ギター?
そっと教室を覗くと中には井上君が居た。手にはアコースティックギター。
彼が演奏してるんだ。
気付いた時、一番最初に思い浮かんだ感情は感動でも驚きでもなくて、呆れに近いものだった。
音楽なんてやるだけ無駄なのに。
確かに自分も吹部に入っているから、人のことはいえないと思うだろう。
私と彼は音楽をやっていても目的が違った。私は評価、彼は多分夢の為。
夢とか理想とか、そういう甘ったれた考えの人は見ているだけで虫唾が走りそうになる。大っ嫌いだ。
そんなもの、とうに捨てて来たガラクタ。
私は自分の中の温度が一気に下がるのを感じた。同時に井上一という人間に対する興味も失せる。
楽譜を取りに行かなきゃない。分かっていても、心が拒絶する。
暫くその場で自分自身と格闘しているとドアがガラリと開いた。
「え……、篠崎さん?」
練習が済んだのか、中から井上君が出てくる。……なんてタイミングの悪い。
「ちょっと失礼します!」
私は驚く彼の真横を通って教室に入り、ロッカーを開け、目当てのものを見つけるとすぐに廊下へ出る。
横を通る時、何とも言えない表情で見られたのは、少し気になったけど。
家に帰る途中、昔読んだ漫画を思い出した。
タイトルは……忘れた。何年前だっけ?
私が初めて惚れた人は漫画に出てくる美少年で、彼も音楽をやっていたのだ。
もっとも、彼はプロとして既にデビューしていたけど。
彼は背が高くて、優しい、王子様みたいな人だった。
井上君がギターを弾いているのを見て、思い出すなんて、彼は私の王子様?……なんてね。皮肉もいいところだ。
「………………あの。」
登校中、私は井上君に声を掛けられた。そんなこと初めてだったから、思わず振り向く。
「何?」
殆ど反射的だった為、敬語も忘れていた。
「………昨日のこと。」
そう切り出されて、すぐに演奏していたことだろうと思い当たった。私にとっては思い出したくない出来事だ。
「あぁ、秘密にしろって言うんですね?分かりま」
「どうでした?」
思考がフリーズする。え、今彼、何て言った?
一瞬聞き違いかと思ったけど、彼の表情は何かを待っているようで。
いつもはぼんやりしているのに、その時は真剣そのものの表情をして。
普段とのギャップに少し、自分が驚くのが分かった。
「基礎は出来てたけど、その分丁寧に弾こうとしてテンポが遅れてたと思います。」
適当にあしらってもいい筈なのに、馬鹿正直に意見を述べている自分に再び驚く。
ほら。余計なこと言うから、井上君が考えこんじゃったじゃん。
「あぁ、すみません。今のは忘れて下さい。」
「いや、参考になったっす。……ありがとうございます。……それと」
まだ何かあるのかと身構えると彼は目を逸らしつつ。
「敬語じゃなくていいから。疲れるし。」
「…………!」
絶句した。この男は読めない。とはいえ、その申し出はこちらとしても有難い。
「分かった。」
彼に対する関心はなくなったのに、距離は逆に縮まったような気がする。
帰ろうと準備をしていると、またもや声を掛けられた。
「あの、今日、暇?」
入りが入りだったから、私はいきなり何を言い出すんだと警戒してしまう。
「や、変な意味じゃなくて。またアドバイスが欲しいんだ。」
井上君は手を振って否定するとすぐに本題を切り出す。
「……あれは思ったことを言っただけで。アドバイスなんかじゃ」
「指摘は合ってたと思うんだ。一言でもいいから。」
彼は頭を下げてお願いしてきた。ここまでされて見捨てるのも後味が悪い。
「……いいの?私、アコギなんて分かんないよ?」
音楽に関する知識は多少はあるものの多分、彼の方が多い。
プロを目指しているのならもっと音楽に詳しい人の方がいいはず。
「……や、俺、口下手だし。頼める相手が篠崎さんしかいなくて。」
なるほど、確かに。それならば道理にかなっている。
「……分かった。今日部活、顧問の先生が休みだし、15分位なら。」
「あざっす!」
嬉しそうだった。
「まず、いつも通り弾いてみて。」
「うん。」
時間が無いので、早速始める。最初はじっくり聴くところからだ。
教室にギターの演奏音が鳴り響く。黙って聴いていると、ステージを見ているかの様な気がしてくる。
