05.お任せください!
池の畔には、誰もいなかった。別にシャルルと待ち合わせをしたわけではない。そのため、アイリスが早く来すぎたのか、シャルルは今日来ないのか。それすらもアイリスには分からなかった。
アイリスは持参した自分のハンカチを地面に敷いて、その上に座る。シャルルに貰ったハンカチも持ち歩いているが、使用はしていない。お守りのように思っているからだ。
本当は家に大切にしまっておきたいが、オリヴィアに見つかってしまったので不安なのである。何をされるか分かったものではない。
「心地好い」
池の畔はいつ来ても空気が澄んでいるのだ。アイリスはリラックスしたように、深く息を吐き出した。
木漏れ日の中から池をぼんやりと眺めていれば、池の水がふわりと浮き上がる。いつかと同じ光景に、アイリスは目を瞬いた。
「ご機嫌麗しゅうございます」
水の塊はニコニコ笑顔になりながら、アイリスに近付いてきた。次いで、『?』の形になる。それに、アイリスは首を傾げた。
「疑問符? あぁ、何故ここにという意味でしょうか?」
『△』
「三角……。半分正解なのかしら。えっと、ここに来れば王子殿下に会えるかと思って待っています」
精霊達は納得したのかしていないのか、アイリスには判断が付かなかった。水の塊は再び姿を変え、『←』の形になる。アイリスは矢印の先を視線で辿った。
ちょうど池の畔へとやって来たシャルルと目が合う。シャルルは目を丸くすると、へにゃりと笑んだ。
「こんにちは、スタジッグ伯爵令嬢」
「ご機嫌麗しゅうございます」
「もしかして、朝の事で待っててくれたとか?」
「……ご迷惑でしたでしょうか」
「まさか。態々ありがとう」
「いえ」
シャルルはこちらへ歩いて来ると、水の塊を指でつついた。それに、アイリスは驚いて目を丸める。そのようなことをして大丈夫なのか、と。
「彼女と遊んでたのかな? そっか。楽しかったんだね~。ん? オレとも遊びたい? いいよ。でも、ちょっと待ってて」
水は特に何の形にもならず、シャルルの手のひらの上で浮いているだけ。それなのに、シャルルは精霊達と意志疎通が出来ているようであった。これが、魔力を持って生まれた“魔法使い”という存在。
精霊達は了承したのか、水の塊は大人しく池へと戻っていく。シャルルはそれを見送ると、いつもの定位置に腰掛けた。
「スタジッグ伯爵令嬢は、随分と精霊に好かれているね」
「そうなのですか?」
「うん。今ね~、精霊達に囲まれてる」
「え!?」
アイリスは慌てて辺りを見回す。しかし、魔力を持たないアイリスに見える筈もなく。
「魔力を持っていなくても、精霊さまに気に入って頂けるものなのですか?」
「そうだね。そういう人もいる」
「不思議ですね」
「我が国でも精霊については、解明されていない事は多いからね~」
シャルルはそう言いながら、癖なのかハープの弦を指で弾いた。美しい音が静かな空間を彩り出す。
「あの、私は精霊さまとこのように遊んだ? ことはなかったのですが。どうして急に」
「あ~……。実はオレが眠っていた精霊達を起こしちゃったみたいで」
「眠っていた?」
「うん。どうやら精霊達は長く続く争いに疲れ果てて、眠りについていたらしい。オレは国外に出たのが初めてだったから、最初は少ないのが普通だと思ってたんだけど」
「起きている精霊さまもいたのですか?」
「いたよ。この池の畔は自然豊かだから、特に集まってたな~。それでも少なかったけど」
そういえば、クロエが隣国は精霊達のために豊かな自然を残していると言っていた。少なかったのは、精霊が好む環境がこの国には少ないのも関係していたのだろうか。
「オレの魔力を気に入ってくれたんだね~。日に日にこの畔に精霊が増えていってる」
「申し訳ありません。精霊魔法には明るくなくて……」
「あぁ、そうか。そうだよね。精霊魔法は魔力を精霊にあげて、色々と精霊の力を貸して貰うんだ。魔法使いの実力が決まるのは、魔力量と魔力の……味?」
「あじ??」
小首を傾げたシャルルに釣られて、アイリスも同じように首を傾げた。それに、シャルルが可笑しそうに吹き出す。アイリスは恥ずかしくなって、居住いを正した。
「魔力は精霊にとっての嗜好品だと思って貰ったら想像が付きやすいかな? 好みがあるんだ」
