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冥王と侍【連載版】  作者: 佐藤 亘
第四章:律の管理者と死霊術師
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68話 渾身の咆吼

 忍び足で一階の船室をゆっくりと歩く。魔道具による消音魔法のおかげで衣擦れ一つ立たない状態ではあったが、それでも男はこそこそと忍ぶ動きを止めなかった。

 何せ、この部屋にはかの聖騎士、ガラドルフ・クレムがいる。大酒飲みだと聞いていたため、持ち込んだ薬の大部分は酒樽の中に入れていた。

 その甲斐もあってか、ガラドルフは高鼾をかきながら起きる様子がまったく無い。ほっと胸を撫で下ろした男は、二階へと続く階段に向かった。


 神官は毒を自らの手で解毒出来る。人の身体の隅々まで熟知している彼らは、痛みや痺れ、吐き気を伴う眩暈など、身体に出た症状を見逃さず浄化を施すのだ。だからこそ男は睡眠薬を選んだのだった。

 慣れぬ船の旅だ、抗いがたい睡魔に襲われれば、船酔いをするぐらいならと多くの人は睡眠を選ぶ。規定量以上の物を含むと吐き気を伴う代物でもあったが、それとて酔いのせいだと吐いてしまえば身体にさほどの影響も残らない。

 男の目論見通り、乗船者の全てが眠りについていた。甲板で寝ていた二人もスイに連れられて二階に上がっていたので、今頃夢の中だろうとほくそ笑んだ。



 

 木製の螺旋階段を上り二階に到着すると、お誂え向きに入口直ぐの角にターゲットが寝ていた。

 少年と少女に挟まれる形で眠り込んでいるスイを、男はまじまじと見つめる。


 髪と同じ色の長い睫は桃色に赤らんだ頬に影を落とし、潤みを帯びた艶のある唇が薄っすらと開いて静かな寝息を零していた。

 青地に白の色合いの制服は彼女の肌の殆どを隠していたが、腰元はきゅっと絞られ、メリハリの見える装いとなっている。整った美しい顔立ちは、その若さからまだまだ未成熟の少女さながらの初々しい面影を残しているが、相対するように身体の方は柔らかな女性らしいまろみを帯びていた。

 そんな彼女を今から手中に収めるのか、と思わず生唾を飲み込んで喉を鳴らす。


 殺すのではない。ただ穢せと、男の主はそう言った。リンドブルムに潜入していた仲間も、その密命を帯びている。だが、今日になって急にスイがエレンツィア行きの船に乗るという情報が入り、一番下っ端で仕事の少なかった男が急遽割り振られたのだ。

 後程エレンツィアの方で仲間が合流する手はずではあったが、逃げ場のないこの船の中で事が済むならそれに越したことはない。「上手くやれよ」と渡された睡眠薬を、期待通りに上手に使ってみせた。


 男が側に寄っても、スイだけでなく周囲の乗客はまったく目覚める気配が無い。

 ただ、長物の剣を肩にもたれさせながら寝ている剣士は少し気になった。今にも起きてきそうな姿だったからだ。だが、その剣士も注意深く見れば深い眠りに落ちている。

 まるでスイの騎士であるかの様に座りながら眠り込んでいる様に、ふっと鼻で笑う。そんな騎士様も睡眠薬の手に落ちたのだ。彼の前で主であるスイを犯せる得も言われぬシチュエーションに、股下の物が大きく膨らんだ。

 全て脱がすか、はたまた下着だけ脱がしてことに及ぶか。なんにせよあまり時間に猶予はない。

 ただ、第三者が見ても穢されたと思えるような結果に至るのが重要だった。それを脳裏に浮かべながらも、男は興奮する様に荒い息を零す。


 ――これは事故だ。皆が深い眠りについている中、悪心を抱いた乗客が眠るスイを犯した。目撃者はおらず、犯人らしき人物も見つからず、ただスイ・オーウェンが穢された事実のみが残る悲劇の事故として片付けられるのだ。


 そうして、ついに本懐を遂げるべく、四つん這いになり舌なめずりをしながら未だ男も知らぬ純潔の乙女へとその手を伸ばした――




 ――所で、男の首に白刃の切っ先が添えられた。



「……は……?」


 

