梅香の風【春のチャレンジ2025】純文学
★★ 廃校 ★★
統廃合により、その歴史を終えた小学校は、校舎の取り壊し工事中であった。
まだ正式発表ではないが、体育館と比較的新しい職員棟だけを残して校舎を取り潰し、あとは、公民館と地域住民の避難所として使うことが決まったらしい。
昨日、実家に戻ってきた私は、小学校時代と同じ通学路を通り、永原酒店と松村の雑貨屋の間にあった花屋で花を購入して、学校までたどり着いた。
もちろん、酒屋さんは、コンビニエンスストアに代わっていたし、花屋のおじちゃんは、すでに居らず、娘さんだろうか?・・・30前後の細身の女性が、いま私の手にある花を用意してくれた。
手提げ袋の中のミネラルウオーターは、コンビニで500ミリリットルのものを3本購入した。
松村のおばちゃんがやっていた雑貨屋は、店を閉じてもう10年になるだろうか?
仕方がないので、必要だと思われるバケツと雑巾、洗剤、白色のスプレー缶、ロープなどは、帰省途中の県道227号線沿いにあったホームセンターで購入してある。
運動場だった場所には、油圧ショベルやクレーン、ダンプカーなどの重機が並んでいたが、幸いなことに今日は、祝日とあって工事は休みのようだ。
亡くなってから20年になるあの子の命日。
校舎の西棟は、4階より上が、すでに取り壊されていたが、その建物の前には、誰だろう?同級生かもしれない・・・誰かが、すでに花を供えてあった。
私は、その花の横に自分の手にある花を並べると、そっと手を合わせた。
しばらくその場に立っていた私の髪を撫でつけてきたのは、春の風。
少し、空気が冷たい。
私は、閉じていた目を開けた。
汚れるのが嫌だという理由で、実家にコートを置いてきたことを少し後悔しながら、私は、蝶つがいが外れドアの意味をなしていない古びた扉を抜け、西棟の中へと入っていった。
★★ 香織 ★★
香織は、冴えない容姿とおどおどした物腰で、クラスの中でも目立たない子だった。
あんなに一緒に居たのに、好きな食べ物も、趣味も・・・お気に入りのアニメがあったくらいのことしか知らない。
ただ、絵を描くのは好きで、美術の時間の前は、とても楽しそうにしていたことを覚えている。
美術室は、西棟の2階にあった。
香織は、その教室のすぐ前・・・階段と廊下の間で血を流して倒れていた。
今日も、かすかに梅の匂いがする。
あの時と同じように・・・
★★ 庸子先生 ★★
美術の中川庸子先生からは、なぜだろう?・・・いつも梅の匂いがした。
香織は、庸子先生にべったりだった。
いつも彼女の足元にまとわりつくようにウロウロとしていたことを思い出す。
庸子先生は、香織に冷たかった。
なりたい自分を画用紙に描く課題の際、香織は、当時はやっていた、プリンセスが本好きのサタンと絵本の中へ自分探しの旅に出かけるアニメ・・・の主人公・・・お姫様の絵を描いた。
他に、お姫様を描いた女子は居なかったにもかかわらず、庸子先生は、吐き捨てるように言った。
「なんて安易な・・・恥ずかしいっ。なりたい自分の課題で、お姫様なんてありきたりです。それも、アニメーションなんて・・・」
そうして、逆に私の絵を褒めた。
「真理ちゃんのケーキ屋さんは、素敵ですね。それに、お店に並んでいるケーキも、おいしそう。」
そう言いうと、庸子先生は、私の髪を撫でた。
この時、ケーキ屋さんを描いた女子は、私を含めてクラスに6人・・・
香織は、庸子先生に嫌われていた。
★★ 真っ赤なスカート ★★
午後の授業を終えたある日、当時、私の親友だった聡美が、おなかが痛いと言い出した。
初潮だった。
