32話 律の祝福
「……この服は、濡れると脱ぎ辛いものなのだなぁ」
苦労してブーツを脱いだ十兵衛は、水路脇の道に腰かけながら中に入った水を流した。
次元優位を取り戻したおかげか、普通なら死ぬ高さから水に叩きつけられたものの大した怪我は無かった。腹から打ったので少々腹部は痛んだが、まだ我慢できる範囲である。怖ろしい恩恵だと我が身のことながらぞっとしつつも、今度こそ安堵の息を吐いた。
次元優位を老婆に返すと願うと、冴え渡るような感覚はすぐに無くなった。意識一つで変えられるように仕組んでくれたハーデスに、ここだけは感謝だなと内心独り言ちる。
ともあれ、ときょろりと辺りを見回す。
落ちた所は歩けるような場所がなく、あれから随分流されてしまっていた。
ようやく見つけた陸地に上り一息ついたものの、明かりも無くほぼ真っ暗である。
時折光があると思われる場所は、網格子の排水口からのもののようで、それも高い場所にあるため大した光源にはならなかった。
「……まぁ、その内ハーデスが迎えに来てくれるだろう」
何せあの男は、寿命も見えるし転移も出来る。その事実を知っているせいか、十兵衛に大した危機感は無かった。幸い打刀も装備も欠ける事なく持っており、サイドバッグに入れていた魔石も失っていない。五体満足でいるのだからなんとかなるだろうとあっけらかんと思いつつ、十兵衛はブーツを履き直して立ち上がった。
視界が非常に悪いため、壁に手を当てながら歩き始める。人が歩ける場所があるのなら、きっと上へ辿り着く道もあるだろうと考えたのだ。
クロイスがハーデスに見せたい物があると連れて行った手前、戻りがいつになるか分からない。故に、出来るだけのことはしておこうと思った結果だった。例え無駄足だったとしても、必ずハーデスが見つけてくれると十兵衛は信じていた。
――そこまで考えて、よほど自分はハーデス頼みだなと苦笑する。
切腹を遮り、勝手に巻き込んで異世界にまで自分を連れてきた、超常の存在。
腹立たしい事は数多くあれど、それでもハーデスが怒る原因について共感を覚えてしまったのは、自分が武士道を極める侍だからか、とあの時思った。
生まれも育ちも、存在自体も違うのに、どうしてか似通る物を感じてしまう。
一つの理解が凝り固まった先入観を紐解くきっかけとなり、ハーデスの死の律としての在り方を考えるようになってしまった。
――命の尊厳。生きた証。
どんな者であれ、それを失わせたくないという強い思い。
自分でさえ命のやり取りをした相手に思うのだから、全ての死を司るハーデスにとっては、一体どれほどの潭思があることだろう。
そう考えて、十兵衛は内心溜息を吐いた。
――あの在り方は、辛かろうよ。
ハーデスと知り合ってしばらく経つが、ハーデスは本人が語った以上に感受性の豊かな男だった。超常の存在故なのか、細々とした小さな命に至るまで慈しむ心を感じる。
ハーデスが宙に浮きがちなのも、その足元に生きる命があるからだと気づいたのは、一体いつの事だったか。
切腹を遮った男に対して、同情も何もないだろうがと思いつつも、十兵衛は嘆息するのを抑えきれなかった。
その時だ。
「十兵衛!」
背後から、丁度思い浮かべていた男の声が聞こえる。
「ハーデ、」
「十兵衛! 怪我は無いか!」
もう来たのか! と思うやいなや今度は前から両肩を掴まれたので、「最初から前に出ろお前!」と驚きながら罵った。
「怪我は!?」
「無い!」
「無いわけあるか!」
「え!? い、いや、無い! 無いとも!」
「嘘をつけ! あの高さだぞ!」
あの井戸の深さを鑑みて、ハーデスは心配しているようだった。
確かに普通の人間は死ぬなぁと思いながら、「いや、本当に大丈夫なんだ」と目の前の男を落ち着かせる。
「肉体への次元優位を一瞬取り戻した。御母堂には悪いと思ったが緊急事態だったんでな」
「次元優位を……」
