38話 踏み出せなかった一歩を
二人の間に、重い沈黙が流れる。
こういう時、自分はハーデスとは分かり合えないのだなと、遣る瀬無い感情と共に種の違いを強く感じた。
ハーデスは簡単に「十兵衛は失敗を認めた」と言ってのけたが、その行いがどれほど自分の精神を削ったか知らないから言えるのだと十兵衛は思う。
殿への深謝。自分の力不足への憤怒。裏切りを断行した二見家への憎悪。
複雑な感情のぶつけ先などあの場で見つけられるはずもなく、全てを飲み込んで自らの失敗とした苦渋の決断を、軽んじられるのだけは我慢ならなかった。
これ以上口を開くと余計な言葉まで発してしまいそうだと思い、十兵衛はそれ以上語らず黙するに努めた。
「……やはり、私には理解出来ん」
口火を切ったのは、ハーデスだった。
唇を引き結んで黙り込む十兵衛を見つめながら、ハーデスはゆっくりと自身の考えを述べる。
「最良を知っていてなお間違う道を選ぶ心が、どれだけ考えても理解出来ん。道理も倫理も分かっている癖に、結論を先延ばしにする意味が果たしてあるのか?」
「ハーデス……」
「だが、十兵衛。お前はそれを、理解出来るのだろう?」
その言葉に、はっと目を見開いた。
ハーデスは分かっているように小さく頷く。
「ならば良し。私に理解が出来ずとも、理解出来るお前がリンドブルムに寄り添い、ここから最良の道を選べばいい」
「……お前……」
「だからといって、私も楽な道に甘んじようとは思わん。出来る限りお前達の理解に及ぶよう、考え続けることは止めないとも」
「――感謝するぞ、十兵衛。お前が『ハーデスには分からない』と言ってくれたから、私は『分からない』を知る事が出来た」
「やはり聞かねば分からんな」と目を細め、ハーデスは特に気を害した風も見せず腕を組む。
その答えに、十兵衛は何故か涙が出そうになって、必死に奥歯を噛み締めて耐えた。
――突き放す言葉だった。
十兵衛のそれは、分からないなら放っておいてくれと、言わんばかりの拒絶だった。
にも拘わらず、ハーデスは素直に受け止め、尊重してくれたのだ。
自分は未だ理解が出来ないけれど、お前が理解出来るならそれでいいと。それは、必ずしも皆が皆同じ価値観を持ち得るわけではない事を、言外に示していた。
その上でなお歩み寄る事を止めないと宣言したハーデスに、十兵衛は頭が下がる思いだった。
考えを否定されるのは、腹立たしい事だ。
歩んできた人生で得た物全てを、否定されるような気持ちになるからだ。
けれど、何よりも大切な事を、律の管理者は知っていた。
種の違いも個の違いも当たり前の事で、それでもなお語り合う事こそ、互いの理解を深める一助になるということを。
――こんな狭量で矮小な存在が、これから神を目指すのか。
自嘲を覆い隠すように、十兵衛は目を伏せて俯く。
そうしてリンドブルムへ振り返り、決意を込めてこう告げた。
「探してみても、いいでしょうか」
『…………?』
「あなたが、これ以上贖わなくとも良い方法を」
『っ……! それは……』
「三百年前に踏み出せなかった、勇気ある一歩を。――貴方の歩みの傍らに、必ず私が付き添います」
「どうか、考えて頂けないでしょうか」
リンドブルムは、眦を真っ赤に染めて涙を零す。
爛れた皮膚に滴る涙の熱が、絶え間なく痛みを招いても気にもとまらない程に。
喉からせり上がる熱い何かが、罪に溺れる竜の言葉を、消え入りそうな音と共に引きずり出した。
『――頼む』、と。
ただ、その一言を。
***
「結局、実働はお前に任せる事になってすまない」
巨大濾過装置の前で引き上げた街灯にもたれながら、十兵衛は嘆息した。
リンドブルムの懸念を聞いた二人は、オーウェンの濾過装置の解析をしに戻ったのだ。
そんな最中の十兵衛の一言に、「役目というものだ」とハーデスは口角を上げる。
「お前が言ったんじゃないか。人には役目というものがあるのだと。出来る者が役目を果たすのは、当たり前の事なのだろう?」
「……お前、よく覚えてるな」
「良い生徒だろう」
「何が生徒だ」と恥ずかしくなって、十兵衛がそっぽを向く。
その様子を鼻で笑ったハーデスは、濾過装置に設置されていた魔法術式を解析し、【模倣】の魔法で手の上に再現してみせた。
「リンドブルムは、想定以上の人口の増加に濾過装置が耐えうるかを心配していた。もし今リンドブルムが受けている汚水を濾過装置へと戻したとして、下流に影響は出ないかと」
「……いけそうか?」
「いけるもなにも」
ふっと、ハーデスが慈しむように目を細める。
「完璧な仕事だ。初代オーウェンは、真実、リンドブルムとの約束を守ったのさ。千年先でも、万年先でも、リンドブルムがこの街に来て水で遊んでも問題のない、究極の永久機関を」
「…………!」
「自分が死んだ後も遠慮なく来られるようにと願った夢は、最初から叶えられていたんだ。偉大なるオーウェンの、その手によって」
ハーデスの右手の上で光り輝く術式を、万感の思いを込めて十兵衛は見つめる。
――それはまさしく、三百年を超えてなお色褪せない、目に見える愛の形だった。