78話 早朝のディーオデット伯爵家
ビオラの花に、小さな水の粒がさぁさぁと浴びせられる。銅製の立派な如雨露から注がれるそれは、ビオラ達の大事な命の水だ。
エレンツィアの中央にある教会をぐるりと囲むように植わっているビオラは、黄色や赤色、白や青など、色とりどりの色合いだ。物によっては髭の生えたおじさんのような柄もあるので、水やりを行っていた青年、ヴィオラ・ヴィオーレはクスクスと可笑しそうに目を細めながら如雨露を傾けた。
ビオラと同じ名前を持つ神官の青年の日課は、この花々に水をやる事から始まるのだ。
「今朝も良い色だねぇ」
薄紫色の癖のない短い髪に、そばかすの目立つ素朴な顔立ちながらも、にっこりと微笑む笑顔は見る者の心を穏やかにさせる。人のよさそうなヴィオラの立ち居振る舞いは、優しい人柄がにじみ出ていると教会に通う信徒達にもっぱら評判が良かった。
青と白を基調にしたこのエレンツィアの街と同じように、ヴィオラ青年が務める教会も似たような色合いで建てられている。統一感があるという点では見目美しいものであったが、それよりも色んな表情を見せる花々の方が、ヴィオラはうんと好きだった。
「おや、先生。朝も早いのに精が出なさる」
「おはようございます、アカジャお爺さん。そちらも随分お早いようで」
声をかけられヴィオラが視線を上げると、信徒のアカジャがそこに居た。三年ほど前に老衰で妻を亡くしてから、毎日教会に祈りを捧げに来ている人物だ。
埋葬方法はレヴィアルディア王国でも領によって様々あるが、ことエレンツィアにおいては散骨での埋葬が推奨されていた。
他の街のように、街の外に墓地を作り埋葬する事も可能ではあるが、万が一アンデットやレイスが発生した場合海に面したエレンツィアでは逃げ場がない。勿論、ヴィオラ含む街の神官達が埋葬するたびに導きの祈りを捧げて安全の確保はしていたものの、それでも念を押して遺体を入念に燃やし、散骨での埋葬を実行しているのだった。
そのため、ここエレンツィアでの墓参りは、散骨先のレムリア海に祈るか、教会で祈るかで二分される。アカジャは後者の人間だった。
「早朝、すんげぇ事故があったろう? あれで起きちまったわ」
「あぁ、跳ね橋の……」
パルメア大運河から支流を伸ばし、街の中へ船を引き入れる川がある。そこにかかる跳ね橋に、まだ朝日も昇らない早朝、遊覧船が衝突する大事故があった。
凄まじい轟音と共に跳ね橋が崩落し、ぶつかった遊覧船も大破に近い中破の有様だったという。その割には怪我人は少なく、重傷者もいなかったというので、これは女神様の守りがあったのだなぁとヴィオラはしみじみ感謝し、祈りを捧げていた。
「先生は現場には行ったのかい?」
「いや、先輩と一緒に出動しかけたんですが、騎士の皆さまから現場に居合わせた高位神官が対応してくれてるとお聞きしたので、結局行かなかったんですよね」
「なんだそうなのかい。どんくらい崩落してたのか知りたかったんだがよ……」
「噂では修繕に半年はかかるという見立てのようでしたよ」
「だろ? それがもう今や新品のように直ってるって話だ」
「……へ?」
「だからビフォーアフターの差を知りたかったんだが、先生が知らねぇんじゃ仕方ねぇな」
「入らせて貰うぜ~」と教会に入っていったアカジャを、ヴィオラは呆然と見送る。
街を揺るがしたあの大事故で破壊された橋がもう直ってるなど、にわかに信じられない話だ。好奇心が沸き立つ表情で目を煌めかせたヴィオラは、「アカジャお爺さんもう少しお話を――!」と言いかけた所で、はっと振り向いた。
聞きなれた馬蹄の音を耳にしたのだ。
目線の先で、坂の下から豪奢な装いの馬が魔石を使った浮き馬車を引いてやってくる。御者の上手な手綱さばきで教会へと続く道に綺麗に横づけされた馬車の前で、ヴィオラは静かに跪いた。
「相変わらず麗しくないお顔だこと」
