83話 曖昧な境界線
「何故オーウェン公爵令嬢が」という問いが開いた口から零れ出たのに対し、スイは「高位神官として任務があったのですよ」と端的に答えた。その言葉に、フェルマンは驚愕に目を瞠る。
そもそも、十兵衛はオーウェン公爵と丸十字ブランドで提携を結んでいる。公爵令嬢と知り合いである事も必然であったのだ。だが、いくら長距離の移動に際して神官や魔法使いの同道が勧められているとはいえ、公爵令嬢が着いてきているとは思いもしなかった。何よりスイが高位神官とはフェルマンも知らなかったのである。
令嬢が神官になる例は多い。女神に仕える事で神聖さや貞淑さを内外的に広めるのが目的だ。レナ教は「人の為にある宗教」であるため結婚や契りを縛る戒律は存在しないが、人々を痛みや苦しみから解放するために尽力する姿は、令嬢を嫁に迎える貴族の貴公子達に非常に好評だった。そのため、レヴィアルディア王国ではレナ教の目的から大いに逸脱した形で神官になりたがる令嬢が多く存在していたのである。
故に、普通は貴族の令嬢の神官など大した奇跡は使えない。多少の傷が治せる程度で、貴公子達が負ったちょっとした擦り傷などを治して讃え合う、恋だの愛だののスパイスの一つにしか思われていなかった。オーウェン公爵令嬢が神官であるというのは噂で聞き及んでいたが、それとて他の令嬢と同じような物だと思っていたのだ。
――だからこそ、フェルマンはぞっとする。かの公爵令嬢の在り方に。
齢十八の若さで、高位神官にまで上り詰めた彼女の努力と才能に。遊びで神官をやっているのではないのだと、令嬢のトップである彼女が知らしめるその姿に。
フェルマンは、畏敬の念すら感じたのだった。
「名乗りを上げたからには、ここからは公爵令嬢として接します。フェルマン、宜しいですね?」
「はっ!」
椅子に座り直したスイに対して、フェルマンは右膝をついて頭を垂れる。オデット伯爵の騎士であっても、公爵令嬢に対する礼儀は尽くすのが当たり前だ。
「第一に、十兵衛さんが先に仰った通り、私達はこれ以上の謝罪を求めません。贖いを求めるのであればどうぞ伯爵に。より一層の忠誠を尽くして恩に報いなさい」
「畏まりました!」
「第二に、私達がこの街に訪れたのは別件があっての事。そちらに伺う余裕がない事を、伯爵にお伝え願えますか?」
「ははっ!」
「第三に、スピー君の首輪について貴方に尋ねたい事があります」
「……へ?」
「何故ここで首輪の話が出る?」と、フェルマンは思わず面を上げた。
隣でフェルマンに倣うように這いつくばっていたスピーも、驚いたように目を丸くする。
だが、そんな二人に対してスイは怒りの滲む鋭い瞳で相対した。
「亜人種を縛る楔とお見受けします。どちらの魔道具屋で作られた物かご存じですか?」
「い、いえ……私の管轄ではないため、分かりかねます」
「そう。では質問を変えましょう。この首輪の発動のさせ方は分かりますか?」
そこまで聞いて、フェルマンははっと気づく事があった。スイは高位神官だ。魔物から人を守り、癒す彼女にとって、半魔半人のスピーはおそらく度し難い存在なのだろう。人に徒成す魔を討つ彼女の前にスピーを連れてきた事こそ、最大の間違いだったのだ。
得心したフェルマンはスピーの首に左手を沿え、胸の前で右手で拳を作ると、「すぐにご覧にいれましょう!」と声高に言って――スイに渾身の平手打ちをくらった。
パァン! と空気が破裂するような甲高い音と共に、フェルマンの左頬に真っ赤な手形がつく。唖然としたのはフェルマンだけでなく、十兵衛もスピーも同じだった。
「誰が実行に移せと言いました! 発動のさせ方を尋ねたのが分かりませんか!」
「も、申し訳ございませんっ! しかし、説明をするなら実行しながらが一番……」
「スピー君に痛みを負わせると!?」
フェルマンは驚愕した。スピーは亜人である。そのスピーを慮る言葉が高位神官から飛び出るなど、信じられない思いだった。
