63話 望む者
暗い部屋だ。
壁の高い所に設置されている格子窓からの光しか頼りになるものはなく、それも日の光というよりは炎が照らす煌々とした赤いものだった。
影は濃く、照らされる物は全て真っ赤に染まっている。故に、目の前の光景が炎の灯りのせいなのか、そうではないもののせいなのか、十兵衛は一瞬判別がつかなかった。
けれど、頭に残る記憶の残滓がその正誤を判断する。
――夢だ。
十兵衛には、ただ、それだけが理解出来た。
八神城、城内奥深くの隠し部屋。逐次手入れはされているため、六畳間の畳からは真新しい藺草の香りが上る。
けれども、そんな芳しい匂いと相反する生臭いにおいが、ひどく鼻についた。畳という畳に、夥しい血が流れているからだ。
その出所へと虚ろに目をやり、ぼんやりと見つめる。
加地忠之進が死んでいた。見事な割腹だった。
一切の二心は無いと知らしめるように引きずり出された腸は、未だ鮮やかな色合いで血を滴らせている。人の腸は何度も戦場で見てきたが、親しい友の物をこうもはっきりと見ることは初めてだった。――否、見た事も無い癖に想像だけは逞しい。
一体どこの雑兵の腸を入れた? と、十兵衛は胸の内で暗い笑みを浮かべた。真実、見た事がないのだ。
見る前に別の世界へと飛んできた。最後に目にした光景は、加地がその腹に懐刀を突き刺し、横一線に斬った瞬間だ。
だから、その内から零れ出るものなどまだ見た事が無かった。それでも、きっと加地ならこうしただろうという想像の元に作られた光景に得心したのと共に、慚愧に堪えない思いを抱く。
それは、秀治に忠誠を誓った己こそが在るべき姿だったからだ。
「何故死んでいない」
割腹したまま俯いていた加地の口から、責め立てるような声色で言葉が紡がれる。
どっと脂汗が滲み出て、十兵衛は恥じ入る様に俯いた。
「それ、は……」
「何故死んでいない」
「お前が生きている限り八剣家は疑われ続けるというのに」
「殿への忠義は偽りのものであったか」
「違う!」
それだけは疑われてなるものか! と顔を上げた十兵衛を、あの日、円を囲むようにして切腹に至った侍達が一斉に虚ろな目で見つめた。
その圧の強さに、思わず言葉を失う。
「では何故生きている」
「疾く腹を切らねばならぬ身のくせに、何をのうのうと生きている」
「人助けをし、感謝を受け、笑顔を零し」
「生の謳歌を得る己は、真に侍なのか」
割いた腹から出た臓物を引きずりつつ、侍達は手を伸ばす。まったく身動きの取れない十兵衛の身体に纏わりつくようにその腕を滑らせ、呼吸が上手く出来ず喘ぐように息をするその口元を、血の帯びた指でなぞった。
知った顔だったはずの侍達の顔が、加地を残して全てが十兵衛と同じものとなる。
「それとも霊に肖る子に生と死の概念の問答も無益か」
「なぁ、八剣十兵衛よ」
「お前は何故、生きている」
『どうして、貴方が生きているの?』
――鈴の鳴るような声の発した言葉に、今度こそ十兵衛は息が止まった。
「十兵衛!!」
威厳に満ち満ちた凛とした高い声が、名を呼んだ。
その声に導かれるように意識が浮上し、同時に肺に一気に空気が入る。
「――っはぁっ! っはぁ……!」
「十兵衛! 大丈夫か!」
「……リン……」
全力疾走をした後のような荒い呼吸が収まらない。涙でも滲んでいたのか、ぼやける視界の中声のした方へと十兵衛が視線を向けると、人の形を取っている白竜のリンドブルム――リンが、寝台に上り心配そうに顔を覗き込んでいた。
「ど……して……」
「もう随分日も高いのに、お前が起きてこないからロラントが心配していてな。暇だった我が起こしに来たんだ」
「……そう、か……」
「だいじょ……いや、大丈夫じゃないな。少し待て、水を入れてやろう」
「俺はだいじょ」
「大丈夫じゃない」
「自分の顔色も分からんくせに強がるな」と眉を顰め、サイドテーブルにあった硝子のコップを手にとって魔法で冷たい水を注ぐ。
随分と身体が強張っていたのか苦労しながら身を起こした十兵衛に差し出すと、少し身体を伸ばして幼子の熱を測る母のようにその小さな手を額に当てた。
「ひどい汗だが……熱はないようだな」
「……心配してくれるのは有難いが、俺は子供じゃないぞ」
「竜族にすればすべての人は子供も同然だ。おっと、だからといってオーウェンとの関係の揚げ足は取ってくれるなよ?」
ニッと口角を上げたリンに、十兵衛は目を細める。そういう風に言えるようになったリンが、眩しかった。
リンから貰った水を口に含むと、冷たさも相まってほっと人心地つけた。無意識に力を込めていたのか、掌には自分の爪痕が深く残っている。
この所夢見は悪い方だったが、今日のは特にひどかったなと内心溜息を吐いた。
死なねばと思っている。――ずっとだ。
約束を果たし元の世界に戻り、詰られる事に苦渋を嘗めながら耐え恥を忍んで生を請い、殿のために失態を取り返すべく生きる人生を選んでも、きっとその思いは消えない。