「どう?」
「筋は悪くないと思う。『草原と空』のアレンジだっていうのは分かるし。」
井上君が弾いていたのは、最近人気のJポップだった。
自然を思わせるような瑞々しいメロディーの曲だ。私もたまに聞くことがある。
「他には?」
「うーん、原曲をジャズ風にアレンジするのはいいけど、大自然の壮大さが伝わりにくくなってる。後、やっぱりアレンジだから、本家に寄せすぎるんじゃなくて、もう少し冒険してもいいと思う。」
私の指摘をうんうんと聞きながら、メモしていく。
15分はあっという間だった。
「じゃあ、帰るから。」
「お疲れ。」
帰り道、気が付くと彼が弾いていた歌を口ずさんでいた。
「ただいま。」
「あら、早かったわね。今日部活は?」
家に帰ると母親が私を出迎えた。やっぱりそう来るか。
「顧問の先生が休みだったから、無し。」
「あらそう。……それなのに15分近くも遅くなったの?」
お前は時計か。突っ込みたくなるがここで回答を間違えちゃいけない。
「ちょっと事件があって。」
「………ふーん。」
何かを訝しんでる風だけど、本当のことを言うとめんどくさくなるから言わない。
私は急いで自分の部屋に行って、スマホで動画サイトを開く。アドバイスするなら曲をもっと知らないと。
音楽を聴きながら、宿題を進める。
……いつもよりも問題を解くペースが遅く、夕食ぎりぎりにやっと終わった。
「おはよ。」
通学途中、井上君の姿を見かけたので、たまにはと声を掛けてみた。
「……あ、はよ。」
言いながら、ふわぁ、と彼は大きく欠伸をする。
「寝不足?」
「……うん、昨日見たアニメが面白くて。」
あにめ?って何だっけ?確か日本のポップカルチャーだったような。
「アニメって何?」
「何のアニメじゃなくて?」
質問が交差する。そっか、アニメのことは知ってて当然なのか。
「うん。」
「……まじ?」
分からないものは分からないので素直に訊く。
「……えー、何て言えばいいの?」
彼は少し考えてから、「パラパラ漫画って知ってる?」と質問してきた。私は首を横に振る。
「……え、篠崎さんってどういう環境で生活してたの?」
ちょっと引いたような反応をされるとしょうがないとはいえ、やっぱり傷つく。
「私の家は娯楽とか一切許されなかったから。」
そう言うと彼はしばらく無言になってから、「そっか。」とだけ呟く。
意外だった。多くの人は可哀そうだったね、とか厳しい家なんだね、といった反応をする。
そのたびに私は自身を否定されているような気がした。
「あ、今日は放課後付き合える?」
「ごめん、吹部の練習があるから。」
嘘は言っていない。それなのになぜか、彼に対して悪いことをしているかのように心苦しい。
「じゃあ、昼休みは?」
「……え?」
休み時間ってギターを弾いていいものか?でも、ピアノだったら許されるし、同じ楽器なら大丈夫?といろんな思考が巡る。
「井上君って軽音部入ってたっけ?」
それなら許可して貰えるのではないのだろうか。
「いや?……でも、楽器さえ運べれば屋上でも弾けるし。」
彼の言葉に私は耳を疑った。
この人、校則違反する気だ!!
「駄目だよ、見つかったら先生に怒られちゃう!」
「大丈夫、ルートは有るから。」
彼は私の話を一向に聞こうとしない。どうしよう。
「どうしてそこまでこだわるの?」
「……プロのミュージシャンになりたいから。」
即答された。彼の目は本気だ、ということを物語っているのように真剣そのもの。
……分からない。叶うはずも無い夢に、そこまで時間と労力を費やすのはなんでなんだろう?
「駄目ならいいよ、一人でやるから。」
それだけ言うとさっさと一人で歩いて行ってしまった。
……私は、なんて返せば良かったんだろう?
昼休みがやってきた。
先生が居なくなると、井上君は普通にギターケースを持って教室から出ていく。
誰も彼を気に留めた様子はない。私はある意味すごいなと感心する。
私は少し迷った後、屋上へと向かってみる事に。
そういえば、行くのは初めてだ。
最上階へ行き、そのまま屋上へ行こうとして、入り口で足を止める。
階段の前には太い鎖とプレートが有り、そこにはでかでかと立ち入り禁止の文字。
……井上君は上に居るのだろうか?
