07.自分勝手なものね
昨日の失態が尾を引いて、合わす顔がなかったアイリスはシャルルから隠れて過ごしていた。それに、まだ心の整理が出来ないでいたのだ。
どうして私だけは愛して貰えないのか。そんな考えがぐるぐると頭を回って、昨夜はよく眠れなかった。
暗い顔で俯くアイリスに、クロエが気遣わしげな表情を浮かべるものだから。申し訳なくなったアイリスは、一人にして欲しいと頼み今日はずっと一人行動をしていた。
移動教室で外廊下をとぼとぼと歩いていると、ふと聞き慣れた声が耳朶に触れた気がして、アイリスは下に向けていた視線を少し上げる。
「……っ!?」
そこにいたのは、間違いなくジェイデンであった。いつも一緒にいる伯爵家の令息もいる。そして、その二人に挟まれるようにして前から歩いてくるのは、シャルルだった。
ジェイデンは次期公爵だ。隣国の第二王子であるシャルルと一緒にいて何ら不思議はない。しかし、いま一番会いたくない組み合わせであるのは確かで。
アイリスは金縛りにでもあったかのように、その場に立ち尽くしてしまう。頭が真っ白になり、ただ息を呑むことしか出来なかった。
不意に、シャルルが中庭を指差す。ジェイデンと伯爵家の令息は、その指を辿って中庭に顔を向けた。
それなのに、シャルルの顔はアイリスの方を向く。桃色の瞳が優しく細まった。風に背を押されて、アイリスはたたらを踏みながらも歩き出す。
「どれですか?」
「あれなんだけど……」
シャルルが二人の気を引いてくれている内に、アイリスはその横を足早にすれ違った。
「あれ? 気のせいだったようです」
和やかな談笑が背中越しに聞こえてくる。アイリスの存在はジェイデン達には気付かれなかったようだ。それにアイリスは、ほっと肩の力を抜く。
「どうして……」
守ってくれたのだろうか。都合よく考えそうになる頭を振って、期待を否定する。裏腹に熱くなる頬の体温と胸の暖かさに、アイリスは調子の良いこと……と目を伏せた。
そこからはシャルルにもジェイデンにも会うことはなく、あっという間に放課後を迎えていた。今日は勉強会の約束はしていない。そのため、アイリスはぼんやりとしながらも帰路につこうとしていた。
「あっ……」
教室から出た瞬間に、シャルルを見つけ慌てて引き返す。アイリスは扉の陰から様子を窺った。
大勢の生徒に囲まれたシャルルは、隙のない笑みを浮かべお喋りに興じている。対してアイリスは誰もいなくなった教室に一人。何もかもが違いすぎる。
それでも、アイリスはシャルルから目が離せなかった。あれだけ合わせる顔がないと思っていたのに。少しだけ。少しだけで良いから、などと。
「自分勝手なものね」
自嘲の混じった呟きは、誰の耳にも入らなかった。アイリスは、大勢の生徒を掻き分けて帰る勇気などないから。そんな理由をつけて、その場に留まる。
不意に、シャルルの瞳がほの暗く濁った気がした。周りが一切気付いていないのは、表情や声音に変化がないからだろうか。直ぐに穏やかなものに戻ったのも要因かもしれない。
直後、シャルルが何かを言ったのか皆が散り散りに去っていった。お開きになったようだ。最後の最後まで微笑みを浮かべ続けたシャルルも校舎の出口へと歩いて行く。
その後ろ姿を見送ったアイリスは、戸惑った表情を浮かべていた。そして、悩むように目を伏せる。これはどうしたら良いのだろうか、と。
しかし、いくら考えても答えは同じで。追いかけなければ。そう強く思った。背中を押してくれる風はなかったが、それでもアイリスはシャルルを追って足を踏み出した。
「王子殿下……」
行き先の心当たりは、池の畔しかなかった。そこにいなければ、学校の敷地内を手当たり次第探せば良い。アイリスは衝動に突き動かされて、足を進めた。
