04.もう、いいのよ
アイリスは自室でシャルルから貰ったハンカチを険しい顔で眺めていた。絶対にオリヴィアに奪われたくなかった。
どこに隠せば見つからないだろうか。アイリスが部屋を見回していた時、扉がノックもなしに開け放たれた。
「お姉さまぁ!」
聞き慣れた鼻にかかった甘たれた声に、アイリスは咄嗟にハンカチを背中に隠す。アイリスの許可も取らずに、オリヴィアはズカズカと部屋へ入ってきた。
「本当にごめんなさぁい! わたしが可愛いばっかりに、ジェイデン様の心を奪ってしまうなんて……」
オリヴィアはそんなことを言いながら、瞳から大粒の涙を流す。何とも白々しい。オリヴィアがアイリスの悪評をジェイデンに言ったからこうなっているのに。しかも、全て嘘の。
いや、もしかしたらオリヴィアの言うことも一理あるのかもしれなかった。ジェイデンはその内容を簡単に信じたのだから。
「……もう、いいのよ」
「そうよねぇ。だってお姉様の物は、ぜぇんぶわたしのなんだもの」
オリヴィアがコロコロと笑い出す。嘘泣きだとは分かっていたが……。そもそも婚約が白紙になると決まってから今日まで、何も言ってこなかった癖に急に何なのだろうか。
「ねぇ、お姉様。背中に何を隠したの?」
「え!? だ、だめ!」
オリヴィアは制止を無視して、無理やりアイリスの隠したハンカチを奪い取った。
「なぁんだ、ただのハンカチじゃない。こんな地味なのいらなぁい」
何と失礼なのだろうか。オリヴィアはハンカチを地面に捨てると、踏みつけにしようとする。アイリスは咄嗟にハンカチを庇った。
「うっ!?」
オリヴィアのヒールが手の甲に食い込む。それでも、アイリスはハンカチの上から手を退かさなかった。
「やぁだ、めんどくさい。お姉様が苛めるって、お母様に言い付けちゃお」
オリヴィアはきゃらきゃらと嗤いながら、アイリスの部屋を出ていった。アイリスは慌ててハンカチを目の前で広げる。破れなどが無いことを確認して、ほっと息を吐き出した。
「よかった……」
アイリスはハンカチを胸に抱き締めると、少しだけ泣いた。奪われなかった安堵、守れた誇らしさ。貶された悔しさ、反論できなかったもどかしさ。感情はごちゃごちゃだった。
しかし、アイリスは直ぐに涙を痛めていない方の手の甲で拭うと、ハンカチを大切に畳んで机の引き出しにしまいこんだ。何故ならオリヴィアに泣き付かれた母が来るだろうから。
「叩かれるかしら……」
目立つ所を叩かれなければ良い。頬など叩かれてしまっては、暫く池の畔には行けなくなってしまう。それに、心配性の唯一の友人が……。アイリスは深々と溜息を吐くと、大人しく椅子に腰掛けた。
幸運なことに、昨夜は母に叩かれずに済んだ。しかし、登校したアイリスに待ち受けていたのは、好奇の視線であった。
どうやら、遂に婚約解消の話が何処かから漏れ広がったらしい。十中八九、出所はジェイデンであろうとは思うが。
「最低なんだけど??」
「ダメよ、クロエ。声が大きいわ」
「態とに決まってるでしょう?」
「相手は公爵家なのよ……」
彼女は、クロエ・マディルド。伯爵家のご令嬢で、人付き合いの苦手なアイリスと唯一親しくしてくれた幼馴染みだ。
同じクラスなこともあり、登校早々に捕まり事情を全て吐かされた。途中で朝のホームルームや一限目が始まり、ニ限目の移動教室の道中である今、全て話し終わった所である。
「張り倒したんでしょうね?」
「ご無礼だから」
「相手が悪いって言うのに……。何とか顔面蒼白になってくれないかしら。こうなったら何年かけてでも、決して逆らえない人脈と富と権力を築き上げるしかないわ」