「あれ、篠崎さん、来たの?」
カツカツと階段を下りる音がして、彼が姿を現した。
「屋上から出てきたの?」
「……いや、昼飯を買いに。」
彼の手には黒いがま口財布が。
「大丈夫なの?」
「多分。篠崎さんも来る?」
悪魔の囁きだ。行ったことのない禁断の場所に行きたい気持ちと止める気持ちが競り合う。
「……うん。」
結局勝ったのは好奇心。人間、誘惑には弱いものだ。
「結構、高いね。」
購買部で昼食を買った後、私たちは屋上に居た。
「そう?普通じゃない?篠崎さんってもしかして高いとこ駄目?」
「……うん。」
忘れてた、唯一苦手なもの。私は高所恐怖症なのだった。
「下、あんまり見ない様にすれば大丈夫だよ。」
「分かってるんだけど、つい。」
高いところに居ることを意識するだけで怖くなってしまう。
「……どうする?やめる?」
「……ううん。」
頑張って克服しなきゃ、その一心でなんとか立つ。
「無理しないでね?」
屋上の床に膝を折って座る。井上君は正面に座った。
「昨日曲聴いてて思ったんだけど。」
私が話し出すと彼は紙とペンを用意する。一言一句聞き漏らすまいとするように。
「井上君のアレンジって優しいよね。」
「……そう?」
彼はペンを持ったまま考え込む。
意外だといった様な反応に私は一人で納得した。自分の音がどう聞こえているかは分からないに決まっている。
「うん、アレンジを聞いた後に原曲を聞くと結構激しいなって思った。原曲を思っているよりも知らなかったから、前は冒険が足りない、って言ったけど、結構色々と工夫してるんだなって。」
「率直に言うと?」
え?そこ聞く?否定ばかりになったら良くないかなーって思ったんだけど。
「あの曲をジャズ風にアレンジしても合わないと思う。」
「……そっか。ありがとう。」
彼は紙とペンを置いて、ギターを持つと、シャンシャンと弾き始めた。
……ギターって色んな響きが出せるんだなぁ、と関心する。
井上君が弾くのを聴いていると、時計が昼休み終わりの5分前を指し示した。
「……そういえば篠崎さんの連絡先、まだ訊いてないよね。良かったら教えて?」
一瞬ドキッとしたけど、友達だもん、当たり前か、と思い直す。
私達はお互いの番号を交換すると教室へと戻った。
………どうしよう、違反してしまった。お母さんにばれないようにしないと。
ばれたら怒られる。そうしたら井上君と関われなくなってしまう。それは嫌だ。
………え?今私、なんて考えてた?
思い返す。こんなの初めてだ。よく考えれば家族以外に自分から関わりにいったのは初めてかもしれない。何でだろう?
知識のないことを必死に考えても、答えが見つかる訳がなかった。
「篠崎さん。」
朝、ぼうっとしながら歩いている時にいきなり声を掛けられて私ははっとする。
「井上君。……おはよう。」
「どうしたの、何かあった?」
彼の目ざとい質問に私は焦る。まさか君のことを考えていたんだよ、なんて言える筈がない。
「ううん、何にも。私に何か用事?」
嘘をつくのは良くないことだけど、場合が場合だ。
「まぁ、それもあるけど。昨日、声掛けてくれたから。」
彼なりのお返しというやつなのだろう。
「ごめん、迷惑じゃなかった?」
「素直に嬉しかったよ。ほら、俺ダチ居ないし。」
どうしてこの人はこんなにも正直なのだろう。何故か可笑しくなって笑ってしまった。
「……何で笑ってるの?」
「別に。確かにそうだなって思っただけ。」
半分笑いながら答えると彼はむっとした表情になる。
「今まで言わなかったけど、篠崎さんも他の人と絡んでる所、見たことないよ。」
「あー、まぁ、そうだね。仲良くなっても一緒に遊ぶなんて、お母さんが許さないだろうし。」
私の言葉に井上君は一瞬考えて。
「君のお母さんってどんな人?」
「教育ママゴン。」
彼がぷっと噴き出す。私もつられて笑った。
「……いつの言葉だっけ?かなり古くない?」
「前調べものしてる時に見つけたの。はまりすぎて、笑いを堪えるの大変だった。」
「そうなんだ。」
二人で一しきり笑った後、「あぁ、そうだ。」と何か思い出した様に彼は私を見る。
「今日は部活あるの?」
それを聞いて納得した。きっとまた音楽を聴いてほしいのだろう。
「あるよ。……私、ひま人じゃないからね?」
