03.現実味がない
あの後、御付きの者が「殿下ーー!!」とシャルルを探している声が池の畔まで聞こえてきて、シャルルはこの場所が見つかる前にと池から去っていった。
残されたアイリスは、歌の余韻から抜け出したくなくて、暫く日の光を反射する池の水面をぼんやりと眺めていた。
ふと視界の端にシャルルのハンカチが映り、アイリスは衝撃に目を見張る。ずっと敷物にしていたのだ。
何と大それたことをしてしまったのか。綺麗に洗って返すべきか。新しいものを買ってお渡しするべきか。しかし、新しい物を買おうにもアイリスが自由に使えるお金などない。
シャルルの歌とハンカチに、当初の目的はすっかり頭から消え。アイリスは結局、ハンカチを大事に抱えて邸へと帰ったのだった。
可愛らしい刺繍の施されたそのハンカチは、落とし物ということにしてメイドに洗って貰った。誰の物か分からなければ、妹とて勝手に持っていったりはしないだろうと考えたからだ。
メイドは少し訝しんでいたが、明日の洗濯物の時でいいならと請け負ってくれた。それに、アイリスは安堵する。洗濯の仕方は学んでいないので、分からなかったからだ。
しかし婚約がなくなった今、行儀見習いに出される確率は高い。少しくらい学んでおいた方が良いだろうか。両親がこのまま家に置いてくれるなどとはアイリスには思えなかった。
アイリスは綺麗に洗濯されたハンカチを胸の前で大切に抱き締め、意味もなくその場を行ったり来たりしていた。この道を真っ直ぐに進めば、あの池の畔へと出ることが出来るのだ。
アイリスとシャルルのクラスは違うため、昨日もそして今日も校内では会えなかった。いや、正確に言うならば、シャルルを見掛けはしたが烏滸がましくて近寄れなかったが正しい。
ジェイデンとの婚約が白紙になったことは、まだ噂にはなっていなかった。しかし、時間の問題であろう。公爵家との縁談を妹に取られた姉。醜聞過ぎて、近寄るだけで嫌がられるに違いない。
やはり、止めようか。そう思っては、しかしどう見ても誰かからの贈り物であるハンカチはお返しした方が……を脳内で繰り返していた。大切な方からの贈り物であったら大変だ。
「どうしたら」
完全に足を止めたアイリスが顔を俯かせる。ジェイデン相手には、どうしていたのだったか。そういえば、目があったのさえあの日が久しぶりだったかもしれない。何だ。ずっと前から、二人の関係は破綻していたんだ。
アイリスが泣くのを我慢するように、唇を噛む。不意に、風がアイリスの髪を巻き上げた。それに驚いて、アイリスは顔を上げる。
周りの木々は一切揺れていなかった。アイリスの周りにだけ、風がふわふわと漂っているらしい。風はまるでアイリスを慰めるように、柔く頬を撫でていった。
アイリスはキョトンと目を瞬く。涙は驚きに引っ込んでいた。これは、もしかしなくても……。
「精霊さま?」
その呟きに答えるように、急に周りの木々が音を立てて揺れる。戸惑うアイリスの視界に突如として入ってきた水の塊に、アイリスは肩を跳ねさせた。水が宙を浮いている。
水の塊は徐々に姿を変え、『○』の形になった。精霊の姿を見ることも心を通わせることも出来ないアイリスと、意志疎通を図ろうとしてくれているのだろうか。
「ご、ご機嫌麗しゅうございます」
アイリスは恐る恐ると挨拶をしてみた。水の塊は三つに分かれると、目と口の配置になる。ニコニコと笑っている顔のような形になった。
「え、笑顔? 喜んでいらっしゃるのかしら……?」
『○』
「凄いわ。現実味がない」
生まれてこの方、精霊の存在を感じたことなどなかったというのに。急にどうしたというのか。
水の塊は再び姿を変え、『←』の形で止まる。その矢印は、池の方を指し示していた。
