79話 嬉しい時に鳴る音で
「おい! 本当にこっちなんだろうな!」
フェルマンは嫌悪を隠さない表情でスピーを怒鳴りつけた。人の行き交う往来のど真ん中で、スピーが鼻を地につけるように這いつくばっていたからだ。
スピーの獣さながらの行動に、フェルマンは不快そうに眉を顰める。同様にエレンツィアの住民達も、亜人のスピーの原始的な行動を、眉をひそめながら遠巻きに眺めていた。
亜人は身体的に人よりも強く、魔物より弱い。それはすなわち、人の数十から数百倍の五感の鋭さにも繋がった。
妖狐と人のハーフであるスピーは嗅覚が優れている。そのため、十兵衛が捕えられていた牢獄で匂いを覚えた後、足取りを辿るようにその都度地に這いつくばっては匂いの痕跡を追っていたのだった。
フェルマンの方もスピーから距離を取りながらも、人に尋ねる事で十兵衛の行き先を追っている。だが、亜人として迫害されているスピーに容易に話しかけてくれる人はおらず、スピーの捜索方法は己の鼻に頼るしかなかったのだ。
フェルマンに任せきりだと間違いなく怒られる。さりとてこの方法を取っていても怒られる。どちらでも怒鳴りつけられる事から逃れられないスピーは、それでも口角を歪めて必死に匂いの跡を追った。
――この先に終わらせてくれる人がいる。
そう思うと、嬉しさから自然と笑顔が零れた。スピーはうんざりしていたのだ。
死んでしまいたかった。もう、これで終わりにしたかった。上手に生きられなかった人生を閉じて、次の生に期待したかった。
話に聞くところによると、くだんの英雄は、カルナヴァーンが作った【人が魔物になった者】すらも、容易に、躊躇なく殺したという。だったら亜人の自分だって躊躇なく殺してくれるだろうと、スピーの胸が期待に膨らむ。
と、そこで鋭い嗅覚に目当ての匂いが引っ掛かる。はっと顔を上げると、人の肉眼では探知できないほど遠い遠い先の方で、十兵衛が白い鎧を着た大男と少年を見送ってる姿が目に入った。
「見つけた……!」
四つん這いになって駆けだしたスピーを、フェルマンがぎょっとした顔で見る。
「え!? ど、どこに……って馬鹿者! お前は私の後から姿を現す筋書きだろうが!」
「スピー!」と叫びながらフェルマンが追ってくる。だが、それよりも格段に速く、スピーは駆けてみせた。
牙を見せ、爪を見せ、唸り声を上げながら飛びかかろう。人でもなく、魔物でもなく、さりとてお前を十分害せる者なのだと、己の武器をすべて見せつけて。
距離もわずかとなったところで、十兵衛がふとスピーの方へ振り向いた。本当はその背から襲いたかったスピーだったが、「ままよ!」とばかりにそのまま十兵衛に飛びかかった。
「ガァアアアア!」
自分でも驚くほど怖い声が出た。十兵衛の腰元にある剣を視界に入れながら、どうか、とスピーは願う。
――どうか、死がこれ以上痛いものではありませんように。
周囲から悲鳴があがる。エレンツィアの住民達が、亜人が人を襲う光景に恐れおののき叫んでいた。
その最中、狙われた十兵衛は腰元の剣を――
――抜刀することなく、大きくスピーに向かって腕を広げた。
「なんだ? こちらにも狐っ子はいるのか!」
そう言うや、飛びかかってきたスピーの腰を掴み、そのまま抱え上げてしまった。
「どうした狐っ子! 変化の修行中か?」
「っ!?」
「耳と尻尾が出たままだぞ! まだまだ修行が足りんな!」
「ははは!」と笑いながらスピーを抱えた十兵衛は、あっけにとられるスピーの頭をがしがしと撫でる。
エレンツィアの住民も、追いついたフェルマンも、抱き上げられたスピーでさえ、十兵衛の行動理由がまったくもって理解出来ないのだった。
***
随分薄汚れた姿だなぁと、解れの目立つ服を着た狐の子を見下ろしながら、十兵衛は思う。けれども、もしこれが狐の子の精一杯の変化だったら下手に指摘するのは間違いだ。
どちらかというと他の衣服を見せて、「これを変化に採用したらどうだ?」とやんわりと勧めてやる方が傷つかないだろう。そう思った所で、はた、と我に返った。
「そうだ、俺に変化の姿を見せに来たという事は、何か用があったのだろう?」
「え……あ……」
「どうした? 気兼ねなく言ってみろ」
「じゅ、じゅ、十兵衛様!」
そこに割り込む声があった。ふと十兵衛が目線を上げると、そこにいたのは十兵衛を殴りつけ投獄した壮年の騎士だった。
「貴殿は……」
「フェルマン・ロイデンと申します!」
「フェルマン殿。一体どうしたんだ」
スピーを抱えたまま不思議そうに首を傾げる十兵衛に対し、フェルマンは膝をついて叩頭した。いきなり土下座をされた十兵衛は、思いもよらない事態に目を丸くする。
「この度の不始末、誠に申し訳ございませんでした! 英雄である十兵衛様の言を信じず投獄しただけにあきたらず、配下の亜人の行動すら制せず……!」
「え!? この子は亜人なのか!?」
「え!?」
「知らなかったのか!?」とフェルマン含め周囲がどよめく。渦中のスピーも驚いたように目を見開いた。
「はー……そうだったのか。ということはこの耳と尻尾は変化ではなく生まれつきなのだな?」
「は、はい……」
「名を聞いても?」
フェルマンにではなく、亜人であるスピーに直接名を聞いた十兵衛に、再度どよめきが走った。
普通、亜人に名を尋ねることはない。人ではないからだ。亜人は亜人であり、愛称があったとしてもそれは亜人の持ち主である者に尋ねて知ることになる。
それを、まるで人に対するように直接尋ねてみせた十兵衛を、エレンツィアの住民もフェルマンも信じられないものを見るような目で見つめた。
その中で、スピーは戸惑いながらも小さく「スピーと、呼ばれています」と答える。
「スピーか! 可愛らしい名だ」
「よ、よく鼻がスピスピするからと、」
「そうなのか? 今は聞こえないが」
「嬉しい時に、とくに……」
直そうと思っても直せなかった癖を名にされていたスピーは、顔を真っ赤にして項垂れる。恥ずかしくて消え入りたい気持ちだった。だが、十兵衛は気にした風もみせず、「嬉しい時にか!」と目を細める。
「ではスピーの名を呼ぶ時は、嬉しい気持ちも思い出せるのだな」
「え……」
「改めて、俺は八剣十兵衛という。狐っ子だなどと失礼な勘違いをしてしまってすまなかったな、スピー」
そう言って笑いかけた十兵衛に、スピーは身体を震わせ、ぐっと唇を嚙み締めた。
無意識に鼻がスピスピ鳴ってしまうのを、止められないままで。