「じゃあ、また昼休み。」
それだけ言うと、また後でね、と行ってしまう。
何となく名残惜しくて、暫く離れてく彼の背中を目で追っていた。
「井上君って、何で音楽が好きなの?」
風に吹かれて遊ぶ髪を撫でる。屋上は風が強い。
「兄貴の影響…かな。もう社会人なんだけどさ。俺がガキの頃よくライブに連れてってくれて。」
彼の目にはロックをやっている人達が輝いて見えたという。
「それで俺もこの人達みたいになりたいって。……険しい道なのは分かってる。それでもやってみたいんだ。」
「ふーん……。」
相変わらず分からない。なんで夢を夢だと諦めないんだろう。自分には可能性があるって……信じられるのか。
「篠崎さんは夢ってないの?」
「え」
有ったような気がする。でも、今は……。
「ない、かな。」
医者になるという目的がある。それを夢だという人も居るだろう。
私は違う。医者になりたいのはあくまで目的という現実的な事柄に過ぎない。
「夢を持つのが怖いの?」
「……怖い?」
意味が分からない。
「失敗するのが怖いんだろ?だから一歩踏み出そうとしない。」
「違う!!」
気がつくと強く否定している自分がいた。
「違う、違う……、そんなんじゃ。」
声が小さくなる。視界が回る。気分が悪くなる。
「大丈夫?顔色悪いけど。」
「……先に教室、戻るね。」
それだけ言ってその場を離れた。
その後は井上君と話さずに帰宅。彼の言葉がフラッシュバックする。
怖いんだろ?怖いんだろ、怖いんだろ………。
そんなことない、と言い切れないのが悔しかった。
私は、逃げてたの?散々、夢を馬鹿にしていたのは怖かったからなの?
だとしたら、かっこ悪すぎる。
惨めだよ………。
明日、どんな顔をして井上君に会えばいいんだろう。
気が付くと私は学校に向かっていた。
昨日の夜から朝までの記憶がすっぽり抜け落ちている。自分がどうやって寝て、何時に起きたか覚えていない。
「………おはよう。」
背後から遠慮がちに声を掛けられた。相手はもちろん、井上君だ。
「……おはよう。」
「……あの。昨日はごめん。少し、言い過ぎた。」
珍しく早口だった。きっと彼なりに色々考えてくれたのだろう。
「……いいよ、井上君の言ってたこと、合ってると思うし。」
「勿体ないと思ったんだ。」
急に大きな声を出されて、私はビクッとする。
「篠崎さんは頭もいいし、スポーツもできる。賞だっていっぱい取ってる。俺より多くのものを持ってるのに、一番大事なものをとりこぼしているような気がして。」
「……それって夢?……無理だよ、幼いころから何一つ自由が許されなかった。皇室よりももっと息苦しい暮らし。……そんな中で理想なんて描ける?」
分かっていないのだ、篠崎緋色という人間の事を。私の歩んできた道なんて、何一つ知らない。
「……だったら、こんな生活は嫌だ、自由になりたい、って思いはきっとあった筈。キミはきっと自分で選択肢を狭めてしまっているんだ。」
井上君の言葉に弾かれるようにハッとした。
そうだ。どうして忘れていたんだろう。それは、拘束されているなら当たり前に持つ願い。
……やはり逃げていたんだろうか。
他人の敷いたレールの上を歩くだけの人生を私が許容してしまったのだろうか。
「……私はどうしたらいいの?」
小さく呟く。
「……それこそ、篠崎さんが決めないと。」
唇を噛む。自分がどういう選択をすればいいのか、皆目見当もつかない。
「とりあえず、さ。余計な事を考えないで、自分が何をやりたいのか、やりたかったのか、考える所から始めればいいんじゃないかな。」
「………うーん。」
そういわれても、なぁ。まず間違いなく、母親は反対するだろうし。
考えた所で実行できるか、ということをすぐに思い浮かべてしまう私にはすごく難しい。
「……俺だって、100%なれるなんて思っちゃいないさ。でもやりもせずに諦めるのと、多少足掻いてその上でやっぱ無理だってなるのでは、違うと思う。」
「………そういうものかな。」
「俺の考えはね。」
いつの間にか隣に来ていた彼の横顔を見る。
相変わらず、くすんだ色のぼさぼさ頭。なのに。
私は目を逸らす。
言っていることだけはかっこいいんじゃないか、なんて思っている自分がいた。
