62話 死の律と時の律
――青い星だ。
死の律は、素直にそんな感想を抱いた。
目の前の光景を視界に入れた瞬間にそう思うのは、この星の表面積のおよそ八割が水で覆われているからに他ならない。
命があると称される種は多数存在するが、その命を生み出す星々は特に水を好んだ。豊かな生態系が生まれるからだ。
大いなる水の事を様々な言語で星々は「海」と呼び、その流れを汲んだ故か、リオランテは魂の海と呼ばれる。果たしてリオランテが先か星々の称するのが先だったかは、始まりの命に聞いてみなければ分からないなと、死の律は嘆息した。
惑星マーレは、十兵衛の住んでいた地球――似通る漢字圏の地域から持ってきた称し方だ――と非常によく似ており、大陸が二つに分かれている。
人の住むウェルリアード大陸と相対するかのように大海を挟んで在るガデリアナ大陸は、魔族の国ヨルムンガンドを有する場所だ。鳥が翼を広げたように見える二つの大陸の中央は、トルメリア平野と呼ばれる陸続きの大地があった。荒れ果てたように見えるのは、そこで幾度も戦が行われているからだった。
それと比べるとウェルリアード大陸の方は緑豊かに見えるが、ガデリアナ大陸はトルメリア平野と似たような色合いだ。土地が瘦せているのだ。そこから察せられる歴史に、死の律は不快げに目を細める。
――図られた配分だ。
星の命の営みについて、全権は星にある。
だとしてもわざと争いを煽るようなやり方をとるなど、随分と低次元だなとマーレの評価を下げた。これが最高次元領域に至った命の取る方法か、と死の律は眉を顰める。
そんな時だ。隣にもやもやと黒い煙が巻き上がり、みるみる内に死の律と似たような形を取り始めた。
「……アレ? これであってるっケ」
「手が多いな」
「ナルホド?」
歪んだ顔の頭から腕を生やした人間もどきが、笑い損ねたように唇を歪ませる。目が縦になって二つ並び、鼻の上に唇があり、下半身に足が二本あるのに胸から生えた腕の先にまた足がある。およそ人の造形とは程遠い姿だったが、死の律は大して表情を変える事なく気になった部分だけ指摘した。
それを聞いた人間もどきは、まるで粘土をこねる子供のように「こうだっケ?」と己の身体を潰す。再び煙に戻ると、今度は見目麗しい少年のような姿に変わった。
金色の癖のない肩程までの長さの髪は綺麗に切り揃えられており、眉にかかる前髪も同様の真っ直ぐさ加減だった。瞳の色も同じく金色で、人の目にしては不可思議な程の発光がある。色白の肌は何も纏わず、人で言う所の生まれたままの姿だ。
薄っぺらな胸に何もない恥部を隠そうともしない少年――実際の所性別は不明だが――を目にして片眉を上げた死の律は、手を叩いて丈の長い無地の白シャツを創造し、着せてやった。「気が利くネ」と笑った少年に、フン、と鼻で笑う。
「君ほど僕は形を取らないからさァ、分っかんないんだよネ。あ、言語はあってル?」
「あっている。形も口調も少年なのか少女なのかはわからんが」
「そこはどうでもいいヤ。で? ここの全生命体記録領域が一部消されたっテ?」
「なんでそんな面倒くさい事をするのかネェ」と頭の後ろで手を組んだ少年に、死の律は同意するように頷いた。
「一応聞くが、【時の】。ああなってはもうお前の権能でも戻らんな?」
「戻んないよォ【死の】。唯一出来るとしたラ……」
「混沌深まる律外の平行世界を探って、我らの個体記憶領域の情報と比較して修復を施すぐらいか」
「そレ。途方もない時間と労力がかかるからやりたくないネェ」
「故にもはや戻らないと同義でいいデショ」と嘆息した少年――時の律に、死の律は己の判断が正しかった事を悟り、その膨大かつ煩雑な問題を前に眉間に皺を寄せた。
律の管理者にもそれぞれ個体記憶領域は存在する。けれども、アカシックレコードはその全てを網羅するのだ。時の律が無いそこは、望めば時間的干渉を受ける事無く即座に情報が手に入る。だが、個体記憶領域はそうもいかない。人で言う所の「思い出す」という作業に、膨大な時間がかかるからだ。
と、そこで時の律は自分が呼ばれた事の意味を悟り、「うげェ、」と顔を顰めた。
「そういうことだ」
「やめテ、何も言わずに悟らせるノ」
「全部とは言わん。一部でいい。現状起こっている問題の主たる箇所のみの修復を頼む」
「話聞いてル? 十兵衛くンにも突っ込まれてたけど、そういうとこ直した方がいいヨ」
「聞いた上で言っている」
「よくないなァ、そレ」と時の律はぐったりしたように俯いた。
時の律はその名の通り、時を操る事が出来る。律の管理者は総じて時を操ることが出来るが、中でも【時の律】と称されるこの少年は、他の管理者達が出来ない領域すらその権能で成し得て見せた。
だからこそその力をよく知る死の律は、彼を呼びだしたのだ。協力を要請する死の律に、時の律は深く溜息を吐く。
そうして、それまで纏っていた和やかな空気を振り払い、管理者然とした立ち居振る舞いで死の律に相対した。
「あのサ。そんな面倒な事しなくても、無かった事に出来るじゃなイ」
表情を失くした時の律が、冷たい目で死の律を見やる。
「視点を変えるだけだヨ? 何を迷う必要があるノ?」
「…………」
鋭い指摘に、死の律は口を噤んだ。