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。瞬きの間に、白刃が急に現れたのである。窓から入る月光を反射して煌めく長い刀身は、男の視界の中でいやにちらついた。

 首元に添えられている白刃はその先が僅かに皮膚に刺さり、小さな痛みと共に糸のような細い血を流し始める。それはまさしく、己の首に添えられた殺意の塊だった。

 その源を辿るべく、男は息を止めながら刀身に視線を滑らせ、柄の先を見る。そこには、未だ俯き目を閉じたままの総髪の剣士が、いつの間に鞘から抜いたのか黙したまま剣を構えていた。


「ね、眠ったまま……!?」

「まさか。目を閉じていただけだ」


 ぎょっとした男の問いに、総髪の剣士――十兵衛が、ゆっくりと目を開けながら答える。とはいえ、寸前まで目を閉じたままだったのだ。彼の行った紙一重の所業に、男は背筋が凍るような思いをした。


「馬鹿な! 睡眠薬は確かに効いたはず……!」

「この船に乗ってから口にした物が、仲間が創造した水だけだったからな。そもそも飲んでいないんだ」


「船酔いが酷くて」とは十兵衛はあえて口にしなかった。口にするだけでまた吐き気をもよおしそうだったからだ。


「どう来るかと思ったが、なるほど。そういう手合いの者か」


 低い声で述べられた言葉に、男は別の意味でごくりと生唾を飲み込む。

 目を眇めて男を見やる十兵衛の瞳は、冷徹さの滲む冷えきったものだった。





 十兵衛の知る世界にもこういう手合いの者はいる。国と国との軍事同盟の締結に伴い、輿入れした姫の駕篭を狙い、殺す、もしくは犯す事で同盟自体を破綻に追い込む策がある。

 そういった策に使われる者は足の着かない野盗の類が多かったが、用意周到な状況を見るにこの男はどうやら違うようだなと十兵衛は察しをつけた。

 襲え、という単純な物ではなく、潜入し乗客を眠らせた上でことに及ぶなど、到底学の無い者が遂行出来る策ではない。つまり、それ相応の者を準備出来る人物が背景に居る事に他ならなかった。

 公爵令嬢――十兵衛の解釈する所の姫君に相当するスイに手を出し穢す事が目的とするならば、それは彼女、もしくは公爵であるクロイスに恨みがあり、その地位を(おとし)めようとする輩が存在する事に繋がる。


「彼女を穢して利を得る者か。同等の姫君か、もしくは――更に上の者か」

「――っ!」

「顔に出すぐらいならさっさと死ねばいいものを」


 それともそこまでの忠義を尽くす相手ではないのか? と男の忠誠心の薄さに眉を(しか)める。


「殺すなよ十兵衛。聞かねばならん事が山程ある」

「分かっているさ」


 眠ったふりを続けていたリンからの苦言に、十兵衛は肩を竦めた。言うや否や打刀をあっさり手放すと、男の口を覆うかのように右手で顔ごと掴み、そのままのけぞらせて後頭部を床へと叩き込んだ。