キンコン、とチャイムが鳴るとお昼ご飯だ。
私は井上君が出ていってから、頃合いを見計らってそぅっと屋上に行く。
すると、彼が居た。いつも通りギターを弾いているのかと思えば、何か書いている所だった。
「何書いてるの?」
「楽譜。」
紙とにらめっこしたまま答える彼。辺りには中身が空のパンの袋が無造作に置いてある。
「何の曲?」
「俺の好きなアーティストの新曲を耳コピしたやつ。」
言いながら、スラスラと楽譜を埋めていく。
「そっか、草原と空も最初は原曲を弾いてたのか。」
「うん、俺、そこまで器用じゃないし。……できればアレンジじゃなくて曲作りたいんだよね。」
作曲かぁ。やったことないから分かんないけど、難しそうだ。
「聴いてみる?」
片耳だけイヤホンしながら聴いていたらしく、私にもう片方を手渡してくる。
きっと、聴いて欲しいのだろう。頷いて、イヤホンを嵌める。
穏やかで優しい、ゆったりとした音楽が聞こえてきた。カフェでかかってそうだ。
「これ、誰の歌?」
楽譜を書く手を止めずに答える。知らない名前だった。
暫く、音楽を聴くことだけに意識を集中させる。
曲が終わった。彼はミュージックプレーヤーを操作して、リピートすると、また、耳を澄ます。
どうやら同じ作業を何回もやっているらしい。
「よく飽きないね?」
イヤホンを外して返すと、カバンからお弁当箱を取り出してふたを開ける。今日はオムライスだ。
「お、旨そう。」
匂いに反応したのか、気づくとこっちを見ていた。視線はオムライスに注がれている。
「ま、これくらいはね。」
いただきますと言ってから、オムライスを食べようとして。
まだ視線が気になった。食べたいのだろうか。
「な、何?もしかして好物?」
「うん。」
「……そんなにじーっと見られると食べにくいんだけど。」
「…………。」
「…………一口、要る?」
こくり。
しょうがないので、箸を反対にしてオムライスを小さく切り分ける。
………どうやって渡せばいいんだろう?
困ったけど、箸は一膳しかない。それを貸すなんて、言語道断だ。
「………あのー、諦める気は?」
「ない。」
そこ断言されても。
悩んでいても時間は勝手に進む。……致し方ない。
「……はい」
私が箸とお弁当箱を彼に渡すと、嬉しそうにもぐもぐ食べ始めた。まるで小動物だ。
自分の顔が火照っているのが分かる。……恥ずかしい。
ちらと目線を上にやると満足そうにほおばっているリスの姿。
……こいつには恥ずかしいとか、ないの!?
「ごちそうさま。」
きっかり一口分食べると、お弁当と箸が帰って来た。
「………どうだった?」
やっぱり感想は気になる。人にお弁当あげる(ほぼ強制的に)とか初めてだし。
「そこそこ旨かった。」
何、その何とも言えない感想。人から貰っていう言葉がそれか!?
「冗談。美味しかった。」
彼は口の端をぺろりと舐めた。
今回のお弁当の件で分かったことがある。
私、今、ドキドキしてる。
空はいつの間にか夕焼けを通り越して薄闇色に染まっていた。
部活が終わって帰る途中、私は考えを巡らす。
……いや、嘘だ。本当は部活なんて手につかなかった。
初めての異性に対する、胸の高鳴り。
これってあれだよね、………恋、だよね。
自覚して尚、コントロールできない。むしろうるさくなるばかりだ。
私はどうしたらいいの?
前に、井上君に尋ねた問い。それが今は別の意味で返ってきている。
困ってしまうような、でも嫌じゃない、という訳の分からない感情。
振り回されて、それでもいい、と思えるのは。……いや、むしろこの感覚の海に沈んでいたいと思うのは。
おかしいのだろうか?
私は再び昔読んだ漫画を思い出す。
漫画ではドキドキする、恋しちゃってる、とか端的な表現しかなかった。
そりゃ、そうだろう。だって恋を説明するのに十数ページでは足りない。
極端な話、それだけで論文でも書けそうだ。
冷静に考えようと努めていても、頭にはあのぼさぼさ頭の青年が浮かぶ。
彼の、一君の笑った顔を見たい。喜ばせてあげたい。
今まで利己主義的に生きてきた。それが今はどうだ。
すっかり、彼を中心に考えているじゃないか。
このままでは、駄目だ。医者になるなんて以ての外だ。
……私の夢、かぁ。
井上君と結ばれたい、じゃあ、駄目かな?
