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道路の向こうにある蕎麦屋が、羽咲の父親の経営するジムだった頃の話。
オープンしたてのジムは、まだ客がそれほど多くなくて、小学二年生だった羽咲は店の一角で宿題をしていた。
夕暮れ時の店内はオレンジ色に染まり、羽咲と父親は「今日の夕飯はなんだろうね」と、とりとめのない会話をしていた。
その時、突然扉が開き、大きな植木を抱えて「開店祝いだ」と言って、祖父母がやってきた。
ギョッとする父に、サプライズ好きな祖父は茶目っ気のある笑みを浮かべて抱えていた植木を押し付けた。
その植木の名は”旅人の木”。持ち主の成長を願い、ここを訪れた人を歓迎する意味を持つ。
ということを、祖母が早口で付け加えたのを覚えている。
渋茶色のハンチング帽を被った祖父と、ハンチング帽と同じ色のカーディガンを着た祖母。
寄り添う二人は、穏やかな笑みを浮かべて何度も「おめでとう」「いい店だ」と口にし、父は照れくさそうに、頭をかきながら「まだまだ、これからだよ」と言って、羽咲に同意を求めるように目を向けた。
あの頃、まさかあんな形で店を失うなんて、想像すらできなかった。
毎日のように、どこかでお店が潰れ、新しく開店しているというのに、自分たちだけは約束された未来を歩いていけると信じて疑わなかった。
だけど羽咲が中学二年生の冬休みに、旅人の木が枯れてしまった。寒さに弱い木だから、その時は深く考えなかった。祖父はもう鬼籍に入っていたから、祖母に電話で謝った。
『じゃあ、今度は寒さに強い木を贈らせてね』
多少驚いたにせよ、祖母は責めることなく、また贈り物ができる口実ができて良かったと、電話越しに明るい声でそう言ってくれた。
今にして思えば、旅人の木が枯れたのは、寒さのせいではなく凶兆だった。
それからすぐ坂道を転がり落ちるように、柳瀬家はジムを手離さざるを得なくなり、自宅も売りに出して、今の借家に引っ越した。
あの頃の記憶は、たくさんのことが起こりすぎたし、受験も重なって記憶が曖昧だ。思い出そうとすると、参考書ばかりが目に浮かぶ。
だから、祖母が新しい植木を贈ってくれたかどうかも覚えていない。
「羽咲、大丈夫?……どこか座る?」
心配そうな声が聞こえて、羽咲は首をひねって大和を見る。声と同じように気遣う表情をしてくれている彼に、羽咲は小さく首を振る。
「ううん、大丈夫」
「そんなふうに見えないっすけど?」
「じゃあ、見ないで」
「なんすか、それ」
大和は不満を口にしながら、ギュッと手を握る力を強める。痛くはないけれど、ちょっと心が落ち着かない。そわそわと、胸騒ぎがする。
「手ぇ、もういいよ。ありがと……ん、あれ」
繋いでいる手を引き抜こうとしたけれど、腕を動かせば大和の手もくっついてくる。
「えっと……大和君?」
羽咲が露骨に戸惑っているのに、大和は何も言わないし、何もしない。つまり手を離してくれないし、離す気すらないようだ。
こういう意味深な沈黙は、やめてほしい。無言の時間に耐えられなくなった羽咲は、コホンと小さく咳ばらいをして口を開く。
「どうして、ここに来たのか知りたいってことだよね?」
大和の不可解な行動は、言いたいことがあるけど言えない気持ちの表れだと思い込んでいる羽咲は、確信をもって尋ねた。
しかし、大和は即座に首を横に振る。
「いや、別に。知りたくない」
「え?……あ、そう……そうなんだ……」
大和の返答にホッとしつつも、羽咲はほんの少しだけがっかりしてしまった。




