5
落胆した気持ちは、まるで見えない種のようだった。
心の中で何かが芽生え、自分の意思とは無関係に秒速で育っていく。これは、ヤバい。すごく、ヤバい。
羽咲の胸のざわめきが、激しくなる。何かの、予感がする。
経験したことも、誰かから教えてもらったわけでもないけれど、これがなんなのかわかったような気がする。
だけどこの気持ちに名前を付けてしまったら、もう後戻りできないような気がして、羽咲はわざと明るい声でこう言った。
「ほらほらっ。手汗がヤバいから、もういい加減離してよ。ってか離すよー」
強引に大和の手から自分の手を引き抜くと、羽咲は手首を振って手のひらを乾かす。
「ところでお願いって何?言わないはナシだよ」
羽咲がジト目で催促すれば、ずっと無言でいた大和は、観念したように小さく溜息を吐いた。
「……緑色の屋根の教会……羽咲の家の近くにあるって本当?」
「緑色の?あ、うん。あるよ」
記憶を探ることもなく、羽咲はすぐに頷く。
「そこ、連れてって」
「えっと、それがさっき言ってたお願い?」
「そう」
即答した大和は、「ゆきばあのお気に入りの場所なんだ」と付け加えた。
トクン、と羽咲の胸が鳴る。これは不安とか痛みとかじゃない。喜びの鼓動だ。
「いいよ、行こ!千種駅からちょっと歩くけど、いいよね?」
「おい、ちょっと。待てったら」
大和は、今すぐ駆け出しそうな羽咲の手を再び握って引き留めた。
「今日じゃなくっていい」
「……そうなの?」
ガッカリ感を隠さない羽咲に、大和は慣れ親しんだ意地の悪い笑みを浮かべる。
「教会行く前に、羽咲は宿題。それが終わってからでいい」
「……宿題はちゃんとやるもん」
「はいはい」
ついさっき嘘を吐いてしまった手前、宿題なんてほとんど終わっているとは言えない。
「じゃあ、お盆明けの火曜日に一緒に図書館行こ。それで帰りに教会行こうよ」
「一日で終わるんっすか?」
疑いの目を向ける大和に、羽咲はどうとでも取れる笑みを浮かべた。
「なんすか、その顔……ぷっ、ははっ」
呆れ顔になりかけた大和だが、堪えきれず噴き出し、そのまま笑い声をあげた。
その言動は、いつも通りの大和で──羽咲は安堵の息を吐く。今はまだ、このままでいい。
「もうっ、笑いすぎ!とにかく来週の火曜日、千種図書館で待ち合わせね。時間は?」
「羽咲の好きな時間でいいよ」
「じゃあ、11時」
「11時?遅すぎない?」
「私、朝が弱いから……」
「あははは……」
今度は大和から残念な子を見る目を向けられたけれど、羽咲はこのノリが心地よい。そして、居心地よさに甘えて、ちょっとだけ自分から大和との距離を詰めたくなる。
「ねぇ、宿題全部終わったらさ、揚輝荘も行ってみたい。大和君、場所わかる?」
「覚王山っすよね、そこ。多分わかる」
「そっか。じゃあ、案内よろしく」
「羽咲の頑張り次第ってこと、忘れないでくださいよ」
「もちろん!」
大きく頷いた羽咲に、大和は自然な笑みを浮かべる。
でも大和だって、気づいているはずだ。これから先の約束事は、祖母の足跡を辿るためじゃないということを。
それがわかっていても口にしないのは、彼の優しさだ。それに甘え続ける自分に、ほんの少しだけ嫌悪感を持ってしまう。
「ごめん……」
つい謝ってしまったら、大和は繋いでいる手に力を籠める。
「っ痛!ちょっと」
「つまんないこと考えてる暇あったら、宿題をどう段取り良く片付けるか悩んだらどうっすか?」
大和の発言は、まるで羽咲の思考を読んだかのようだった。
「俺、ゆきばあと同じだから。嫌なことは嫌って言うし、嫌なことは金積まれたってやらない。だから──」
「だから宿題頑張れってことでしょ?」
大和の言葉を遮って、羽咲は早口でそう言った。彼の言葉を最後まで聞いてしまったら、心の中で生まれたアレが、さらに育ってしまいそうで。
「……まぁ、そういうことっす」
若干拗ねた口調で大和は同意して、握っている手の力を緩めた。でも離すことはしない。
恥ずかしさと、戸惑いと、自粛すべきという自制心はあるけれど、羽咲は「手を離して」とは言わなかった。
「今日は付き合ってくれてありがと。じゃ、帰ろっか」
「わかった」
素直にうなずいた大和は、駅の方向に歩き出す。
大和に手を引かれるようにして歩いていた羽咲は、足を止めずに振り返って蕎麦屋を見つめる。
様変わりしたこの店に対して、奪われたという思いが心の奥底にある。まだ夕飯には早い時間帯なのに、店に客が何人も入っていく様を見て、嫉妬に近い感情も持っている。
けれどきっと祖母は、この店を見ても自分とは違う感情を持ったはずだ。
だから羽咲は、あえて口に出す。もし祖母なら……きっとこう言うと思う言葉を──
「今度こそ、どうか末永く繁盛しますように」
本音ではない台詞を吐いた途端、よそよそしかった街の光景が、ほんの少しだけ和らいだような気がした。