いまはそれ以外何も考えられない。どうしよう。
悩んでいるうちにも家は近づいてくる。
どうしよう。どうしよう。…好きだ。
「緋色ッ!!あんた一体、何考えてるのっ!!」
家に入ってすぐ、お母さんの叱責が飛んできた。
顔は真っ赤で、眉がこれ以上ないほど、吊り上がっている。相当怒ってるようだ。
………え?私、何かした?
「先生に聞いたわよ。あの日、委員会は無かったって!!どうもおかしいと思ったら、最近、男と絡んでるそうじゃない。
勉強時間だって明らかに減ってるし。あんた、まさか何か余計なこと吹き込まれたんじゃないんでしょうねっ!?」
「嘘っ!?娘のプライベート、勝手に調べたの!?最っっ低!!もうやだ、顔も見たくない、あんたなんか親じゃないっ!!大っ嫌い!!」
気が付けば、私は猛る感情のまま、全てを母親にぶつけていた。
母親の顔がさっと青ざめたのが分かったけど、見ないふりをして、部屋に入って鍵を掛ける。
ベッドに横になって井上君のことを考えるけれど、どうしても母親の影がちらつく。
……さすがに言い過ぎたかな。
今になって後悔する。そういえば反抗したのは初めてかもしれない。
明日、謝ろう。
その日、私の部屋のドアがノックされることはなかった。
次の日の朝、異変が起こった。
部屋のドアを開けようとしても開かないのだ。おかしい、鍵は開いてるはず。
どれだけ力を入れても、ピクリともしない。……一体なにが起こってるの?
私はドアをドンドンと強くたたく。
「助けて!助けて!!お母さん、助けてよ!!」
「お姉ちゃん、だいじょうぶ?」
SOSに答えたのは意外にも妹だった。
気のせいだろうか、声が遠い。
「茜!ドアが開かないんだけど、どうなってるの?」
「ひみつきちみたいになってる。」
妹の言った意味が分からなかった。ひみつきち?
「うーんとね、何か、ものがいっぱいある。」
「ドアの前に?」
「そう。」
今のやり取りで完全に理解した。犯人は母親だ。昨日の仕返しに私を部屋に閉じ込めるつもりらしい。
私の中にメラメラとした怒りが燃え上がる。そこまでして従わせたいのか。
机の上からスマホを取って、電話を掛ける。母親じゃない、井上君だ。
絶対掛けることないと思っていた番号。幸いにも電話はすぐに繋がった。
「もしもし?」
「どうしたの、こんな朝早くから?」
若干機嫌が悪そうだ。それも当然、時刻は午前6時前である。
「母親に部屋に閉じ込められて。」
「は?」
何言ってんだこいつ、と言わんばかりの態度を取られても、事実だから仕方がない。
「ドアの前に障害物を置かれて、出られないの。」
「だったら窓から出れば?」
「ここ2階だよ!?」
大怪我するのは目に見えるので、飛び降りるわけにはいかない。
「家、どこ?」
住所を教えると「あぁ、あのあたりか。」と呟いた。
「今から行くから、上で合図して。」
それきり電話はプツンと切れる。どうする気だ?
とりあえず窓から外を見てみる。庭には季節の草花が咲いていて、彩りを添えていた。
そのままぼうっとしているとチリンチリン、とベルのような音が。
現れたのは、自転車に乗った井上君。こっちを見てなにか喋っているので、耳を澄ます。
「俺が受けとめるから、そこから飛んで。」
……はぁ?今度は私が困惑する。ちゃんと受け止めてくれるか分からないし、出来る訳がない。何より勇気がいる。
とはいえ、時間は刻々と過ぎていく。……やるしかないのか?