スカートの裾から流れる血の赤さに、バカな男子たちが大声で騒ぎ、からかった。
聡美は、学校へ来なくなった。
私は、毎日毎日、プリントを聡美の家へと届け、部屋から出て来ないと分かっていながらも、朝、彼女を迎えに行った。
半年後、彼女のお母さんに言われた。
もう、迎えに来なくていい・・・と・・・
聡美は、フリースクールに通うことになったらしい。
彼女の母に、迎えに来なくていいと告げられて学校へ向かったその日、私の生理が始まった。
それは、最悪なことに、美術の授業中、男子たちの居る前であった。
つつーっとふとももから流れ落ちる血に、私は、困惑し、狼狽した。
いや、生理については、授業で教えてもらっていたし、クラスの子たちの半分くらいは、すでに始まっていることを話に聞いていたので、知識はあった。
怖かったのは、バカな男子が大騒ぎしはじめることである。
何も言えず、一歩も動けず、その場に立ち止まってしまった私・・・
しかし、その瞬間、私の足に冷たいモノが、大量に流れた。
冷たいモノは、私の紺色のスカートを真っ赤に染めた。
「あっ・・・ごめんなさいっ。」
香織であった。
聡美のことを覚えていたのだろう。
赤い絵の具を溶いた筆洗いバケツの水を、私のスカートにまいたのだ。
大げさなカムフラージュに教室中が大騒ぎになる中、私は、庸子先生に連れだされ保健室へと向かった。
体操服に着替えて早退してしまった私は知らなかったのだが、後でクラスメイトに聞いたところによると、香織は、先生にこっぴどく叱られ、1人で美術室を掃除する羽目になったらしい。
★★ 当たり前 ★★
聡美が居なくなってから、休み時間は、1人で居ることが多かった私だったが、この事件の後は、香織と一緒に過ごすことが多くなった。
別に一緒に居ようと話をしたわけではない。
2人とも、他の人たちのグループには、なんとなく入り込めなかっただけだ。
結局、学年が変わってもクラスが同じであった私たちは、一緒に過ごしていることが当たり前のようになっていった。
ただ、この頃になると、香織が昔のように庸子先生にまとわりつくようなことは、無くなっていた。
その代わりに、私が相手をしていたということだと思う。
もちろん、私は、庸子先生のお気に入りで、香織が先生に疎まれ続けていたというのは、変わりなかったけれども・・・
★★ いやっ ★★
ある春のこと。
私の描いた絵を、市のコンクールに出品するという話が持ち上がった。
お世辞にも良い絵とは言えないものだったが、庸子先生がチョイチョイと筆を加えてしまったため、丁寧さに欠けた子供の絵という位置付けから、ダイナミックで小学生らしい良い作品へとその評価がコロリと変わってしまったのだ。
余計なことをしてくれたものだとも思ったが、自分の絵が出品されるとなると、やはり、気持ちに高ぶるものがあったことは隠せない。
そうして、もう1点、課題となる絵を描くために、私は、昼休みや放課後に美術室へと向かうこととなった。
おそらく、香織は、教室で一人になるのが嫌だったのだろう。
昼休みだろうが放課後であろうが、お絵描きを中断し美術室を出たならば、彼女は、いつもお座りをする犬のようにそこで私を待ち構えていた。
どうやら、香織は、美術室の上の階・・・3階の廊下で、下の様子を、そぉっとうかがっていたみたいだ。
その時は、「彼女らしいな」と、子供ながら苦笑した覚えがある。
いよいよ絵も完成したあの日、確認のために私は、美術室へと向かった。
この時、私は、本当に子供で・・・それに気づいていなかったが・・・どうだろう?香織は、うすうす気づいていたのだろうか?
