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「うるさっ。もぉー、どこにあるの?もうっ……もう!」
転がるようにベッドから出た羽咲は、四畳半の私室を探し周り、やっとベッドと壁の隙間にある目覚まし時計を見つけることができた。
バチンと音がするほど勢いよくデジタル表示の目覚まし時計を止めてから、やっとこれが母親が愛用しているものだということを思い出す。
低血圧というわけではないが、羽咲は寝起きが悪い。学校がある日は遅刻ギリギリにしか起きれないし、友達と遊びに行く時でさえ、なるべく昼近くに待ち合わせをする。
そんな羽咲のことを知っている母親だからこそ、今日はこんな粋なサプライズを仕掛けてくれたのだ。
「ママ……私が寝てるうちに、仕込んでくれたんだ。ありがと……よぉーし!頑張るぞ!」
気合を入れた羽咲は、勢いよくカーテンを空けると、思いっきり伸びをする。
まだ7時前だというのに、ガラス越しに夏の熱気が伝わってくる。昨日と変わらず、暑くなりそうだ。
これが登校日だったら、二度寝の誘惑に負けそうになるところだが、今日は違う。人生初めてのバイトの出勤日。
しっかりと目が覚めた羽咲は、洗面所で洗顔と歯磨きを済ませると、前日から用意しておいた衣服に袖を通す。
バイトの服装は、制服とジャージ以外なら何でもいいよという奏海のふわふわな返答に悩んだ羽咲は、テレビドラマに出てきた喫茶店のウェイトレスを参考に、白のシャツと、黒のスカートにした。
「お、大学生っぽい。こういう格好も似合うんだな、私」
自分の新たな可能性に気づいた羽咲は、鏡の前でくるりと回ってから、軽く化粧をしてダイニングに向かう。
柳瀬家は、名古屋で住みたい街ランキングで常に上位の千種区に住居を構えているが、築58年の賃貸一軒家だ。
どこもかしこも古く、ダイニング以外は全て畳部屋。トイレは辛うじて様式だが、脱衣所は冬になると凍えるほど寒い。
それなのに家具は、洗練されたデザインのものばかり。これは、かつて柳瀬家が裕福だった証だ。
古びた家に、モダンな家具はちぐはぐでしかなく、過去の辛い出来事を忘れさせてくれない。
それでも家族一緒に住める現実に、羽咲は安堵し、幸せを感じている。
「ママ、おはよ!目覚まし仕込んでくれてありがとね」
「おはよ。ちゃんと成功したみたいで良かったわ」
キッチンに立つエプロン姿母親は、振り返ってふわりと笑う。
今日も仕事の母親は既に化粧もして、長い髪を一つでまとめている。40歳を過ぎているとは思えないほど、羽咲の母は若々しく、そこそこ美人だ。
幼い時は父親似と言われた羽咲だが、中学生になってからだんだん母親に似てきた。父親には申し訳ないが、その変化を密かに嬉しく思ってしまう。
「ママの目覚まし、最強だったわ。ねぇ、あの目覚まし、夏休みの間、借りててもいい?」
「いいわよぉー。なんなら夏休みが終わっても、ずっと使ってていいのよ?」
言外に、いい加減一人で起きろと言われた羽咲は、はははっと笑って誤魔化し、ダイニングテーブルの椅子を引く。
既に、テーブルには朝食が用意されており、羽咲は手を合わせてから箸を取る。
「やっぱママが作るほうれん草の卵焼きは絶品だなぁー」
栄養士の母が作る料理は、忖度なしにおいしい。
作る場所が、アイランドキッチンから昭和の台所に変わっても味が落ちないから、母の料理の腕は本物なのだろう。
「はいはい、ありがと。それより羽咲、時間は大丈夫?」
「うん。でも、あと少ししたら出る。あっ、今日は自転車使うけど……いいかな?」
「もちろん、どうぞ」
工場勤務の父親は、今日は昼勤だ。父の昼食のお弁当を作っている母親の手は、会話をしながらでも止まることはない。
その無駄のない動きに目を奪われていた羽咲だが、フライパンをふるう母親の腕がさらに細くなっていることに気づき、得も言われぬ不安に襲われる。
「ママ、ご飯食べてる?ちゃんと、寝てる?」
「え?……ええ、もちろんよ」
目をぱちくりさせながら頷く母親の顔色は、悪くはない。それでも羽咲の不安は、消えない。
「あんまり無理しないでね。私、帰ったら風呂掃除と洗濯物取り込んで畳んでおくから」
「ふふっ、それは助かるわ。ところで羽咲、自転車で行くって言っても、そろそろ時間じゃない?」
「っ……あ、ヤバい!」
壁に掛けられた時計に目を向けた途端、羽咲は勢いよく立ち上がる。そしてカバンを持ち玄関に向かう。
その後ろを母親はニコニコ顔で追ってくる。
「気を付けていってらっしゃい。頑張ってね」
「うん!」
小さく手を振る母親に大きく手を振り返して、羽咲は自転車に跨ると、全速力でバイト先へと向かった。