窓を開けて、窓枠の上に座る。目を瞑って手を放す。
ふわぁ、と風に制服のスカートが舞い上がったかと思うと、気づけば、井上君の腕の中に収まっていた。
「な?大丈夫だったろ?」
井上君が笑う。私は何も返せなかった。
完全に思考がショートしていたのだ。高い所から飛ぶ恐怖と好きな人の腕の中に居るというときめき。それに安堵がない交ぜになる。
シャンプーのような香りがした。……いい匂い。
「大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込まれると恥ずかしくなってくる。
「う、うん、ちょっと緊張しただけ……。」
言い淀むと、?って感じだったけど、緊張してそれどころじゃなかった。
「あれ?カバンは?」
言われてハッとする。飛び降りることに意識を集中していて、そっちまで気が回らなかったのだ。
「……置いてきちゃった。」
「そっか。……戻れないよね。どうしよっか?」
少し考えるそぶりを見せた後、彼は再び笑う。今度はいたずらっぽく。
「このままどっか行く?」
……あぁ、この人は。どうしていつも私を誘惑するのだろう?
イケナイって分かってる。それでも。
私は黙って頷く。
自転車の後ろに乗って街中を駆けていく。普段見るよりも色が鮮やかに見えるのは気のせいか。
「俺、買いたい物あるんだよね。」
井上君は古ぼけたビルの前で足を止める。CDショップだった。
「ちょっと、このまま店に入るのはまずいんじゃ……。」
「ん?あぁ、平気、へーき。何とかなる。」
彼のいい加減な返事に不安は増すものの、まぁ、学校はサボっちゃってるんだし、と自分に言い聞かせる。
これでいいのだろうか。
確かに強引に自由を得た。でも、それは間違った道だ。このまま進んで待っているのは何だろう?
「井上君、私……。」
言葉がそこで途切れる。理由は簡単だ。
急に彼に抱きしめられたからだ。
「……え?」
「……ごめん、つい。」
彼は優しく離れると真っすぐに私を見つめる。
「今日連れ出した位で問題が解決する訳じゃないのは分かる。でも、もっと頼って欲しい。」
「井上君……。」
彼が心情を吐露するのを初めて聞いた。……もしかして彼も同じ想いを持っていたりするのだろうか?
訊きたい、聞きたい。けど、怖い。今まで二人を繋いでいたものが解けてしまいそうで。
「……やっぱり、俺じゃあ、駄目?」
「そんなことない!」
首をぶんぶんと横に振る。
夢を見ることを思い出させてくれたのは他でもない、井上君だ。
……ただ、私に勇気がないだけ。
______怖いの?
以前、訊かれたこと。
そう、今でも母親に立ち向かうことが怖くて仕方がない。
ずっと言う通りにしていた。正しいと思ってたから。
けれど、段々、ずれが生じてきた。
彼女の言う正しさと、成長するにつれ膨らんでいく私の中の欲望。
見ないふりをしていただけで、それは確かにあった。
キミが教えてくれたんだよ?
……そろそろ限界なのかもしれない。きっといつかは来るものなのだ。
___ここが分岐点。
「助けてくれてありがとう。私、ようやく分かった。今度は逃げない。」
「……そっか。」
私の宣言とも言えるべき発言に彼は頷く。
「……只、一人じゃ難しいから、手、借りるね?」
小さな呟きに彼は驚いたような顔をすると、再び頷いた。
今度は嬉しそうに。
「分かった。それで何をしたらいい?
「うん、そのことなんだけど……。」
インターホンを押す。
「はーい、ただいま。……えっ」
出てきたのはお母さん。
「あんたね、私に黙って家を抜け出して」
「突然失礼します。担任の港坂です。」
勿論画面に映った私を見るなり、説教が始まるけど、それを遮ったのは私達の担任の先生だった。
あの後、私達は学校に行った。
当然怒られたけど、井上君に手伝ってもらいながら先生に事情を説明して、私の家まで来てもらったのだ。
私一人じゃ、まともな話し合いの場を作る事も出来ないのは目に見えていたから。
「緋色さんと一君から話は聞きました。貴方が緋色さんを家に閉じ込めて、そのせいで学校に来ることが出来なかったと。
それは本当ですか?」
「まっ、まさかそんな。くだらない子供の言い訳ですよ。先生も真に受けるだなんて、ちょっと如何なものかと。」
先生の静かな怒りに気圧されて、お母さんは一瞬怯むけど、それ位で負けるような人ではない。
私は、張本人が、よくもまぁ、いけしゃあしゃあと人のせいに出来るものだと呆れていた。顔を見る限り、井上君も同様だろう。
「残念ながら、もし本当だった場合、私は貴女を警察に突き出さなきゃいけなくなるんですけどね。確認の為にお宅に入らせてもらってもいいですか?」