いや、おそらく、感づいていたのだろう。
彼女も、同じだったのだから・・・
そこは、西棟の2階・・・職員室がある棟や、通常使われる教室がある東棟とは、別の棟である。
そうして、生徒であっても、教員であっても、放課後の美術室などに訪れる用事など、そうそうあるものではない。
その日、絵の話は、ほとんど出なかった。
いつもと違う雰囲気に、戸惑った私は、あたり一面をきょろきょろと・・・視線を教室中に向けて、庸子先生のほうを見ないようにしたのを覚えている。
先生は、座る私の後ろに回り込んだ。
それは、ケーキ屋さんの絵を褒めた時と同じような、髪を撫でつけてくるような声であった。
「真理ちゃんの髪は、サラサラで、とてもきれいね。」
髪を撫でつける言葉は、私の頭からずっと離れることなく、やがて庸子先生の顔が、私に近づく。
私は、口が、何かにふさがれたように感じた。
「いやっ、いやっ、いやっ!」
何かがおかしく、何かが嫌だった。
椅子から立ち上がった私は、先生を押しのけ、美術室の外へと飛び出した。
外には、いつものように香織が待っていた。
「真理ちゃん、こっち。」
香織は、私の手を掴むと、下ではなく階段を上へとのぼった。
すぐに、美術室のドアから庸子先生が、飛び出してきたのが分かった。
しかし、先生は、上ではなく下へ走った。
おそらく、私が下へ逃げたと考えたのだろう。
その間に、美術室に置いてあった荷物を、香織が取りに行ってくれた。
一息つき、私は3階の廊下の壁を見ながら、ガタガタと震えた。
壁に書かれた傘やバツの黒い落書きが、やけに鮮やかに見えたのを覚えている。
私は、怖かった。
ただ、何かが怖かったのだ。
香織が戻ってきてからも、私は、震えていたのだろう。
「もう、大丈夫。荷物も、取ってきたから。」
そう言って、彼女が近づいてきてはじめて、私は、壁から目を離し彼女の顔を見た。
香織は、庸子先生と同じ顔をしていた。
そうして、私の体をぎゅっと抱きしめると、もう一度言った。
「もう、大丈夫。私がいるから・・・」
「やだっ、汚いっ!」
立ち上がり、走り出す際に、香織が回収してきてくれた自分の荷物を掴むのを忘れなかった私は、もしかすると、すごく冷静だったのかもしれない。
どんな言葉が、どれだけ鋭い刃を持つか、知っていたのかもしれない。
私が、香織が、死んだことを知ったのは、次の日だった。
★★ 白い絵の具 ★★
あれから、20年。
階段をのぼりながら、西棟の3階へと向かう。
手提げ袋の中のミネラルウオーターが、重い。
3本は、多かったかもしれない。
スプレー缶も、思った以上に負担になっている。
洗剤は、もう一回り小さいものを選ぶべきだった。
免許証を取ってから、歩くことが減り、この程度の階段ですら息切れする。
あの翌日のこと。
香織は、2階の美術室のすぐ前・・・階段と廊下の間で血を流して倒れていた。
手には、白い絵の具の付いた筆を持ち、パレットには、白い絵の具が大量に出されていた。
不思議なことに、その筆で、描いていたと思われた絵は、見つからなかった。
警察は、何者かに頭を鈍器で殴られたと判断した。
そして、犯人が、香織の描いた絵を奪ったのではないかと推察した。
描かれてはいけない何かを彼女が絵の中に描いてしまったため、香織は、殺害され、絵は盗まれたというわけだ。
美術室は、使うことが出来なくなったが、授業については、問題は、起こらなかった。
普段使う東棟で、授業をすればいいだけだったからだ。
ただし、小さな問題がひとつ。
庸子先生が、退職したのだ。
事件にショックを受けたためと言われている。
先生は、美術だけを教える1年毎契約の臨時講師であったため、担任が、代わりを務めて事なきを得た。
それよりも、大きかったのは、香織を殺したと思われる犯人が見つからなかったこと・・・
私たちは、残りの5年生6年生の間、西棟に入ることは許されず、警察官が1人配備された状態で、毎日の学校生活を送ることになった。
数年前に統廃合が決まった際、こちらの小学校が廃校となったのは、当然のことだろう。
殺人かもしれない未解決死亡事件が起こった学校を残したいと思う人など、それほど多くはない。
しかし、私は、思うのだ。
犯人など、居なかったのではないかと・・・
★★ 消える傘 ★★
手すりが脆く弱くなっていないかを、靴の裏で押して確かめる。