だが、スイは仁王立ちのまま厳しい声色で詰問する。
「その右手。神への祈りの姿ですね。やはりこの首輪には祈りが関連しているのですか」
「は、はい。首輪に手をやり、神に祈りを捧げると発動する仕掛けで……」
「なんて愚かな事を……!」
怒りに声を震わせたスイが、ぐっと唇を噛み締める。今にも嚙みちぎってしまいそうな様に慌てた十兵衛が、スイを落ち着かせるようにその背を撫でた。
「スイ殿、どうか落ち着いてくれ。それ以上は自傷になってしまう」
「…………」
十兵衛の気遣いを受け、スイが大きく深呼吸する。落ち着きを取り戻したスイは「失礼しました」と小さく頭を下げると、叩いたフェルマンの頬に治癒を施した。
「オーウェン公爵令嬢……」
「浅慮でした。お許しを」
「い、いえ! いえ! 元はと言えば先走った私めの失態で……!」
「それでもです。行動を止めるためとはいえ大変失礼しました」
頬どころかツィルチルに蹴られて負っていた傷さえ、スイは完全治癒を施す。その奇跡の強さと優しさに、思わず息を呑んだ。
普通であれば、令嬢の機嫌を害した騎士など、捨て置かれて当然なのだ。伯爵令嬢であるマリベルの折檻は日常茶飯事で、故にスイとの比較に大きく差がでる。
自らの浅慮を詫び、恥じる様に目を伏せたスイに、フェルマンは胸が熱くなった。これが高位神官まで上り詰めた公爵令嬢か、と人知れず感動を覚えた始末だった。
「話を戻しますが、この首輪は私達神官の扱う血晶石が用いられたものです」
「スイ殿が身に着けているタリスマンと同じものか」
「ええ。普通は神官しか持つことが許されないものですが、例外があります。その例外から流れたものなのか、知らずに使われているのか今の状態では分かりませんが……」
「……本来あってはならない物、なのですね?」
フェルマンの質問に、スイは重く頷く。
「亜人種の扱いについて、レヴィアルディア王国では領主に一任されております。オデット領での事をオーウェン家の者がとやかく言う筋合いはないのですが、いち神官として物申す所は多々あります」
「…………」
「私は、高位神官としてこれより捜査に入ります。故に――フェルマンさん。貴方には私からの指令を受けて貰いたいのですが、お願いできますか?」
「……!」
それは、スパイになれと言っているのと同義だった。あまりの事態に、ごくりと生唾を飲み込む。
スイはあえて高位神官として申し出てきた。その考えの示す所を察して、フェルマンは思わず十兵衛にちらりと視線を向ける。
十兵衛は、フェルマンの主へ対する忠誠について怒りを見せていた。己の中にある弱さを見抜いていたのだ。
長い物に撒かれるように粛々と騎士になって仕事をこなしていたフェルマンにとって、騎士道はどこか遠い物であった。口では良いように言えても、それを本質として貫き、姿勢を正し続けるのは難しい。そこから見えた綻びをあっさりと看破された事に、恥じ入るような思いだった。
だからこそ、スイは問う。公爵令嬢ではなく、高位神官として。伯爵の騎士として忠誠を貫くのか、フェルマンとして正道を貫くのか、どちらか選べるように二つの道を残して。
押し黙ったフェルマンは、幾許か時間を置いてぽつりと「……主を、」と呟いた。
「主を欺いて正道を貫く事は、大きな裏切りに見えるでしょうか」
「…………」
「……欺かずともいい」
血を吐くような言葉に対し、十兵衛が支えるように声を上げた。
「主が道を間違える事もある。己が身に泥をかぶってでも正しさを説き、反発する事もまた忠義だ」
「十兵衛様……」
「そんな部下の声に耳を傾けず、自らの誤りを正さず、裏切りだと声高に言うような主なら……」
「見る目が無かったと、笑うしかなかろうなぁ」
眉尻を下げて笑ってみせた十兵衛に、フェルマンの肩から力が抜けた。
は、と一つ息を吐いて、釣られるように苦笑すると、腰元から剣を鞘ごと引き抜いた。
