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奏海の自宅であり、羽咲のバイト先である”喫茶ワルツ”は、羽咲の自宅と学校の中間地点にある。
住宅街に佇むそこは、昭和レトロな純喫茶で、そこだけ時間が止まったかのような、味のある建物だ。
「お、おはようございます」
奏海から事前に教えてもらった通り、羽咲は喫茶店の裏口を開けて顔をのぞかせる。
「お!時間通りだね。おはよう。今日からよろしくな。俺のことは、マスターって呼んでくれよな」
喫茶店の店主である奏海の父親は仕込み中だったのか、包丁を持ったまま羽咲を出迎えた。
迫力たっぷりの歓迎に、羽咲は顔の引きつりを隠せない。加えて、奏海の父親が若い頃に相当やんちゃ者だったというのは、奏海から聞いていたが、想像以上に身体が大きく顔も怖かった。
うっかりお皿を割ったら、鼓膜が破れるくらい怒鳴られるかも。そんな恐怖を覚え、羽咲はガチガチになりながら店内に足を踏み入れる。
「おはよぉ~、柳瀬ちゃん。今日からよろしくねぇ。おばさん、こんな足だから手伝ってもらえて助かるわぁ~」
マスターとは対照的に、おっとりと喋りながら松葉杖をついてこちらにやってくる小柄な女性は、奏海の母親だった。羽咲は慌てて駆け寄り、腰を深く折る。
「柳瀬羽咲です!今日からよろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくねぇ。時間も正確だし、元気もいいし。奏海に感謝しなくっちゃ。ね?あなた」
「ああ、そうだなぁ。午後になたっら、なんか差し入れしてやるか」
「そうしてあげてちょうだい。奏海もきっと喜ぶわぁ」
にこやかに会話をする奏海の両親を見て、とりあえず順調なスタートを切れたことに羽咲はグッとこぶしを握る。この調子で、15時まで頑張ろう。
「柳瀬さん、柳瀬ちゃん……んー……なんかちょっと呼びにくいだから、ヤナちゃんでいい?……よし!じゃあ、そろそろ店開けるからエプロン付けて。やってもらうことは客からオーダー聞いて、俺にそれを伝えて、あとは運ぶだけ。レジは母さんがやってくれるから、心配いらないよ」
「はい!」
手渡されたエプロンを身に着けながら羽咲が大きな声で返事をした途端、喫茶ワルツは開店し──気合を入れる間もなく馴染みの客が押し寄せてきた。
それから羽咲の記憶は、飛び飛びだ。緊張していたのももちろんあるが、マスターの説明があまりに適当で、アドリブを求められることが多かったのだ。
バイト初日に、無茶ぶりがすぎる!そんな心の悲鳴を隠して、羽咲は必死に対応したつもりだが、結局のところ食器を落とさないようにするだけで精一杯だった。
「おーい、ヤナちゃん。大丈夫か?」
「え?あ!私、オーダー取り忘れてました!?すいません、今すぐ──」
「いやいや、よく見て。お客さん、いないよっ」
「……あ」
慌てたマスターが、カウンターから前のめりになって客席を指さす。
周囲を見渡した羽咲は、状況を把握した途端、みるみるうちに顔を赤らめた。
「す、すみません……なんか私、ずっとテンパってて」
「いや、謝んなくていいよ。平日なのに、今日に限ってお客さん多かったし、休憩もゆっくりできなくて悪かったね。でもヤナちゃん、偉い!初日とは思えない働きぶりだったよ」
「いえ、そんな……私、オーダーとか、いっぱい間違えちゃったし」
「あははっ。あんなん間違いに入んないよ。奏海なんて、もっと間違えるし。なぁ、母さん?」
「そうなのよぉ。あの子ったら、おっちょこちょいだから、ちょっと目を離すとすぐグラスも割っちゃうしねぇ」
夫婦そろって困り顔になりながらも、どこか楽しそうだ。顔の熱が冷めた羽咲は、もう一度店内を見渡す。
清潔に保たれてはいるが、ソファの色が微妙に違う席もあるし、壁はポスターか何かの張り跡がある。
カウンターもよく見たら傷があるし、床だって染みがあるけれど、それだけの変化を受け入れることができるほど、この店は長い時間を過ごしてきた。
いわば、傷も染みも勲章である。怖い顔をしたマスターも、足を怪我した奥さんだって、今はニコニコしているが、辛いときだってたくさんあっただろう。
「……すごいなぁ」
お店を長く続ける難しさを知っている羽咲は、しみじみと呟く。その時、喫茶店のドアが開き、良く日焼けした壮年の男性が店内に入ってきた。