58話 人の為に生きる者
継続的に【慈愛の息吹】の奇跡を使っているカガイを、ちらりとハーデスは横目で見やる。
ウィルとスイをバーズ平原へ送り、クロイスにその旨と共にゴーレム核の情報を伝えた後、ハーデスはカガイと二人、リンドブルムの前で黙しながら立っていた。
血の濾過装置に導く役目はウィルが果たし、後は濾過装置内の血がリンドブルムの体内に戻るのを待つばかりである。
それが終わり次第カガイが完全回復の作業に移るので、特段会話も無く過ごしていたのだった。
後ろの方ではソドム達がやんややんやと声を掛け合いながら配管の修理を進めている。ギリギリのタイミングでクロイスが現場を放棄してバーズ平原に飛んだため、わずかに汚水が漏れたらしい。
「閣下酷いー!」と泣き言を言う彼らの声に内心苦笑していると、カガイがわざとらしい咳払いをした。
「時にハーデス。君は時間魔法が扱えると聞いたのですが、それは真ですか?」
「クロイスから聞いたのか?」
その問いには黙して語らなかったカガイに、ハーデスは片眉を上げる。どうやらカガイは情報の出どころは語りたくないようだった。
特段その点について追及する気も無かったので、別に誰からでもいいか、と判じ、「そうだ」とハーデスは端的に告げる。
「それを踏まえて質問を。君は奇跡をどう思います?」
「……どう、とは」
曖昧な問いに、ハーデスは眉根を寄せる。
カガイは視線をリンドブルムに固定しながら、ゆっくりと己の意図を語った。
「奇跡は、確かに人を治癒します。仕組みを探ると、そのどれもが体内の細胞を活性化させ、自己治癒能力を高めているもののようなのです」
「…………」
「そんな細胞の活性化のためのエネルギーを、奇跡の力が補っている。けれども、失った血は? 欠損した内臓は? ……人の自己治癒能力などたかが知れている。いくら細胞を活性化させエネルギーを補った所で、普通は完全回復に至らないと私は思うのです」
「だが、お前は出来ると言ったではないか」
ハイリオーレの輝きからしても、ハーデスはカガイに一目置いている。斜に構えているように見えても、彼は数多の人々を救い感謝の思いを向けられた高名な神官なのだ。
だからこそ、まるで先に述べた完全回復が不確定であるかのように語るカガイの気持ちが、ハーデスには分からない。
怪訝な表情になるハーデスに、カガイは目を細めて「出来ますとも」と答えた。
「出来るから、不思議なのです。――故に、私は問いました」
「時間魔法を扱える君にとって、奇跡はどう思いますか、と」
はっと、ハーデスは目を瞠った。
魔法と奇跡は違うものだとスイは語っていたが、おそらくその認識に間違いがある。
否、合っていたとして、一部事情が違う場所があるのだ。それを語るカガイに、ハーデスは考え込むように顎に手を当てた。
「……確かに、欠損部位に対して一番効果的なのは、時間を戻す事だ。奇跡は神の力の現れでもあるはず。だとすれば、完全化を目指した権能の一部に時間魔法が組み込まれている事は、合理的だと私は思う」
「しかしこの世界では、奇跡と魔法は同時に扱えないとされています。星の祝福を得るか、女神の祝福を得るか、人は選択を迫られる」
「…………」
「……何故でしょうね。女神レナも、星から生まれた命であるはずなのに」
初めは星の力を用いて、女神レナはこの星に生命を生んだ。なのに何故今、星と神の力のどちらかしか、人は選べないのか。
――女神レナの権能の中にさえ、星の力は宿っているというのに。
そう語ったカガイに、ハーデスは律の管理者がアクセスできるこの次元の全生命体記録領域に意識を飛ばす。その答えが、アカシックレコード内にあると思ったからだ。
しかし、通常であれば探れば必ず出てくる情報が、一つも出てこない。
いくらかの情報は存在していたがそれも些末な物で、目当てとする情報の全てが領域内から欠けていた。
確かにマーレの担当官は先日魂の海に還したが、だとしてもこれまで記録されてきた情報の全てはアカシックレコードに残されているはずだった。