「進めと言うことでしょうか?」
『○』
アイリスは迷うように目を伏せる。早く行けというように、風がアイリスの背を優しく押した。それにアイリスは勇気を貰って、足を踏み出す。いつの間にか、水の塊はいなくなっていた。
池が近付くにつれ、ハープの音色が聞こえだす。今日は歌ってはいないようだ。どこか残念に思っている自分に気付いて、アイリスは恥ずかしく思った。
池の畔へと出たアイリスは、音の出所へと顔を向ける。おっとりとした垂れ目と目が合った。
「あれ? スタジッグ伯爵令嬢だ」
「ご機嫌麗しゅうございます」
「こんにちは。もう来ないかと思ってたよ」
「お邪魔でしたでしょうか……」
「そんなつもりじゃなかった。言い方が悪かったかな」
シャルルが困ったように眉尻を下げる。どうやら、本当に邪魔とは思われていないらしい。アイリスは、ほっと胸を撫で下ろした。
「あの、ハンカチをお返ししたく」
「ハンカチ?」
「この前、敷いてくださったハンカチです」
「あぁ! あれか。律儀だね~」
「可愛らしい刺繍が施されておりましたので、誰かからの贈り物であるのかと」
「可愛らしい?」
「はい、とても」
「じゃあ、あげるよ」
「……はい??」
アイリスはハンカチを差し出そうとした中途半端な体勢で固まる。シャルルは楽しげに笑うと、再びハープを鳴らし始めた。
「あ、あの?」
「その刺繍はオレ作なんだよ」
「王子殿下のですか!?」
「勉強が嫌いな訳じゃないんだけどね~。どうにも机にずっと向かってると飽きちゃって。かといって、城内で歌う訳にもいかないから」
「それで、刺繍ですか??」
「剣術は苦手なんです。息抜きに刺繍をやってみたら案外才能があったみたいでね。楽しかったし、時々やってたらソフィア嬢。あぁ、兄の婚約者ね。ソフィア嬢に『わたくしより上手くなるのはおやめください』って渋い顔されたな~」
アイリスは思わず、手の中にあるハンカチをまじまじと見てしまった。刺繍は本当に見事で、確実に自分よりも上手いと思う。
「いらないなら、捨ててくれても良いけど」
「え!? いただきます! 欲しいです!」
「ははっ! そう? なら、どうぞ」
へにゃりと笑んだシャルルに、アイリスはソワソワとした心地になった。こんな無防備で本心からの笑顔を向けられた記憶がないからだ。
それにこの二日、遠巻きにではあるが校内で見たシャルルの笑顔はもっと隙のない感じであった。アイリスと最初、挨拶を交わした時のような人の良さそうな如何にもな笑み。
「お返しに何か」
「いいよいいよ」
「しかし、それは……」
「ん~? じゃあ、考えておくね」
「できる限りで、ご用意します」
「ただのハンカチなんだよな~……」
シャルルが苦笑気味にそう呟いた。いつものアイリスであれば、それを過剰なくらい不安に感じていたことであろう。
しかし、耳に心地よいハープの穏やかな音色が、不思議と心を落ち着かせてくれて。そのような負の感情は湧き上がらなかった。
「用事はそれだけかな?」
「はい」
「そっか。オレは今日も何曲か歌って帰ろうと思ってるんだけど」
期待してしまったアイリスの心を見透かしたかのように、桃色の瞳が弧を描く。
「聞いていかれますか?」
「よろしいのですか?」
「お暇なら」
アイリスは胸の高鳴りに従って、「是非!」と口にしていた。この三日間、オリヴィアの婚約を祝う邸内にアイリスの居場所などなかった。
絶望に飲まれそうになる度に、アイリスを救ってくれたのはシャルルの歌であったのだ。確証などない。しかし、あの冷たい邸でもシャルルの歌を支えにすれば、きっと生きていけると。アイリスにはそんな気がするのだった。




