66話 船酔い組の語らい
パルメア大運河はダルメシア連峰からの山の恵みを海へと伝える、豊かな河である。川幅は広く、魚達も伸び伸びと過ごせるからか比較的大きな川魚が釣れる事でも有名だった。
エレンツィア行きの遊覧船内で振る舞われた魚料理も、パルメア大運河産のものだ。香草と共に炒められた白身魚のムニエルにはピリッと辛い黒胡椒が程良く振りかけられ、丁度良い塩梅の塩加減となっている。
付け合わせのサラダは果汁ベースのドレッシングで味付けられており、色鮮やかな葉野菜の全てが、シャキシャキと音が鳴る程新鮮だった。また、芳ばしく焼かれた塩バター味のロールパンは、おかわりが自由となっている。
それを、パンだけでも軽く十人前は食べた所で止められたハーデスは、制止に入った人物――上記の一切を食べられなかった十兵衛に、哀れむような視線を向けた。
「お前達、船に弱かったんだな」
「逆に何故平気なんだ……!」
「ほんとだよ! うぇ……」
船縁で上体をはみ出させながら項垂れる十兵衛の隣には、同じく項垂れるアレンの姿がある。
ハーデス含む六人の旅仲間の中で、十兵衛とアレンだけが殊の外船酔いに苦しんでいたのだった。
「乗り物酔いって、揺れから受ける体の情報と目から入る情報が脳で混乱して起こるものなんですよ。感覚が鋭い人程起こりやすいと聞くので、十兵衛さんや若いアレン君は特に辛いのかもしれません」
「リンドブルムで小舟に乗っていたではないか」
「これほどまでに長時間は乗っていなかったからだろう。我が輩も昔はよう吐いた!」
「吐くって言わないで……うぇええ」
「やめろアレ……ウッ」
「あーあー。ここに水を置いておくぞ、二人とも」
パルメア大運河に大惨事の汚水を垂れ流している二人の側に、リンが冷たい水を入れたコップと借り受けたピッチャーを置いた。なお、当初リンは「我が手を通せば鱗の効果で浄化されるぞ!」と受け止めようとしたのだが、全員から止められたので現在は水汲み係を拝命している。
治癒担当のスイも、背をさすってやりながら少しでも症状が軽くなるように回復の奇跡をかけていた。とはいえ、高位神官のスイといえどもそれ以上の事は出来そうにない。船酔いに限らず、乗り物酔いは慣れが一番の特効薬だからだ。
船の床に身を横たえながら遠い空を眺めるか、目を瞑るか。それが一番楽になる姿勢だと助言をして、スイは立ち上がった。
「私達が話しかけても、答えるだけでも吐き気が伴いますからね。ここはそっとしておきましょう」
「うむ。アレン、十兵衛。中から様子は見てるから、今よりヤバそうになったら手をあげい」
「わがっだ……」
「揺れが駄目なら、せめて浮かせておいてやるか」
ハーデスが権能を使って二人の体をほんの数ミリだけ船体から浮かせる。座標は船に固定してあるため、浮いたままスライドしてどこかに行く心配もない。よく見なければ気づかない程の巧みな技術で彼らを船の揺れから解放してやった男は、「そういえばフルーツもおかわり自由だった」と再び所定の席へと向かうのだった。
「よう食うな、ハーデスは……」
「大食漢のようで……」
「我も人に比べれば食う方だが、あの二人の様を見た後では食欲もわかんぞ」
破格の男の背を見送りながら、三人は苦笑しながら嘆息した。
まだまだ船の旅は長くかかる。明日の昼頃の到着までには、十兵衛達が少しでも楽しめるようになれればいいけれどと思いつつ、スイ達も船室へと戻るのだった。
寝転がって遠い空を見ればいいというスイの助言は、確かに功を奏していた。先程よりも随分と吐き気がおさまってきており、じりじりと日に焼かれる暑さの方が気になりだしている。
だが、まだまだ本調子にはほど遠い。クロイスにスイの身に危険が迫らないよう注意を払うと言った癖に、まったくままならない展開に十兵衛は深く溜息を吐いた。
その振動が伝わったのか、遠慮無く十兵衛の太腿を枕にしていたアレンが「うぇえ」と声を上げる。
「あ、すまん。不意に揺らしてしまった」
「いいよ……俺が勝手に枕にしてるだけだし……。ていうか十兵衛結構平気そうになってんじゃん」
「アレンこそ。口を開けば吐いていただろう」
「やめて。その単語聞くだけでまた出そう」
それを身に受けるのは困る、と十兵衛は素直に口を閉じた。
そのまま二人黙ってぼんやりと空を眺めていると、空に浮く丸い物が目に入った。布張りの生地が丸く円を描き、大きな箱を吊り下げた所から、更に下の方へとロープが繋がっている。
ロープの先へとゆっくり視線を向けると、遊覧船の隣を横切る貨物船があった。
「なんだ……? あの船は何か空で観察しているのか?」
「あぁ、荷物を浮かせてるんだよ」
「荷物を?」
アレンが語る所によると、空に浮いている物は気球という名がついているという。本来であれば火を燃やすことで生まれる暖かい空気を使って浮かせる乗り物なのだが、貨物船が引く気球は従来の気球では到底乗せられない程の重量の貨物を乗せていた。
「魔道具ってさ、魔石を使うわけじゃん? で、魔石のエネルギーって複雑な命令や動作が混じると、消費が激しいんだ」
「……なるほど?」
「貨物船が引いてる気球は、ただ【浮かせる】っていう指示だけを乗せた魔道具なんだ。だからエネルギーの消費が少ないんだって」
「読んだ本の例題として載ってたんだ」とアレンは得意げに鼻を擦る。
「しかし、普通に船に乗せるのでは駄目なのか?」
「パルメア大運河は川幅が広いけど、だからといってあの荷物を全部乗せる貨物船ってなると大きな船になるでしょ? そしたら他の船にも迷惑だし、何より大きすぎて船底が川底に着いちゃうかもしれない」
「あぁ……」
「そういうわけで、内陸の方ではああいう気球形式の荷運びが流行ってるんだ」
「お前の所で荷馬車がそれを担っていたのは、森があったからか」
「そういうこと! ロープが木に引っかかっちゃうからね」
商人が使っていた荷馬車も確かに浮いていたな、と記憶を辿った十兵衛が内心頷く。
そこから気球のロープが絡まり合う、所謂お見合い案件や、ロープがちぎれて飛んでいってしまった貨物を魔法使いが空を飛んで探しにいった風船事件の話などに花を咲かせる内に、十兵衛とアレンはうららかな春の陽気の中でうとうとと微睡んでいくのだった。