もし無いとすれば、ハーデスにとって予想だにしない事態が発生している事となる。
「……消された……!?」
「……?」
茫然と呟くハーデスに、カガイが視線を向けた。
アカシックレコードに干渉出来るのは、律の管理者か管理者の選出した不死の部下達しかいない。
その誰かが、意図的にこの星の情報を消したとしか考えられなかった。
アカシックレコード内に時間の流れは存在しない。ただただ過ぎ行く世界の記録を収めるだけの領域に、必要のない『律』だったからだ。
故に、アカシックレコードにおける時間遡行干渉は出来ない。それは、失われた情報を戻す術がない事と同義であった。
思わぬ事態に歯噛みするハーデスを、カガイは不思議そうに見つめる。
やがて諦めたように小さく嘆息したハーデスは、「仮定ではあるが、」と己の考えを語った。
「星と女神に、何かしらの齟齬が生まれたのではないか? それこそ、別の力だと第三者の意識が必要な程の齟齬が」
「在るを認めねば存在すらしない……」
「そう。模倣生物と同じ原理だ。違う力だと思われるがために、違う力として在る事が出来る。それを、星か女神のどちらかが望んだ」
「…………」
「まったく。知らねばならぬ事がお前のおかげでまた一つ増えた」
「それはそれは」
「興味を持って頂いて幸いですよ」と少しだけ嬉しそうに告げるカガイに、別の理由も含めていたハーデスは肩を竦めた。
そうこうする内に、血の濾過装置からすべての血がリンドブルムの体内へと戻る。汚染された血の濾過が、その時点で終了したのだ。
濾過装置の術式を解除したハーデスは、カガイに奇跡の全力使用を許可する。
「もう大丈夫だ。カガイ、完全回復してくれて構わない」
「分かりました」
「……で? わざわざ時間魔法の話をしたからには、まだ理由があるのだろう?」
腕を組んで口角を上げるハーデスに、カガイもにやりと目を細める。
「試してみたかった事があるんですよ。けれど、私の側にはいつも神官や神殿騎士がおりますから」
「ほう?」
「神の意図を超える事を、許すか許さまいか判じられたくはなかったので」
カガイは懐から二つのタリスマンを取り出した。
一つは血晶石のタリスマン。そしてもう一つは――魔石のタリスマンだった。
魔道具か、と哀切の目で見つめるハーデスの視線の先で、カガイは両方のタリスマンを掌に握り込む。
その手を口元に寄せるために、カガイは防護マスクを外し、汚水溜まりに跪くと神へと深い祈りを捧げた。
――我、この力を用いて汝の愛する子らを救わんとす
――我、愛を正しく用いて汝の愛する子らを救わんとす
――汝の愛する子らの嘆きを疾く打ち払い、汝の愛する子らの痛みを疾く打ち払い
――故に我、汝の愛する子らの愛する者の健やかなる命を願い
――今ここに、汝の与えたもうた力を顕現せしめん
「理論改変【女神の抱擁】! 【禁域術式・遡行の儀】!」
奇跡、【慈愛の息吹】が発動した時と同じような暖かな風と同時に、冷たく肌を刺す風が巻き起こる。
淡い緑色のエネルギーの奔流がまるで女神の大きな手のように変わりリンドブルムを包み込むのと同時に、その身体に沿うように十二針の金色の時計が現れた。
『お前……!』
絶句するリンドブルムに、巻き起こる風に前髪を揺らしながら、カガイは笑う。
神官として正しく人の為に生きるカガイは、試行錯誤の結果をこの絶技を持って示して見せた。
信仰を高め、信徒を増やし得た奇跡の力。
感謝を向けられ、名を高め得たハイリオーレの輝き。
その両方を持ってして、神の意図に僅かに干渉する形で、時間魔法に影響を与える。
故に起こり得る三百年分の完全治癒を、カガイはやってのけたのだ。
「魔力の補填には及びませんが、鱗は範疇ですよ」
『……!』
「三百年ぶりの里帰りだって、存分になさって下さい。リンドブルム」
「たった独りで、よく頑張りましたね」とカガイは語る。
その慈愛に満ちた声色に、神官長の何たるかを知ったリンドブルムとハーデスは、言葉無く畏敬の念を抱くのだった。