――だって、加地達は死んだんだぞ。
何故自分が生きているのかなんて、他者に問われずとも自分が一番思っている。その深層心理の表れが夢に出て、責め立てる問答を繰り返す現状に、深く嘆息した。
分かっている事を何度も問われる事程、苦しい事はない。空になったコップを握ったまま俯き沈黙した十兵衛に、リンは気遣うようにその背を擦った。
「……病んでおるな」
「何?」
「心だ。それが夢に出る。我にも経験がある」
「…………」
「……仲間と共に死ねなかったと叫んだ、あの事か」
カッと顔が熱くなる。同時に胸中が塞ぐように苦しくなり、奥歯を強く喰いしばった。
そんな風に変化した十兵衛の様子を、痛々しいものを見るような目でリンが見つめる。だが、その労わりの視線すらも今の十兵衛にとっては厭わしいもので。
「……放っておいてくれないか」
掠れた声で紡がれた言葉に、リンは眉尻を下げた。
「十兵衛……」
「……頼む。普段のような言動が、今の俺には難しい」
「……分かった」
同様の思いをずっとしてきたリンだからこそ、十兵衛の気持ちが痛い程分かる。深く思い悩む者が自ら望まない限り、他者の言葉は届かないのだ。
どんな言葉をかけられたとてその全てが煩わしく思え、そしてそう思ってしまう自分に自己嫌悪する。だからこそ一人になりたいという十兵衛の思いを汲んだリンは、素直に頷いて身を引いた。
ただ、それでも何かをしてやりたいという気持ちは消せず、寝台から降りる前に十兵衛の頭を一撫でする。
ぎょっとする十兵衛に苦笑すると、「話したくなったら、いつでも呼んでくれ」と告げ、静かに部屋を出た。
部屋を出てリンが視線を上げると、長い廊下の先に、ハーデスが壁に凭れて立っていた。
こちらに顔を向けないまでも、黙しつつその場から立ち去らない様子から、今しがたあった出来事の察しはついているらしい。
小さく嘆息したリンはどかどかと大股でハーデスに歩み寄ると、目の前で仁王立ちしてみせた。
「おい、ハーデス。我よりも付き合いの長いお前が声をかけてやらんか」
「……こと、この件に関して私は口を出せん」
「お前が原因なのか」
「死を遮ったのがそうだというならな」
「…………」
仲間と共に死ぬはずだった十兵衛を、ハーデスが生かした。それ以上の詳しい情報は分からなかったが、二人の在り方の複雑さに思わず息を呑む。
それについての正誤も善悪も、リンには判断が出来ない。――けれど、一つだけはっきりしているものがあった。
「……お前だけは悔いるなよ、ハーデス」
目を瞠り、おもむろに視線を向けたハーデスをリンは真っ直ぐ見やる。
「その選択が正しかったかどうかなんて関係ない。ただ、お前が悔いればその瞬間に十兵衛の生きる理由が一つ失われる。それがどれほどの意味を持つか、聡いお前なら分かるだろう」
「……あぁ」
「たった一人でも、生を望む者がいる事。例え今は本人に届かずとも、ただ【在る】事実が、必ず意味を為す時がくる」
「…………」
「それにまぁ、お前達がどう悩んだとて、ここに救われた者がいるんだ」
とん、と胸に手を当て、リンは晴れやかに笑った。
その笑顔の眩しさに、ハーデスは思わず目を細める。
「ハーデスが我の結界を突破し、十兵衛が手を引いてくれた。その結果がここに在る。己が選択に迷い、悩む時が来れば、まず我を見るといい。お前達が呆れて笑う程に、救われた生を謳歌してみせようじゃないか」
失った物は多い。幸せだった時間は戻らない。それでもオーウェンが残してくれた愛の全てを受け止めようと決めたリンは、贖いの祠で塞いでいた自分すらも抱きしめて前に進むことを決めた。
命をかけて救ってくれた友がいたからだ。
その思いに応えたいとそう述べたリンの心根に、ハーデスは深く感じ入る。
「……お前が共に来てくれる事が、これ程までに心強いとはな」
「あぁ。存分に頼ってくれ」
穏やかに小さく微笑んだハーデスに、リンは胸を張って笑った。
魔石の代替エネルギーを探すという十兵衛とハーデスの旅に、リンは同行を願い出た。少しでも恩を返したかったのだ。
リンドブルムの街はすでに存分に泳ぎ、いつでも帰って来てもいいというクロイスのお墨付きも貰っている。何より、リンの竜の鱗の在り方が分水嶺となった。
竜族は鱗に魔力を溜める。長き時を生き、身体の大きな竜程魔力は高く、鱗の数は幼い頃から殆ど変わらずともその容量は大きく変わった。
魔石はエネルギーの塊だ。それは竜の鱗も同様である。果たしてそれが同じ力なのか違う物なのかはまだ判断がつかなかったが、代替エネルギーへの重要な手がかりの一つとして竜の鱗が上げられたのだった。
故に、リンは二人の旅に同行する事を決めた。竜族との接点を作るなら、己の存在が必要だと思ったのだ。
旅立ちの時は近い。三百年の時を経た世界が、果たしてどんな風に変わっているか。
期待に膨らむ胸を押さえつつ、リンはハーデスと共に十兵衛の部屋に続く扉をじっと見つめるのだった。