その言葉を聞いて、ハーデスは長い長い溜息を吐いて片手で顔を覆った。
それまで見た事が無い程安堵している様に、十兵衛は驚きながら目を瞬かせる。
「……そんなに心配せずとも、寿命でないなら死なないんだろう? 俺は」
「死なないから心配していたんだ、馬鹿者……」
震えるように吐かれた呟きに、十兵衛は心底驚く。
自分が思った以上に、ハーデスが今回の件について意気消沈していたのだ。
「どうしたんだお前、らしくもない」
「……クロイスに叱られた」
「オーウェン公に?」
「なんでまた、」ときょとんとする十兵衛に、ハーデスはぽつぽつと語る。
「私の問いは、お前に惨苦を負わせても遂げなければいけない物なのかと」
「…………」
「分かっていた。けれど、芯まで理解が及んでなかった。いざお前が自死を選びたくなる程の怪我を負いかけるその時まで、私は解せていなかったんだ。……死よりも辛い痛みを負うのは、お前だということを」
「……ハーデス……」
猛省しているのか顔も上げられないハーデスを見ながら、十兵衛は困ったように眉尻を下げた。
ハーデスが祝福だという物を、十兵衛は呪いだと言った。その意味を、ようやく身に染みて感じる事態になったらしい。
それにしたって傷つきすぎだと思いながら、十兵衛は肩に置かれた手に手を重ねた。
「お前、分かってないな」
「……?」
「俺は今だって、死ぬより辛い」
はっと顔を上げるハーデスに、目の前で十兵衛は静かに笑みを浮かべる。
「侍として、皆と死ねなかった。それをずっと引きずって生きる事がどれ程辛いか、お前には分かるまいよ」
「十兵衛……」
「だがなぁ、」
震える瞳を真っ直ぐ見つめてやりながら、十兵衛は重ねた手に力を込めた。
「あの時が俺の寿命では無かったのだろう? ……であればきっと、生き残る未来もあったのかもしれない。そうしたら、お前と出会わなかったとてこの気持ちを持ち続ける今に繋がっただろうよ」
「…………」
「それに、お前がかけた祝福が俺を助け、お前が教えた恩恵が俺を救った。故に俺は日本で生きてる時に見られなかった光景を、たくさん目にする機会を得られたんだ」
「――だから、ほんの少しはお前に感謝もしているんだぞ、ハーデス」
――何も言葉が出ないのか、唇を震わせてハーデスは俯く。
何度も何度も口を開きかけて、ようやく出た言葉が、「あれは、呪いだ」と悔いるもので。
そんな掠れた声で呟かれた懺悔に、「祝福だとも」と十兵衛は言った。
「他者の痛みを思って泣きそうになってるお前の術が、呪いなわけがないだろう?」
「死の律のくせに、そんな事も分からないのだなぁ」と笑いながら、十兵衛は肩を震わせるハーデスの背を、優しく叩いてやるのだった。
***
少し時間を置いてハーデスが落ち着いた頃、「そろそろ上へ戻ろうか」と十兵衛は促した。
「オーウェン公が心配されているだろう。それに、突き飛ばしてしまったソドム殿とロラント殿にも謝らねば」
「お前のおかげで大事に至らなかった。謝る必要はないだろうに」
「それでもだ。結構な力で突いてしまったからな」
「何よりロラント殿には他にも謝らなければいけないことが……」と十兵衛は眉根を寄せる。
それを不思議そうに見やったハーデスは、「ともかく戻るか」と周囲を見回した所で、急に固まった。
「なんだ……?」
「どうした、ハーデス」
目をこらすようにハーデスは一点を見つめ、今度は十兵衛を見やる。そうしてもう一度元の場所を見つめ直すと、「寿命が見える」と呟いた。
「ネズミでもいるのか? それとも人か?」
「桁が違う。お前の千倍以上だ」
「せんば……!?」
驚愕の表情を浮かべた十兵衛は、ハーデスが見つめる方角へと視線を向けた。
「まてまてまて。そんな存在、俺の知る限り一つしかないぞ」
「いや、私もまさかとは思ったんだが、間違いない」
「――この地下水路に、竜がいるのか!?」