駆け出したいが、淑女足るもの淑やかに。幼い頃から叩き込まれ続けた言葉が、こんな時にも走り出しそうになる足を抑えた。もどかしくて、アイリスは眉根を寄せる。
「あぁ……」
耳に届いたハープの音が、アイリスを切なくさせた。どうして……。こんなにも息苦しいのだろうか。深く深く、沈んでいくような音色。
何でも持っているのだと思っていた。でも、違うのかもしれない。だって、アイリスはシャルルの苦悩を何も知らないのだから。
池の畔には、いつも通りシャルルが座っていた。ぼんやりと池を眺めるその姿が、今にも消えてしまいそうに見えて。アイリスは泣きたくなった。当のシャルルは涙など流していないのに。
「王子殿下!!」
アイリスの呼び掛けに、シャルルが顔を上げる。初めて会った日と同じ、驚きに見開かれた真ん丸な瞳と目が合った。シャルルは状況が理解できていないのか、パチパチと瞬きを繰り返す。
「……スタジッグ伯爵令嬢?」
「あの、その、えっと!」
何と声を掛けたものか。何も決めていなかったアイリスは慣れていないのもあり、しどろもどろになる。ひとまず、目線を合わせるためにハンカチも敷かずにその場に座り込んだ。
「どうしたのかな?」
シャルルがニコッと作ったような笑みを浮かべた。それに、アイリスは更に泣きそうになる。
「お辛そうに見えたものですから」
「……どうして」
「居ても立ってもおられず……っ!」
そこでアイリスは、ハッと我に返った。頼まれてもいないのに、このようなこと。
「差し出がましかったでしょうか……」
急激に勢いが萎んでいったアイリスに、シャルルは困ったように眉尻を下げた。首を軽く左右に振ると、ゆるりと口元だけで笑む。
「精霊にしか気付かれたことないのになぁ」
ポツリと溢れ落ちてしまったかのようなその言葉は、涙に濡れているように聞こえた。勿論、そうアイリスには聞こえただけで、シャルルは相変わらず泣いてなどいないが。
「ふふっ、スタジッグ伯爵令嬢は人魚だったんだね~」
「……え??」
心底嬉しそうに、シャルルがへにゃりと笑う。ハープの音は、気付けば楽しげなものへと変わっていた。
「にんぎょ……? ええと、伝承に出てくる人魚は歌がお上手だと聞きました。ですので、私よりも王子殿下の方が相応しいかと??」
疑問符を大量に飛ばすアイリスをシャルルが穏やかに見つめてくる。その表情がどこまでも柔らかく感じて、アイリスはソワソワと落ち着かない気持ちになった。
「そっか。オレが人魚か。それも悪くはないのかもしれないね」
晴れやかな顔をしたシャルルに、精霊達が喜ぶように音を奏でる。どこか誘っているように感じたのは、アイリスの勘違いではなかったようだ。
「そうだな。じゃあ、一曲」
シャルルの返答に、アイリスは浮わついた心地になる。聞きたいなどと、思う資格すらないというのに。
「今日は、聞いていくよね?」
その甘美な誘いに、頷いてしまうのだ。私だけ。その言葉が、苦しいものから特別な響きを持ったもとへと変わっていく。我ながら単純だとアイリスは内心で苦笑した。
「『これは、昔々のお伽噺。美しい珊瑚の海に住む、人魚の少年の恋物語』」
それは、アイリスでも知っている有名なお伽噺であった。それに歌があるのは知らなかったので、アイリスはワクワクとシャルルの歌声に耳を澄ます。
「《光り輝くコバルトブルー 美しい歌声にはご用心 悪戯好きの人魚が惑わし海の中》」
明確に芽生えた気持ちは、伝わらなくていい。伝える気もない。ただ、想うことは許されたい。このひと時の思い出だけで、この先も生きていけるとアイリスは幸福に目尻を下げた。