警察、という単語にますますお母さんの顔色が悪くなる。
「お母さん、ちょっといいかな?」
とはいえ、親を犯罪者にはしたくないので、割って入らせてもらう。
「私は話がしたいだけなの。だから聞いてくれる?」
「…………何。」
親を脅迫したような状態になってやっと、話が出来そうだ。
「私は、医者にはなりたくない。」
ゆっくり、はっきりと言い切る。
「なっ……!あのねぇ、私はあんたの為を思って」
「うん、知ってる。……でも、だからといって夢を見ることも許さないっていうのは、少し違うと思う。」
「………。先生、井上君。ここで話すのは良くないと思いますので、いったん中に。緋色、あんたも。」
お母さんは憮然とした表情のまま、黙って話を聞いていたが、私達を家の中へと招く。
リビングに行って、それぞれが座ってからお母さんがお茶を用意しようとして、先生に止められると、黙って椅子に座った。
「……違うって、何が。」
話の続きに戻る。
「親は子供を正しい方向に導く役割があるかも知れない。……でも、それは子供を束縛していい理由にはならない。そもそも夢を見るのは、思想の自由に当たるから、国民皆に認められた権利の筈。親が奪えるものではない。」
「…………。」
何か言いたそうな顔をしながらも、黙って聞くお母さん。茶々を入れたくても先生が居るから出来ないのだ。
「前だったら、言う通り医者になってもいいし、なるつもりだった。そんな時、井上君が夢や理想を持つ事の大切さ、目標に向かって努力して一歩一歩近づいてるって実感する楽しみを教えてくれた。私だって自分で夢を見つけて、叶える為に努力したい!彼を見てそう思ったの。」
言葉が止まる。何をどう言ったら伝わるのか、分からない。
「篠崎さん、貴方だって何か夢がある時代を経験してるんじゃないですか?その時の感情は悪いものだったと断言できるでしょうか?」
困っていると、先生が助け船を出してくれた。
「私は夢を見る、持つことが悪いことだとは思いません。失敗したらやり直せばいいし、叶わないと分かったら、また別の道を模索すればいい。そうやって、人は成長していく生き物なんじゃないでしょうかね。」
「…私は、娘に自分みたいな思いをして欲しくないからっ……。」
お母さんが少し泣きそうな声になる。
そうだったんだ、知らなかった。お母さんにはお母さんなりの理由があったなんて。
「緋色さんの人生は彼女だけのものです。我々はアドバイスは出来ますが、結局、本人しか道を切り開いていくことは出来ない。
失敗もまた、緋色さんの選択した道です。どうか彼女を暖かい目で見守ってください。そして間違ったら、その時は正しい方を示してあげてください。」
先生の言葉にお母さんはとうとう涙を流す。初めて見た母親の弱さ。
私達3人はその様子を黙って見ていることしか出来なかった。
お母さんが泣き止んだ後、先生は学校に戻った。
今日は私と井上君は、二人とも体調が悪くなったということで処理する方向になったらしい。
お母さんは何も言わずに自分の部屋へと行ってしまい、リビングには私と井上君だけが残った。
「ってか、俺、ここに居る意味あった?」
言われて考えてみる。先生の説得には必要だったけど、お母さんの説得に必要だったかと問われると何とも言えない。
「……うん、あったと思う。」
とはいえ、それを本人に言うのは些か失礼だろう。そう思ったのだが。
「多分、嘘だよね。……いやいいけど。」
すぐに見破られてしまう辺り、私はまだまだ甘い。
「……篠崎さんのおふくろ、大丈夫なの?」
「……分からない。相当ダメージ受けてたし、立ち直るまではまだかかるんじゃないかな。」
私の声は届いた…と思いたい。元気になったら、また話そう。そうやってゆっくり、説得していこう。
「………ところで。」
「何?」
「井上君のさっきの言葉。……あれって告白と受け取っていいの?」
お母さんとの問題がひと段落した今、私には解決したい疑問があった。
「え?あぁ……、そう聞こえた?……いや、そういうつもりじゃ。」
井上君が急にしどろもどろになる。照れているらしい。
「冗談。……さっきの井上君、かっこよかった。」
「え……、あ、ありがと。」
私が微笑みかけると、彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。
反応を見るに可能性はありそうだ。
これから私は夢と言う名のレールを敷くつもりだ。
果たして、私は自分で敷いたレールの通りに進めるのか、また、たどり着く先に井上君の姿はあるのか。
その答えはまだ、誰も知らない。