67話 不穏な気配
「十兵衛さん、アレン君!」
声に導かれるように意識を取り戻す。うっすらと瞼を開けると、困ったように笑うスイの向こうに、数多の星がきらめく夜空が広がっていた。
それを見て、ざっと血の気が下がる。
「よ、夜!?」
「はい。ぐっすり休んでおられましたよ。そのまま寝かせて差し上げたかったんですが、ここは冷えますからせめて中にと思いまして」
「い、いや、こちらこそ申し訳ない。スイ殿の警備も怠って……」
「そこは我がきちんと見ていたさ。大丈夫だとも」
側にいたリンが頷きながら答えたのに、十兵衛は礼を述べる。アレンはまだ夢見心地なのか目覚める気配がないので、十兵衛が抱き上げて船室へと連れて行く事にした。
「二階の休憩室の角を、ハーデスさんが取っていて下さったんです。ガラドルフ様は、その……」
「図体がでかいからな。下で寝ろと我が言った」
「はは……」
この中で誰よりも図体がでかいはずのリンに言われてはガラドルフも形無しだ、と十兵衛は笑う。ソファが並べられている一階の船室ではもう休息に入っている者がいるようで、多くの人が眠りについていた。
かくいうスイも相当に眠たいのか、何度も欠伸をかみ殺しながら目を擦る。
席に座り微睡んでいるガラドルフにスイはおやすみの挨拶を告げると、リンと共に二階に上がった。後ろに続くように進んだ十兵衛は、広々とスペースが取られている柔らかい床の休憩所の光景を眺め、少しだけ眉を顰めた。
休憩所では、多くの乗客が横になって眠っていた。配布された毛布を身体にかけ、新たに部屋に入ってきた十兵衛達に気づく様子も無い。寝ているからというだけではなく、気配や物音を感じて身じろぐことすら無い様子に、どこか違和感を感じたのだ。
角の方に少しだけ空けられたスペースに、スイが横たわる。その右隣にリンが、左隣に眠ったままのアレンが静かに寝かされ、その隣に十兵衛が打刀を鞘ごと腰から引き抜いて肩にもたれさせながら座り込んだ。
「十兵衛さんは、寝ないんですか……?」
「もう少ししたら寝るとも。スイ殿はゆっくり休むといい」
「はい、おやすみなさい十兵衛さん」
「おやすみ、スイ殿」
さほどの時も経たずに、スイから静かな寝息が上がる。場所は取ったと言ったものの、その場にはいなかったハーデスを十兵衛は探るように意識を外に向けた。
その読み通り、ハーデスは外にいたようだ。窓をコツン、と打刀の柄で小突くと、窓を背にハーデスが瞬時に現れた。
「魔法の類か?」
「いや? 違うだろうな」
念話による会話だった。十兵衛の意図する所を、ハーデスは容易に読み解く。眠ったかのように思われたリンも、念話を察知するや目は開けずに介入することで答えた。
「睡眠薬の類だ。サラダのドレッシングや紅茶、ジュースなど、液体に多く紛れ込んでいた」
「リンは平気だったのか」
「我は竜だぞ? 寝かせるには圧倒的に量が足りんわ」
リンの話に、十兵衛はぐっと緊張感を高めた。
公爵令嬢を外に出す事を、クロイスはずっと懸念していた。その意味を、こうも早く感じる結果に至るなど思いもしなかったのである。
「毒であればスイが自分で抜ける。ガラドルフもいるからな。だが眠らせるというのがよく分からん」
故に泳がせた、と述べたリンに、了承するように十兵衛は頷いた。
リンの言う通り、犯人の意図が読めない。わざわざ全員を寝かせて何をしたいのか。何より、本当にスイを狙ったものなのか、はたまた別の乗客を狙ったものなのかも判別がつかなかった。
「遅かれ早かれ、接触はあるだろう」
十兵衛の結論に、リンとハーデスが頷く。ハーデスは姿を消し、リンは静かに寝息を立てる事とした。
倣うように十兵衛も、瞼を閉じて俯く。だが、船酔いで見事に裏目に出た鋭敏な感覚は、損なう事なく身体に張り巡らせて時が来るのを待つのだった。
***
他の乗客と共に、一階の船室でソファに座り込んだまま寝ていた一人の男が、ふっと目を覚ました。
否、眠ったふりを続けていたのを止めたのだ。男は短い茶髪の頭をガリガリと苛立たしげに掻くと、落ちくぼんだ目でじろりと辺りを見回す。
薄目を開けて様子を窺っていた通り、ターゲットは二階の休憩室へと行ったようだった。それにしても随分時間がかかったな、と眉を顰めて歯噛みする。任務遂行における時間が予想以上に短くなったためだ。
耐性があるのか、はたまた睡眠薬入りの食事を少量しか口にしなかったからなのかは分からなかったが、ターゲットがいつまで経っても眠りにつかない事に男は相当焦れていたのである。
痩けた頬に、無精髭混じりの貧相な顔と体躯。服装だけはなんとか間に合わせで普通よりも少しいい身分の一般人を装っていた。それほどまでに今回の任務は急を要したのだ。
だが、そのおかげで一番いい仕事にありつけた、と男は口角を上げる。
――クロイス・オーウェン公爵の一人娘、スイ・オーウェン公爵令嬢を穢す事。
偉大なる御方から直接賜った命令の甘美さと僥倖に、男は思わず舌舐めずりをするのだった。