 頭からの鈍い音と共に男は呻くような声を上げると、泡を吹いて昏倒した。


「おい、我の言った事を聞いていたか?」

「聞いていたとも。死んではいない。悪夢ぐらいは見ているかもしれないが」

「あのなぁ……」

「ハーデス!」


 外で事の成り行きを見守っていたハーデスが、呼ぶ声に応じて室内へと転移する。


「なんだ」

「この男をカガイ神官長の元に連れて行ってくれないか」

「カガイの元に? 何故だ。クロイスではないのか」

「我も連れて行くならクロイスの元かと思ったが、違うのか?」


 手早く男を縛り上げていた十兵衛が、ハーデスとリンからの問いに丁寧に答えた。


「オーウェン公にも伝えるが、今じゃない。まずはカガイ神官長だ。おそらくスイ殿への急な命令に、この男の事は何かしら関与しているように俺は思う」

「まさかカガイが……?」


 青ざめたリンに、「違う違う」と十兵衛は苦笑した。


「会談の場でも仰っていたんだが、あの方は神官を殊の外大事にしておられる。おそらくカガイ神官長の方で何かしらスイ殿へ危険が及ぶ事態を知ったのかもしれない」

「……それを防ぐ一手として、私達の方にスイをやった、と」

「そういう事だ。リンドブルムではオーウェン公の手の者でスイ殿を守っておられるようだが、その守りをも危惧する事態が発生したんじゃないか?」


「だったらまずは直接カガイ神官長に送った方がいい」と断言する十兵衛に、ハーデスとリンは目を見合わせて瞬いた。


「お前、そういう事に妙に詳しいな」

「素直に感心したぞ」


 二人の真っ直ぐな賛辞に虚を突かれた十兵衛は目を丸くする。

 そもそも、十兵衛は若殿である秀治の側仕えだ。そうした政治の妙について、耳にする事は多くあった。故の経験が活きた事に、面映ゆそうにぽりぽりと頬を掻く。


「ま、まぁそういうことだ。頼んだぞハーデス」

「分かった。送り届けるだけでいいのか?」

「出来れば事の詳細を聞いて来て欲しい。まぁ直接連れて行くんだ。こちらの意図も伝わるだろうが……」

「意図?」

「一枚噛ませろ、ということだな」


 気をつけるとはクロイスに約束していたものの、本当に危険が及んでいたのなら知らせて欲しかったというのが十兵衛の思う所だ。その時間すら無かったのかも知れないが、友人であるスイに迫った危機に業腹だったのも事実である。

 変な命令を介して頼まれずとも、「守れ」と言われれば「守る」と断言出来る程には、十兵衛にとってスイは大切な友人だった。

 だからこそ「ちょっと怒ってるとでも付け加えてくれ」と告げた十兵衛に、「すごく怒っていたと伝えよう」とハーデスは口角を上げると、縛られた男を連れて転移した。


「この距離でもハーデスは転移出来るのか」


 当然のように交わされた二人のやり取りを、呆気にとられるように見ていたリンが呆然と呟く。ハーデスの本性を知らないリンにとっては信じられない存在だろうなぁと十兵衛は苦笑しながら、「存外凄い奴なんだ」とだけ端的に述べた。


「あの時点で動かなかったのなら他にはいないとは思うが、念のため俺はここで見張りを続けよう。リンは睡眠薬の入れられたと思われる飲食物を見てくれないか」

「分かった。全部手を突っ込んでくる」

「……それは……全て水になるのでは……」


 豪快すぎやしないか、と十兵衛は大きく溜息を吐いた。

 その時だ。

 船体が大きく揺れたかと思うと、ゴウゴウという大きな音を立てて窓の外の景色が凄まじい速度で変わり始めた。


「なんだ!? 何が起こってる!」


 なんとか体勢を保ちながら外を見た十兵衛に対し、リンはすぐさま窓から外に飛び出て、浮遊しながら船をぐるりと一周した。

 その中で、操舵席にいるはずの人影が無い事に気が付く。慌てて窓に張り付き中を覗き込むと、意識を失った船長が床に倒れこんでいた。


「あの馬鹿……! 乗客どころか船長まで眠らせおって!」

「リン! どうしたんだ!」


 眉を顰めたリンに、二階の窓から身体を乗り出した十兵衛の声がかかる。リンはすぐさま十兵衛の元へと飛ぶと、「船長が寝てる!」と叫んだ。


「は……!?」

「この船を操縦する者だ! そいつがあの馬鹿男の薬のせいで眠って倒れておる!」


 その言葉に、思わず真っ青になった。

 船の操舵など十兵衛は出来ない。それはリンも同じだった。だがそうこうする内にもどんどんと速度を増し、下流の方へと猛スピードで船は進む。

 この場で唯一なんとか出来そうな男は、先程カガイの元へと向かわせたばかりだ。


「ハーデスーーーー!! 早く帰ってきてくれーーーー!!」


 思わず頭を抱えた十兵衛は、星空きらめく夜空へと渾身の力で咆吼するのだった。

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