「そうなのですね」
「より規模の大きい緻密な魔法を使いたければ、それだけ多くの精霊の力を借りる必要がある。方法は二つ」
「魔力の量と味ですね」
「その通り~。沢山の魔力をあげるか。もしくは、精霊の好む魔力であるか。好む魔力であれば、少量でも喜んで力を貸してくれるよ」
どちらか一方を満たせば、優秀な魔法使いになれるということか。そこでふとアイリスは気になった。どちらか一方を持っていると、どちらか一方は持てないのか、と。
「それを二つ共に満たす方は、いらっしゃるのですか?」
「そうだね。とても珍しいと思うよ。どちらか一方を満たしているだけでも凄いからね」
「そうなのですね」
「どちらも生まれ持っての要素だから。まぁ、魔力の量は十歳までなら鍛錬で増やすことは出来るよ。それも限界はあるけど、ね……」
不意にシャルルの顔が微かに翳ったように見えた。それに、アイリスはびくっと体を強張らせる。アイリスは、生まれ育った環境のせいか人の顔色に敏感であった。
「わ、私からすると魔力を持って生まれたというだけで凄いことです」
「そうだね。ポプラルース王国でも三人に一人くらいかな~。魔力を宿して生まれてくる子は」
シャルルの表情が元に戻ったのに、アイリスはこっそりと安堵の息を吐く。
「でもね。魔力を持っているだけじゃ、精霊魔法は使えない。見ず知らずの人に魔力を押し付けられてもね~」
「なるほど。そこで、“遊ぶ”のですね」
「うん。まぁ、正確に言うと“心を通わせ親しくなる”んだけど。魔力を配って、『オレはこういう者です』って自己紹介するんだよ」
そこで、アイリスはシャルルが言っていたことの合点がいく。自己紹介で配ったシャルルの魔力を精霊達が気に入ってくれたので、どんどんと精霊が集まってきていると。そういうことのようだ。
「つまり、王子殿下は精霊の好む魔力を持っていらっしゃるということですか?」
「え? あぁ、うん。そうなるね。オレの魔力に反応して、精霊が目を覚ましてるみたいで」
何処か困ったように笑んだシャルルに、詳しくは触れて欲しくないのかとアイリスは頷くだけに留めた。それに気付いたのか、シャルルはキョトンと目を瞬く。次いで、何処か嬉しそうに頬を緩めた。
「後はね~。呪文の精度も重要だよ。如何に美しく明瞭に、精霊の気が引けるか。これが拙いと、宝の持ち腐れなんて言われるからね」
「魔法を使うのも大変なのですね」
アイリスが感嘆の息を吐き出す。
「ありがとうございました。とても興味深かったです」
「どういたしまして。オレにとっては、魔法よりも科学や工学の方が難しいよ」
「え?」
急に変わった話題にアイリスは付いていけず、パチクリと目を瞬いた。シャルルが弾くハープの音色は、変わらず穏やかで気が緩む。
「出来たら空き時間にでもオレに勉強を教えて欲しい。スタジッグ伯爵令嬢は、とても優秀だと伺ったから。頼めると助かるんだけどなぁ」
そこで、アイリスは当初の目的を思い出す。シャルルの用事を聞くために来たのだと。自分が色々と聞いたせいで、かなり話が逸れてしまった。
「迷惑だったら断ってくれてもいいからね?」
「その……。私なんかで」
「キミがいいから、お願いしてる。……ことは確かなんだけど、強要してる訳ではなくて。ちょっとオレは何を言ってるんだろう??」
「いえ、あの……」
本音を言えば、お受けしたかった。このような名誉なことはない。しかし、褒められた経験の乏しいアイリスには自信というものがなかった。
葛藤するように黙ったアイリスに、シャルルも思案するように目を伏せる。そして、何事かを閃いたように表情を明るくさせた。
「“お返し”は?」
「え?」
「ハンカチのお返しにするのはどう?」
これはおそらく、シャルルの気遣いであるのだろう。風がアイリスを応援するように頬を撫でていった。
「お受けします! お返しは別で用意します!」
「えぇ!?」
勢いよくそう言ったアイリスに、シャルルは目を丸める。「そう?」と苦笑したシャルルに、アイリスは力強く頷き返した。
「じゃあ、よろしくね」
「お任せください!」
精霊はいつもアイリスに勇気をくれる。いつの間にやって来ていたのか。宙に浮く水が、ニコニコ笑顔の形になり喜んでくれていた。




