35話 汚水に浸りし者の名を
転移で降り立った先は、膝下程の浅い水位の汚水で満たされた場所だった。
肥溜めの中は嫌だと言ったじゃないかと内心眉根を寄せた十兵衛も、表情には出さず警戒を怠らないように辺りを見回す。
立った場所は上階層で見た水路の小規模な物のようだった。
後ろを振り返れば闇が深くて見えないものの下層に落ちる水の音が聞こえ、前を見れば少し先の方にほのかな光を放つ開けた空間が見えた。
この位置では奥まで見えないが、近づけば全容も分かるだろう。そう思い歩みを進めようとした十兵衛の肩を、ハーデスが少しだけ力を入れて掴んだ。
――十兵衛、あの先にいる。
肩に触れている手から、ハーデスの念話が繋がる。
小さく頷いた十兵衛は、なるべく音を立てないようすり足で移動した。
街灯は横に倒して宙に浮かせて放置し、壁沿いに歩きながらこっそりと内部の様子を伺う。
そこで見た光景に、十兵衛は思わず息を呑んだ。
――そこには確かに、竜がいた。
浅い汚水の中に身を伏せ、排水管から流れ落ちる汚水を身に受けながら、体を丸めるように眠る竜がいたのだ。
全長はおよそ馬が十頭から十五頭程の大きさで、頭からねじれたような大きな角が生えている。
目は伏せられ、尾は体を沿うように置かれていたが、ぴくりとも動く様子がない。
長い鬣は頭頂部から背中の方まで生えていたが、茶色や赤に染まる色の中に、時折白いものが見えた。
何より目をひいたのは、その身体のどこもかしこも痛ましい程の怪我を負っていたことだった。
鱗が剥がれ落ち、所々赤黒く染まった皮膚がじゅくじゅくと膿んでいる。
唯一残っている鱗は足の一部に散見されたが、真っ白な鱗にヒビが入り、十兵衛の見つめる先でパキリと割れた。
それが汚水の中に落ちると、淡い光を放ち始める。
すると、汚水と思われていた水が途端に透明度を取り戻し、辺りを覆っていた臭気さえ取り払って清涼な水を水路へと流していった。
それでもすぐに上から流れ落ちる汚水が透明さを覆い隠すように広がり、やがて先ほどまでの濁った汚水溜まりへと戻っていく。
――これは、なんだ。
目の前の信じられない光景を前に、言葉が出ない。
ハーデスも同じなのか、目を見開いたまま絶句したように竜を見つめていた。
何故竜が汚水を受けている。何故、竜の鱗が水を清める。
ハーデスが言っていた古代の知恵で作られた濾過装置は、きちんと働いていたのではないのか。
視界に入る情報と知り得た話の整合性が取れず、十兵衛は混乱したまままったく身動きが取れなかった。
そこに、穏やかな声色で問いかける言葉があった。
『――我の阻害結界を突破したのか、人の子よ』
はっと目を見張った十兵衛は、竜の顔を見つめる。
だが、竜は変わらず目を伏せたままで、口も動かさずに問いかけを続けた。
『よもや、鱗尽きる寸前の身で、人と相まみえるはめになろうとは。……神はよほど我の行いをお怒りのようだ』
「……あなたは……」
『この穢れた竜に名乗らせるか』
震えるような声色に、十兵衛は唇を引き結ぶ。
しかし、竜はしばし沈黙すると、『それも天命なのかもしれん』と呟き、片眼だけをうっすらと開けた。
そうして覗いた金色の目と、十兵衛の視線が交わされる。
『我はリンドブルム。水を愛し、水を軽んじた、不届き者の竜の名よ』