「スイ・オーウェン高位神官。その指令、承りました」
「フェルマンさん……」
「ツィルチル・ディーオデット伯爵配下、フェルマン・ロイデンは、これより高位神官殿の指令に従い、任に当たります。どうぞ、ご命令を」
「……ありがとうございます。貴方に、女神のご加護があらんことを」
騎士の礼だった。フェルマンから向けられた剣の柄に、スイは引き抜く事無く預かり、祈りを捧げる。静かに剣を返されたフェルマンは、鞘の剣先にキスを落として最上の敬意を示した。
「まずは如何致しましょう」
「先に告げた件について伯爵に報告を。首輪の件は伏せて下さい。その後改めて合流し、これからについて話し合いましょう」
「承知致しました。謝罪不要の件と、伯爵邸への招待の辞退の旨、確かに伝えます」
「お願いします。スピー君には幾つか伺いたい事がありますので、こちらで預かっても?」
「はい。……スピー、粗相はするなよ」
睨みをきかされたスピーは、びくっと肩を跳ね上げて平伏する。
「もち、勿論です」と声を震わせるスピーの姿に眉尻を下げた十兵衛が、細い身体をおもむろにひょいと抱き上げた。
「そう怖れる事はないぞスピー。痛い事も怖い事もしないと約束しよう」
「十兵衛様、あまり気を許しすぎぬよう。スピーは魔物の血を引く亜人です」
「……忠告は有難く受け取っておこう」
そう言いつつも、十兵衛は「まずは風呂にでも入るか!」と薄汚れたスピーを抱き上げたままバスルームへと連れていった。それを見送りつつ、フェルマンは溜息を吐く。
「豪快というか、なんと申しますか……」
「オデット領民の方には信じられない在り方でしょうね」
「スイ様もあのようなお考えで?」
スピーを慮る言動のあったスイに、高位神官に相対する礼儀を持ってフェルマンは問いかける。「明言は難しいですね」と苦笑したスイは、悩みながら答えた。
「私は神官ですから、魔物の存在を認めるわけにはいきません。けれども、亜人種は半分人の血を引く人間でもあります」
「半分人であろうとも、半分魔物でありましょう? 人ではない、故に迷う必要もないのでは?」
「以前の私なら、そう判じていたかもしれません」
痛みを堪えるように小さく微笑んで見せたスイに、フェルマンは目を瞬かせる。
「カルナヴァーンの事件は御存じで?」
「はい。スイ様と十兵衛様、そしてハーデス様によって見事討滅なされたと」
「その折に、私達は魔物に変えられた人間に会いました」
「……!」
――スイは静かに語る。
カルナヴァーンの寄生虫によって、魔物に変えられた人間がいた事。人として死にたかったけれど、その願いは叶えられずほぼ魔物寸前の異形の姿に至っていた事。
そんな彼らを、村人達は一心に世話をし、最期の瞬間まで人として接し、尽くしていた事。
「しかし、彼らは元は人で……!」
「でも、もう魔物でもありました。半分人で、半分魔物。その点において、最早亜人種と変わりがない」
「――私達の引いた境界線は、なんて曖昧なんでしょうね、フェルマンさん」
言葉を失くしたフェルマンに、スイは目を伏せ俯いた。
「……スイさ――」
「スイー! 朗報だ!」
「旨い物がたくさん食えるぞ!」
その時だ。外に繋がる扉からハーデスとリンがうきうきといった様子で入ってきた。
「美味しい物?」
「あぁ! 伯爵の使いが招待状をくれてな! なんとかって人の生誕記念パーティーに招待されたんだ」
「贄を尽くした食事が多数でるらしい! 今日の夕飯は決まりだな!」
「あっ」
「あ、」
「あ~~……!」と溜息まじりの唸り声を上げながら、スイとフェルマンが地に膝をついて脱力した。
そういえば使者が来ていたんだった! と思い出した事に加え、その応対を何の指示も無しにハーデス達に任せていた拙さに気づく。
そんな二人の様子にきょとんと目を瞬かせたハーデスとリンは、不思議そうに首を傾げた。
「我らは何か拙い事をしたのか? ハーデス」
「さぁ? こんなに旨い話なのになぁ、リン」