「オデット伯爵令嬢におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
「麗しくないわ」
そちらではなく、と内心苦笑しながらも、許可を得てヴィオラは面を上げる。
装飾過多の馬車から御者の手を借りて降りてきたのは、このエレンツィアの街を統べるオデット領領主、ツィルチル・ディーオデット伯爵の娘である、マリベル・ディーオデット伯爵令嬢だった。
薄い金色の美しい髪に、白銀に紫色が滲む宝石のような瞳。目はきゅっと吊り上がりきつそうな顔立ちながらも、体の線の細さから男心に守って差し上げたいと思うような儚さがあった。――本人の性格は苛烈そのものではあったが。
「いつもはお昼過ぎに参られますのに、今日は随分お早いですね」
「やだ。貴方知らないの? 今日は私の十七歳の誕生日でしてよ? お昼から来客の対応で忙しいから今来たっていうのに!」
「それは大変失礼致しました。おめでとうございます、オデット伯爵令嬢」
「はい、どうも」
ツンッと取り付く島もない風にマリベルは顔を背ける。これはご機嫌を害してしまったようだと苦笑しつつ、「お守りの準備は出来ております」と話を変えるようにヴィオラは御者に声をかけた。
「それは有難い。運ばせて頂いても?」
「えぇ。どうぞこちらに。オデット伯爵令嬢も朝のお祈りをされて行かれますか?」
「……そうね。誕生日だもの、女神様へ感謝を捧げないと」
「こうして無事に十七歳になられたこと、きっとレナ様もお喜びになりますよ」
にっこりと笑ったヴィオラをマリベルは横目で見やると、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「一般家庭育ちの自分じゃあお嬢様の機嫌取りは難しいなぁ」と思いながらも、ヴィオラは自分の最上のもてなしの心を尽くしながら御者とマリベルを教会へと案内するのだった。
***
――同時刻、ディーオデット伯爵邸にて。
「この! 大馬鹿者!」
恰幅の良いツィルチル・ディーオデット伯爵は、側に立っていた壮年の騎士の頬を容赦なく殴りつけた。殴られた騎士――フェルマン・ロイデンは、主の気をこれ以上害さないようにわざと大きく体勢を崩して床に倒れ込む。
「申し訳ございません!」
そのまま叩頭の姿勢をとったフェルマンの頭を、ツィルチルは容赦なく踏みつけた。
「分かっているのか! あの八剣十兵衛だぞ!」
「は! カルナヴァーンを討ったかの英雄殿で……」
「そうではない! いや、そうではあるがそこじゃない!」
「【丸十字ブランド】の八剣十兵衛だったのが問題だと言っておるのだ!」
光り輝く頭頂部をがしがしと指で掻きながら、ツィルチルは顔を歪めて歯噛みした。
【丸十字ブランド】――それは、クロイス・オーウェン公爵がスポンサーについた、新しい履物を提供する新進気鋭の下駄屋だった。
だが、下駄屋といっても実際の所店の名前は存在しない。丸十字の商標がその靴に刻まれているだけだ。ただ、あのリンドブルムに引きこもってばかりのクロイス・オーウェン公爵が、その財をはたいて販売の協力を申し出たというのが、ツィルチル他、貴族達の目を大いに引いた。
駒下駄という足を外に出す履物は、艶やかな黒塗りの色合いに美しい布地の鼻緒を結ぶことで華やかさを演出する。また、クロイスは上手なことに、そこに足の爪用の「落ちづらいペディキュア」と、足を隠したい人用の「足袋」と呼ばれる二股の靴下をセットで出してきた。
湿気による水虫で苦しんでいた者達は、安価かつお洒落で症状の改善も見込める駒下駄に殺到したのである。
販売され始めてはや一か月。リンドブルムにほど近いエレンツィアの街でも、下駄を履く者は増える一方だった。
