7.チルチェリアの場合
チルチェリアは、寮の自室で、自分に夢中な男と熱い口付けを交わしていた。
男の手が、彼女の胸に伸びる。まだ、そこまで許すつもりはないので、彼女はその手をピシャリと叩いた。
「酷いな。」
「だめ。」
「俺は、本気なんだがな。」
「でも、だめ。」
まだ、悩んでいるんだから。誰のルートを進むのか。
本当は、最推しのダニエルルートに進みたいのに……。
チルチェリアは、男を部屋から追い出すと、ベッドに転がった。
チルチェリアには、前世の記憶がある。あんな記憶無くしたかったのに。
琴絵は子どもを産んでから、鬱に悩まされてきた。
実家が遠くて、母に助けも求められない。
夫も忙しいと、家事も育児も琴絵任せだった。姑は、昔もそんなもので、自分もそうして息子を育てたと、夫に協力を頼む琴絵に冷たい目を向けた。
狭い家の中で泣きわめく子どもと二人きりになると、琴絵は無性に苛立った。
仕方がないので、ベビーカーに乗せて、近所の公園に行く。
幸せな顔をした子連れの女達が話しかけて来るけれど、琴絵の雰囲気にすぐに離れて行ってしまう。
本当は、彼女達と話がしたかった。でも、あまりにも幸せそうにキラキラしているから……羨ましくて睨んでしまったのだ。
一人で公園に座っているうちに、琴絵はゲームをしながら時間を潰すようになった。ハマったのは乙女ゲーム。話題になっていたので、名前は知っていた。
ダウンロードして始めてみれば、そこは夢のような世界だった。素敵な男性が主人公に情熱的な愛を囁く。
夢中になった。
攻略サイトもくまなくチェックした。当然のように課金も躊躇わなかった。
毎月、自分がいくら使っているかも気にしなかった。
そんな時、あの事故が起こった。
ぼんやり歩道橋の自転車をおす部分をベビーカーを押しながら登っていた私は、スマホの着信に気を取られ、ベビーカーから手を離してしまった。
転がり落ちるベビーカー。全てがスローモーションに見えるのに、自分の体が指一本動かない。
自分のあげた悲鳴と助けを呼ぶ声が、まるで現実感なく聞こえる。
下から登ってきた女の子がベビーカーに飛びついて、抱え込むと、一緒に落ちていった。
彼女の頭から流れる血を見て、初めて体が動いた。
慌ててベビーカーに走りより、我が子の無事を確かめるので精一杯で、彼女の為に救急車を呼んだのは、周りに集まってきた人の一人だった。
子どもは無事だったが、彼女は助からなかった。
彼女には、身内が居なくて、葬式をあげるのも、町内の人がしたと後で聞いた。
それまで無関心だった夫と姑が、私の状態に初めて気が付き、事件の事だけでなく、散財についても責め立てるようになった。
できぞこないの嫁。
馬鹿な女。
最低の母親。
私は、寂しかったし、辛かったのに。彼女にも申し訳ないと思っているのに。
離婚が決まって、養育権も彼に奪われ、私には何も残らなかった。
子どもと彼を乗せた姑の車が走り去るのを見て、私は走り出した。この道は一方通行なので、徒歩なら先回りできる道がある。散歩の時に知った道。
私はその道に向かって走り、姑の車の前に飛び出した。
気づけば、私は貴族の娘になっていた。
ここが私が夢中になっていた、あのゲームと同じ世界だと認識したのは、学園に入ってからだった。
私はゲームには出てこない。名もない脇役だった。
でも、学園で周りを見れば、ゲームとは、何もかも違った。
悪役令嬢のケイシーは婚約者のダニエルと仲が良いし、ヒロインのマリーは、悪役令嬢の親友だった。
それに、好感度を上げるためのイベントを全然クリアしようともしなかった。
隠れ攻略対象のムスタファは、卒業と共に婚約していた。
ならば、私が、ヒロインとなって、私の物語を紡いでも構わないんじゃないだろうか?
この世界で、私は好きに、幸せを掴んでもいいんじゃないか?
我慢ばかりしていた琴絵は、もう居ない。
私は、このチルチェリアを楽しもう。攻略対象についての設定はよく知っている。
早速、一人目として宰相の息子に近寄れば、面白いほど簡単に彼は私の手に落ちてきた。
彼が囁く愛の言葉が心地よい。優しいエスコートが夢のようだ。
きっとここは私の為の世界。私こそがヒロイン。
シナリオを知っているから、イベントも強制的に起こすことができる。
傷ついた私へのご褒美の夢。
そう、これは私の夢の中に違いない。覚めないで欲しい。ずっと。
そして、私は今日もお守りに願いを込める。
【誰もが私を好きになってくれますように。】