2.弟の誕生
私は一日おきに母様のマッサージをした。
青白かった母様の顔色は、明るくなり、私や兄様と一緒にお茶をする事もできるようになった。
私のマッサージは侍女達にも教えてほしいと請われ、侍女達もマッサージのプロになった。
庭の一角には庭師に頼んで、香りの良い薬草、--ゆきえの記憶にある、ハーブ--を植えて貰い、それを絞って混ぜたオイルで体をマッサージすると、母様の体はもっと元気になった。
仕事で疲れた父様もマッサージで体を解してから休むようになったら、ぐっすり眠って疲れが取れるようになった。
マッサージは護衛騎士や、使用人の間でも大人気で、いつの間にか、皆の顔色が良くなっていた。
「ケイシーのおかげね。毎日、とても楽しいわ。」
「お母様。」
剣術の練習を見に来てくれていた母様が、私と兄様に、濡らしたタオルを渡してくれる。
受け取って顔を拭きながら、兄様と顔を見合わせて、笑った。
庭の向こうから、父様が走ってくるのが見えた。父様が走るのって珍しい。
「あなた、今日はお早いのね。おかえりなさい。」
「アナベラ、アナベラ。先生に聞いたよ。」
「まあ、私が夕食の時に話そうと思っていたのに。」
父様は母様を愛おしそうに抱きしめて、額にキスをした。
「どうしたんですか?父様、母様。」
「ムスタファ、ケイシー、お前たちに弟妹が増えるんだ。」
「え?嬉しい!」
弟でも、妹でも、すっごく可愛がろう。いつ産まれるんだろう。
兄様と、産まれる日を指折り数えて、楽しみにした。
そして、元気な弟が産まれた。
思いの中のケイシーには弟がいなかった。笑い合う優しい両親も。名前も顔も似ているけれど、護衛騎士が誰も太刀打ちできないほど、剣の強くなった兄様も。
私は同じ名前だけど、ケイシー・トルティドールとは、別人だった。
そう、私の婚約が決まるまでは、そう思っていた。
10才になった春先、私は私と同じぐらいの年の少年と、庭で出会った。
柔らかく金色に輝く髪に、綺麗な緑の瞳。
その子は私に明るく声をかけてくれて、私達は一緒に庭を散歩した。優しく笑顔のその子は、私の話を聞いては、楽しそうに笑い、そのうち、二人で鬼ごっこをはじめた。
泥だらけになった私達はもちろん親に叱られて、二人でしょんぼりしながら、お風呂に入れられて、ほこほこになりながら、また笑った。
少年はヨルムガルド公爵の息子、ダニエル・ヨルムガルド。
そう、可哀想な死んだケイシーの婚約者と同じ名前だった。
私は13になり、6才下の弟、マティアスと一緒に、今日も元気に師匠の訓練を受けている。
毎朝の走り込み時に私の考案した、丈夫な布靴は、我が家の練習時の履物として定着し、師匠からの評判で、王国騎士団でも今や定番商品となっているらしい。
「今日は、ここまで。」
今では、剣聖の師匠とでもいい勝負の兄様は、秋になったら、学園に行ってしまう。寮暮らしなので、今までのようには毎日会うこともできない。
せめてそれまでは、ずっと一緒にいたいのに。
「ケイシー、勉強の時間だろう?早く着替えに行きなさい。」
「でも、もうすぐお兄様に、会えなくなるのに。」
「いつまでも甘えっ子だね、ケイシーは。」
「お兄様がいなくて寂しいお姉様は、僕が甘やかしてあげます。」
「まあ、マティアス。」
弟が、私の手を握って見上げてくる。可愛い。
弟は、兄様とよく似た顔立ちだが、兄様よりもキツめの顔で、その顔をキリッと引き締めながら、言ってくれるのだが、可愛いが上だ。
その弟の握る手をサッと奪うと、
「大丈夫だよ、マティアス。私がケイシーを甘やかすから。残念ながら、君の出番はないね。」
と、微笑んだのは、ダニエルだ。私の婚約者。
「大人気ないですよ。ダニエル。」
ふぅとため息を吐くと、兄様が悔しげに睨むマティアスに私のもう片方の手を握らせた。
マティアスの顔が嬉しそうに綻んだ。
「酷いなムスタファ。ケイシーの手を握って良いのは、婚約者の私だけだ。」
「マティアスは、弟です。それに、お忘れのようですが、ここは、トルティドール家の庭です。」
「知ってる。」
「お勉強はどうなさったのですか?」
「終わった。」
訝しげに見る兄様に、ダニエルについてきた侍従が答えた。
「ケイシーお嬢様にお会いしたくて、頑張って終わられました。」
さっきから、手を取られたまま、恥ずかしくて顔を赤らめている私に、トドメのような一言。
「今日の剣術の稽古はもう終わったのか?」
「はい。ちょうど。」
兄様が片付けようとするのを押し留め、ダニエルが笑顔を向ける。
「もうちょっとだけしよう。私もやりたい。」
仕方ないと、兄様と師匠が支度をはじめ、私とダニエルは剣を構えて、向き合った。
最初の頃は私に負けてばかりいたダニエルだが、最近は私が負け越すようになった。兄様にはまだ及ばないとは言うものの、屋敷の護衛騎士では、もう、ダニエルに勝てない。
マティアスは、それも気に入らなくて、ダニエルに食ってかかるが、嫌いではないようで、先日、こっそりと、姉様の婚約者がダニエルで良かったと本人に言っているのを聞いてしまった。
ダニエルは、そうだろうと、嬉しそうに笑いながら、私が聞いている事に気づいたようで、自慢気な顔を向けていた。
私は思いの中のケイシーと同じケイシーかもしれないけれど、違うケイシーだ。大切な人も優しい人もずっと多い。
もし、この先、あの彼女に出会っても、違う道に進める気がする。