話によると、地方の出で右も左も分からない十兵衛をリンドブルムに連れてきたのは、娘のスイ・オーウェンだったという。一度スイを王都で見た事のあるツィルチルは、「あの高飛車で人嫌いの公爵令嬢が!?」と我が耳を疑った程だ。
ともあれ、これからのファッション業界に丸十字ブランドが及ぼす影響は計り知れないものがある。リンドブルム発の丸十字ブランド商品をレムリア海経由で運輸するには、エレンツィアの街を介する必要があるため、必然的に一枚噛む事の出来る状態にほくそ笑んでいたツィルチルだった――のだが、ここにきて部下の蛮行によりご破算になる可能性が出てきたのだった。
「殴ったってお前、信じられん……! はっ! 手当てはしたのか!?」
「そ、それが仲間の神官に頼むから大丈夫だと仰って」
「馬鹿者! そこもこっちで用意せんか!」
「全部後手ではないか!」と何度も踏みつけてくるツィルチルの蹴りを、フェルマンは必死に耐える。
亜人がいるからと嘲るような態度を取ったばかりに、こんな風に主に迷惑をかけてしまったのだとただただ猛省した。
だが、耐えるだけのフェルマンを気遣う者がいた。――亜人のスピーだ。
「旦那様、そ、そこら辺にしてください……。フェルマン様が死んでしまいます」
濃い黄色と白の混じるマーブル模様の髪に、頭頂部からぴょんと飛び出る大きな耳は狐にも似ている。尻から生えている尻尾も狐と同様にふっさりとしており、枯れ枝のような太腿の間へと怯えるように仕舞われていた。
汚れた麻の生地の衣服は端が破れており、解れが目立つ有様だ。緑色の目をおどおどと震わせながらも、スピーはフェルマンに寄り添うように隣に座り込んだ。
「スピー! 貴様も儂に歯向かうか!」
激高したツィルチルが、スピーの細首を掴み上げる。その首元にある金色の首輪が、少しだけ光り輝いた。それに生唾を飲み込んだスピーだったが、「命を!」と声を張り上げる。
「十兵衛様に、命を差し出します!」
「あぁ!?」
「十兵衛様は、え、英雄と称されるお方なのでしょう。でしたら、旦那様の配下である僕が責任を取って死ぬと申せば、も、もしかしたらそれ以上の事はお求めにならないかもしれません」
震えながら告げるスピーの言に、ツィルチルは黙考する。確かに、配下の命を持って贖いをすれば、それ以上を求める事は十兵衛の名を落とす事にも繋がる。
だがそれは、保身から配下の命を差し出した己にも業が返ってくる危ない賭けだった。唸り声を上げるツィルチルに、それまで呆然と静観していたフェルマンが「私が参ります!」と声を上げる。
「元はと言えば私の浅慮が招いた事。私の命を持って贖いを申し出て参ります!」
「だが儂の名が……」
「そこも私の勝手な行動という事に致しましょう! 部下が浅慮で十兵衛様を殴ってしまった事に旦那様は心を痛めており、それを見た私が自分の罪を自覚して一人で参ったという事にすれば……!」
「だ、だめです! もし十兵衛様が罪人を切って捨てるようなお方なら、フェルマン様よりいつ死んでもいい僕が……!」
「亜人の施しなど必要ない!」
「貴様ら黙れ!」
鶴の一声だった。即座に口を閉じた二人の前で、ツィルチルはスピーから手を離して腕を組んだ。
「だが良い案だ。幸いな事に、今日は娘の誕生日。祝いの席のため、食事も賓客のための綺麗どころの女も十二分に揃えておる」
「旦那様……」
「まずは貴様ら、二人で行け。竜族と自称する亜人を連れておられたとの事だが、スピーの存在を見せる事で他の亜人への忌避感が無いかも知っておきたい。それによって贈る品も考える」
「……承知しました」
「お前達がその思い込みと浅慮から突っ走って行ったと見せかけた後に、本命の使者を十兵衛殿の元に送る。二段構えだ。それならばあの愚かな賭けのデメリットも防げるだろうよ」
ほくそ笑むツィルチルに、二人は黙して跪き、深く頭を下げる。
冷酷かつ政治的手腕の長けたこの主人に逆らう気持ちなど、微塵たりともおきないのだった。