第8章 忽然と消えるってこと。おいおい、それって存在しないってことかい?
第8章 忽然と消えるってこと
このオカンの直球の余韻覚めやらぬ翌日、
通い2日間の治験バイトの為、大学病院へ向かった。
神主の隼人さんが紹介したやつだ。
大学病院はあちら側の街にあり、愛車ママチャリで十四、五分だ。
治験は、新開発の降圧剤を服用して、
薬の効き目と内臓基準値の変化を見るらしい。
治験者は5名。最初、血圧測定。その後降圧剤を服用し、
血液検査。数時間経過毎に血圧測定、脳波、心電図計測と続く。
午前九時から始まり午後五時半に終了となる。
正午に、治験室に隣接した食堂での休憩時間だ。
談笑室を兼ねているようだが、小学校の教室二つ分くらいの広さはある。
降圧剤治験者には、それ向きのメニューが用意されていた。
オレたちとは違う治験なのか五、六人ほどかたまって食堂へやって来た。
。老人ばかりのようだ。彼らは食事に特に制限はないのだろう、
メニューを見て好きなものを選んでいる。
治験者メニュー膳を食堂の隅っこのテーブルでつついていると、
顔なじみの臨床アシスタント北山さんがオレを見つけて近づいて来た。
彼は抱えていた定食膳をテーブルに置いた。話好きの男性だ。
食事が終わる頃、窓側の席で歓談している賑やかな声が、
オレたちのところまで届いた。
メニューから好きなものを食べている老人グループだ。
北山さんが苦笑いした。
「あー、あの人達はですね。
今までの楽しかったこと辛かったことを想い描き、
その反応が脳のどの部分に現れるか追跡する臨床試験組ですよ。
電極を脳に伝わせましてね」
ここで北山さんは、お茶を飲み込んで続けた。
「結局は、老化防止薬を脳のどの部分に効かせたら良いかを
検索するわけですけどね」
「あんたはんは、あと何年持てまっか」。随分前だけど、
こんなテレビコマーシャルが流れていた。
老人クラブの面々が、
ゲートボールをしながら喋っている風景だった。
何か栄養剤のコマーシャルだったかな。
その時は笑って見ていたが、
今、治験に臨んでいる老人グループを見ると笑えない。
オレはオカンのことがすぐ頭に浮かんだ。
脳に切り込み、
効いてゆく老化防止薬が早く開発されればいいのに。
「それとですね。興味ある実験も併せてやってるんですよ」
北山さんが、瞬きを何度かしながら話だした。
「治験参加者で八十歳過ぎたかたに、今とは違うこと、
やってみたかったことを、絵に描いていただきまして、
そのもう一つの自分を脳内で体験するわけです。
その時に脳内の回路測定をするのですよ。
脳に何本も電極コードを接触させてから」
電極コードを接触と言っても、頭蓋骨の外から信号を計る「日侵襲型」だから
外科的な処置は要らないということだ。
治験者は架空世界に入り、もう一つの実世界を体験する。
そういえば派手で奇妙な格好をした老人もいる。なんだこりや。
スカートをはいた爺さんがいる。赤チョツキをひっかけたのもいる。
「やってみたかったこと。もう一つの自分。
いろんなケースがありますが、あまり突飛で対応出来ない場合は、
婉曲にお断りしています」
「女装もいましたね」
「あー、そうですね。一生に一度、付けまつ毛を付け、
口紅を塗ってみたいなど。「性」が違うということで、
選択できなかったことの願望表現ですね。
もう一つの実世界を体験したときの治験者の脳の分野への反応をデータ化して、
脳の仕組みを脳科学者へ提供するということになります」
「願望表現も、新薬開発に繋がるんですね」
オレがこれは面白いと身を乗り出すと、
北山さんは手を振って制止した。
「皆さん、興味本位ではなく真剣です。八十歳過ぎたかたたちは、
自分の終りを実感できます。死というより消え去る……
この世から自分が消えるということですからね」
これまた直球だ。そうか。死んだというより、たった今いるところから、
忽然と消えるんだ。この時、のっぺりした顔の北山さんを、
オレはまじまじと見つめた。目の前で喋っているのは、
もしかしたら臨床アシスタントという、
精緻なヒューマノイドロボットではないかと疑ったからだ。でも、
皮膚に毛穴はあるし、生身の人間に間違いはなさそうだが。
一日目の治験が終わり帰り支度をしていると、スマホが振動した。
アケミさんからの電話だ。遂に恐れていたことが起こった。
オカンが転んだとの連絡だ。車椅子から降りてベッドへ移るとき
大きくバランスを崩したらしい。
私が付いていて、申し訳ございませんと、アケミさんは泣きそうな声を上げた。
ママチャリを飛ばして我が家へ直行。
アケミさんは、羽を畳んだ鳥みたいに小さくなっていた。
今迄、転倒しなかったのが不思議なのかもしれない。
町医者が緊急に往診に来てくれたようだ。足関節捻挫の範囲で、
骨折と言う大事に至らず済んだ。
「アケミさんがいたから大事に至らず不幸中の幸いだった」と
言って、オレは慰めた。
アケミさんは今後の介護を考えて、
介護施設センターと打ち合わせしてくれていた。
オカンとオレが承認すれば、アケミさんが所属している介護施設「やすらぎ荘」を
手配してくれるという。
公的介護施設で費用も高くなく、地元では評判の良い入居施設だ。
「勇さんが仕事で不在の時間帯や、私たち介護支援者が通所しない日に、
認知症患者を一人にして置くことは危険を伴います。今回を機会にどうでしょうか」
アケミさんは決断を迫った。
「アケミさんと一緒、一緒。かまへんよ。かまへん」
医者の処置が効いてベッドに丸まって寝ていると思ってたら、オカンの小さな声がした。
アケミさんとオレとのやりとりを聞いていたのだろう。
施設入居をためらっていたオカンも、
アケミさんが勧めるのならと踏ん切りをつけたようだ。
とうとう来たか。オレとオカンの別居。この日は、二人とも言葉少なめの夕食をとった。
なかなか眠れない夜を迎え、
気づいたらオカンのベッドの脇で、うたた寝していた。
二階の自分の部屋へ行ったのは、深夜になってからだった。