二の舞は、嫌だ。
手すりにかけた足に体重を、ぎゅっとかける。
うん。大丈夫。崩れることは無いだろう。
ロープは、丈夫なものを選んだ。
ほどけない結び方を、「もやい結び」と言うらしい。
見よう見まねで、腰と手すりを結び付け、3階の階段の縁へと足をのばした。
そろり、そろり・・・
慎重に先へと進む。
今、20年前に見た「傘」や「バツ」の落書きを見ることはできない。
しかし、私は、気になるのだ。
手には、洗剤をたっぷり含ませた濡れ雑巾。
そうして、落書きがあったと思われる場所をゴシゴシと擦る。
階下へ、じゅるじゅると、洗剤混じりの白い水が、したたり落ちる。
あの頃、私たちが使っていた絵具は、ポスカではなく、普通の水性絵具だった。
ならば、水と洗剤で簡単に落ちると思ったのだ。
おそらく、20年ぶりだろう。
落書きが姿を現した。
私が、震えながら見たあの落書きだ。
白い絵具の下でこの落書きが残っていたのは、油性のペンで書かれていたためであろう。
そうして、あの時1個だった「バツ」の落書きは、2個に数を増やしていた。
私は、したたる水を切るように、「最後のひと拭きっ」と雑巾を下方向へと動かした。
壁に書かれた片方の「バツ」の落書きの下には、相合傘があり、「香織」「庸子」・・・
もう片方の「バツ」の下には、「香織」「真理」の文字が、傘の下で並んでいた。
たぶん、庸子先生と香織は、同じような・・・うん、同じだったのだろう。
庸子先生が香織を嫌ったのは、近親憎悪だったのかもしれない。
おそらく、香織は、最初、庸子先生の相合傘を書いており、ある時、その上からバツを書いたに違いない。
次に書かれたのは、私の名前を並べた相合傘。
そうして、あの日、「相合傘」と「真理」の名前の上にバツを書いた後、香織は、私がここに1人で座っている時間があったことに気が付いたのだろう。
見られていた可能性がある以上、それを残しておくわけにはいかない。
そう考えても無理はない。
白い絵具は、そのために使われたのだ。
殴られたわけでもない。
鳥になったわけでもない。
彼女は、ただ落ちた。
彼女は、何者かに殴られたのではなく、3階の階段の縁にある細いでっぱりの上を歩いて、壁に書いた相合傘を誰にも見られないよう塗りつぶしている最中に落ちたのだ。
その瞬間、ふいに、足元が揺れた。
危ないっ。二の舞は、本当にごめんだ。
ねっとりと絡みついてくる「大丈夫、私がいるから」という香織の声・・・
足を取られるわけにはいかない。
私は、来た時と同じように、そろりそろりと手すりの方へと戻った。
ふぅ・・・
そして、一息。
しかし、やるべきことが、もうひとつ残っている。
私は、手提げ袋から白色のスプレー缶を取り出した。
このバツ印の付いた相合傘を、残しておく気にはならない。
さっきと同じように、階段の縁を進んだら、壁に向かってスプレーを噴射する。
シュゥゥというスプレー音の前に、2つの傘は、あっという間に姿を消した。
スプレーは、油性である。
解体工事中に、水がかかることがあっても、あの傘が再び姿を現すことは、ないだろう。
私は、西棟の3階で、あの日のように座り込んだ。
1本余ったペットボトルの水をゴクリと飲み干す。
やるべき全ての仕事を終えたことを確かめた私は、ひとつうなずき、寂しく白く明るいこの場所から立ち去ることにした。
★★ 梅の匂い ★★
少し、肌寒い。
しかし、今、上着に少し飛び散ってしまっている白スプレーの塗料のことを考えると、コートを実家に置いてきた判断は、間違いではなかったと思う。
うーん・・・塗料の匂いが目立たないかな?
袖を鼻にあて、くんくんと匂いを確かめながら正門をくぐろうとした時、60代くらいだろうと思われる女性が、門柱の横に立っているのを見つけた。
女性は、私のほう見て軽く会釈をしてきたが、私は、それを無視して帰路についた。
通り過ぎる瞬間、なにやら小さな声がしたような気がしたが、私は、振り向く必要を感じなかった。
ただ、来た道を帰る。
それだけなのに、背後から漂う梅の匂いと嗚咽の音が、絡みついてくるようで、なんとも気持ち悪い。
足を取られるわけにはいかない。
私は、一生懸命に歩を進め、それを振り切った。
どれほど歩いただろう?
梅の匂いは、やがて小さくなり、春風の向こうへと消えていった。