「クロエなら出来そう」
「出来る出来ないじゃないの、やるのよ」
「かっこいい」
これくらい強く生きられたら、自分にも違う人生があったのだろうか。アイリスはぼんやりとそんな事を考えて、きっと無理だと直ぐに諦めた。
「ねぇ、見て」
「妹に婚約者を取られるなんて」
「仕方がないわよ。勉強しか取り柄のない地味な暗い子なんだから」
「可愛げないものね」
後ろを歩くご令嬢達が、クスクスと嘲け笑う声が耳につく。アイリスは居心地の悪さに、体を縮こまらせた。
ふと、隣から恐ろしい気配を感じて視線をクロエに遣る。クロエの頭から禍々しい角が生えて見えた。
「く、クロエ、落ち着いて。淑女にあるまじき顔になってるから」
「ゆ~る~せ~な~い~!!」
「うぅ、どうすれば……」
あの子達は確か子爵家と男爵家のご令嬢だった筈だ。このままでは、あらゆる手段を駆使してでも叩き潰しそうな雰囲気である。
「スタジッグ伯爵令嬢~!」
狼狽するアイリスの耳に入ってきた、穏やかでホッとする声。顔をそちらに向けると、前からシャルルが手をヒラヒラと振りながら歩いてきていた。
「おはよう」
「ご機嫌麗しゅうございます」
「何か困り事かな?」
スッとシャルルの視線が後ろのご令嬢達へと向く。ニコッと圧のある笑みを向けられたご令嬢達は、顔色を悪くして足早にアイリス達を追い越していった。
「あ、あの……」
「余計なお世話かな~とは思ったんだけどね。用事もあったから」
「いえ、お手を煩わせてしまい」
「強請っていいなら、感謝かな~」
「うっ、その、ありがとうございます」
「どういたしまして」
シャルルが満足そうに頬を緩めたのに、アイリスは戸惑ったような表情になる。こんな親切にして頂くような価値など自分にはないというのに。
「そうそう、用事は本当にあるんだけど。お友達との時間を邪魔する訳にいかないのと、次の授業に遅刻すると不味いから、また今度にするよ」
「お気遣い痛み入ります」
「いいえ。時間もないし、自己紹介はまたの機会にしようか。じゃあ、また」
「失礼致します」
シャルルはそれだけ言うと、足早に去っていってしまった。その後ろ姿を追っていると、クロエに「遅刻するわよ」と声を掛けられる。それに、アイリスは肩を跳ねさせた。
「え、あ、そうね! お気遣いを無駄にするなんて、あってはダメだわ!!」
我に返ったアイリスは、せかせかと歩き出す。その後を追ったクロエは、隣に並びニマニマとした笑みをアイリスに向けた。
「あらあら。隣国の王子殿下といつの間に」
「え!? その、たまたま?」
「ふぅん? 親しいの?」
「どうなのかしら……」
「このまま親しくなって、行儀見習いでも何でもいいから隣国に連れてって貰いなさいよ。伯爵家にいたら何をされるか分かったものじゃない」
「それは、でも……」
「でもじゃないのよ、アイリス。こんなチャンスなかなかないわ。色仕掛けでも何でもして、掴み取りなさい!」
「不敬だよ、クロエ……」
そこまでのご迷惑をおかけする訳にはいかない。そもそもとして、行儀見習いに色仕掛けはいらない筈だ。それとも、自分が知らないだけで必要なのだろうか。アイリスは行儀見習いについて調べておこうと決めた。
「あぁ、でも……。隣国は精霊達のために豊かな自然を残してるそうだから。魔力がない者にとっては、少し不便だと聞くわ」
「そうなのね」
隣国について書かれている本など、なかなかお目にかかれない。こうしてアイリスと会話をしてくれるのもクロエだけ。隣国のことをあまりにも知らなさすぎるなとアイリスは少し寂しく思ったのだった。