「世界は拡散し続けル。この次元の領域においてネ。なんでか知的生命体って皆すべての事象が決まっているみたいな結論に至るけど、そうじゃなイ。必ず緩み――混沌があル。だからこそ世界は破綻しなイ。僕らのような最低限の【律】が在るのは、【世界を世界として繋ぎ止める】ためだって分かってるデショ?」
「……あぁ」
「だったら繋ぎ、見るべき視点を変えたらそれで済むって分かるよネ? ほんの一粒の砂の位置が違うだけの平行世界なんて、無限大に広がっているヨ? 道理も倫理も分かっているくせに、何故一番合理的な手段を初手に取らないのか、僕には不思議で仕方なイ」
その言葉に、死の律はぐっと唇を噛み締めた。
それはかつて、己が十兵衛とリンドブルムに吐いた言葉だったからだ。
最良を知っていてなお間違う道を選ぶ心。あの時問うたものが我が身に降りかかる苦しさに、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。
――それでも。
それでも、全てを飲み込んで死の律は凛とした目で時の律を見つめる。意志を変えない真っ直ぐなその視線の強さに、時の律は瞠目した。
「お前の言う事は分かっている。だが、違うんだ」
「……何ガ」
「それが最良で、合理的で、楽な道だ。けれども、違うんだ。その世界にいる十兵衛は、私の知る十兵衛じゃない」
「…………」
「この世界線の十兵衛だけが、私の知りたい事を求め、共に歩んでくれる者なんだ。そんな奴の前で、安易にその道を選ぶ事は私には出来ない」
「……呆れタ」
侮蔑の視線を容赦なく向ける時の律にも、死の律は怯まない。その意味も理解しているという風に容易に受け止める。
「視てたから知ってるヨ。けど、僕からすればだから何? って話だよネ。彼を振り回した責任? 共に行動したことで移った情? 何にせよそんな陳腐な話で僕が動く理由には」
「これをやろう」
「よし引き受けタ」
死の律が差し出したのは、かの日十兵衛が分け与えてくれたフォガおじさんお手製の「カロブの串焼き」だ。エネルギー還元をせず時を戻して取って置いたそれは今でも熱々の出来立てで、宇宙空間でも湯気が見えるほど温かなのは特有の結界を張ってあるからだった。
そうした小手先が器用な死の律に、時の律は敵わない。時の律が殆ど時間しか操れないのに対して、死の律は大意における「命」に関わるおおよその万象に干渉する事が出来る。死の定義が殊の外広いためだ。
故に、彼がたまにお裾分けしてくれる「味を重視する者達の食べ物」を時の律は好んでおり、目の前にぶら下げられた餌に呆気なく食いついたのだった。
「これも十兵衛が譲ってくれたからここに在るんだぞ」
「分かった分かっタ。え~旨~! 旨いの表現であってるよネ? あーもっと良い味覚とやらの身体を研究しようかナ」
「あっている。ただ、研究してもその星に生きる命に沿う身体でないと味覚に合わないぞ。十兵衛はちょっと塩辛いと言っていたからな」
「ナルホドネ~。は~、ま、しょうがなイ。頂いたからにはお礼はしないとだネ」
ぺろりと串焼きを食べきって舌なめずりをした時の律は、残った串を原子レベルに分解してからぐっと伸びをする。
「整合性の確認も入るから、どれぐらい時間がかかるか知らないヨ。十兵衛くンが生きてる間なのか、マーレが生きてる間なのか、はたまた全部が死に絶えてからか……なんにせよやるにはやるけど、【死の】が欲しい時間に間に合うかはわかんなイ」
「承知の上だ。それでも私がやるよりお前の方が格段に速い」
「言ってくれるねェ。あ~、こういう時なんて言うんだっケ? ベストを尽くす、だったかナ」
「あぁ。合っている」
「フフ。良い言葉だネ」
「前向きな言葉はハイリオーレにいい影響を与えるから、全部好きだヨ」と時の律は上手に笑った。
そうして形を崩した少年は、煙に消えながら死の律に語り掛ける。
「だけど、程々にしておきなヨ【死の】。君がそういう存在だってのは分かっているけど、肩入れしすぎる前にさっさと部下を召し上げナ」
「…………」
「僕らは【律の管理者】ダ。星の管理者ではない事を、努々忘れないようにネ」
マーレを見下ろす空間に一人残された死の律は、時の律の言葉を噛み締めるようにして黙り込む。
星とて、他の命と変わらずいつか死ぬ。故に、ハイリオーレの問題を放っておいたところで、彼方の日に霧散して何某かの者の意図は無に帰すのだ。
大局を見れば、死の律の干渉は意味の無い事なのかもしれない。何度もゼロからハイリオーレを高める事を強いられる魂があっても、時間が余分にかかるだけで必ず大いなる魂を得る道に至るからだ。
――けれど、十兵衛は言った。それは命への冒涜であると。他者から向けられる善き思いの力に至るまで努力した魂の持ち主を、その思いごと無下にする事なのだと。
だからこそいつか彼らに返すその日のために、魂の欠片を集めたい。そう願う彼の思いに、死の律として――ただのハーデスとして、共感し、尽力したいと思った。
その心が、その行動が意味のない事だなどと、ハーデスはこれっぽっちも考えなかった。それが時の律の言う所の「律の管理者足り得ない姿」だとて、それでもいいと思えた程に。
「……誰よりも死を望んだ男が、あんな約束を交わしたんだぞ」
それに応えずして何が死の律か、とハーデスは固く目を閉じる。
湧き上がる思いの熱が、仮初の胸の内であつく燃え滾るようだった。