16話 旅の始まり
荷台の縁に肘を置きながら、十兵衛はゆっくりと変わりゆく外の風景を眺める。
騎乗している時よりは比較的穏やかな風が後れ毛を擽るように靡かせ、あまりの心地よさに目を細めた。
「この馬車というのは、とてもいいな。うっかり眠ってしまいそうだ」
その言葉に、御者を務める行商人が嬉しそうに笑って振り返った。
「そうでしょう旦那。こいつは魔石で地面から浮かせてますからね。安物馬車とは違って揺れが無いから、赤ん坊だってすぐ寝ちまう」
行商人が自慢する馬車は、確かに地面から馬の脚分の高さへ浮いていた。
車輪は一応ついているものの、使用されないため大地から水平に装着されており、聞くところによれば「魔道具が故障した時の保険だ」とのことだった。
「壊れ物を運ぶのにも適してますよね」と補足したのは、スイだった。
「そういえば、十兵衛さんのご出身の所には馬車は無かったんですか?」
向かい合わせで座っていたスイからの質問に、十兵衛は「そうですね」と軽く頷く。
「山が多い所で、人が運ぶ駕篭の方が一般的でした。都は道が広いから牛車もあるようですが、そもそも馬が貴重だったので馬車は無かったかと」
「馬が貴重……そんなところもあったんですね」
「平野探せばいくらでも走ってるけどなぁ」
「それは羨ましい。あと、大きさにも驚きましたね。スイ殿が連れてきた馬を見た時は、実はちょっと腰が引けました」
「その割には颯爽と乗ってらっしゃいましたよ。……それはそうとして、その敬語、まだ取れないんですか?」
むぅ、と子供のようにスイは頬を膨らませる。
十兵衛としては尼僧に対する常からの丁寧な言動を心がけていただけなのだが、スイにとっては不満らしい。村を出る時から口を酸っぱくしながら言われていたことを思い出し、困ったように頭を掻いた。
「善処しま……しよう、スイ殿」
「はい。善処してください。あと、ハーデスさんはやっぱり乗らないんですか?」
馬車から身を乗り出し、スイが屋根の上で浮いているハーデスに声をかける。
むっつりとした不機嫌な顔で、眉間に皺を寄せたハーデスが、「乗らん」と端的に言い返した。
残念そうに溜息を吐くスイに、「気にしないでおこう」と十兵衛が軽い調子で声をかける。
魔石を見た時から、ハーデスは様子がおかしくなったのだ。ハーデスはハーデスなりの考えがあるのだろうと思いつつ、十兵衛は再び外の景色を眺めた。
ロキート村での細々とした手伝いを終えた後、十兵衛達はアイルークを連れてカルド村へ戻る事になった。
村人達にはいたく感謝され、断っても断ってもお礼の品々や金品をやたらと渡された。結果、馬に積めないからとハーデスが荷運びをする事となった。
巨大な風呂敷包みを抱えながら飛ぶはめになったハーデスは、「死の律に荷物運びをさせるとか本気かお前」と、心の底から十兵衛に呆れ果てていた。
そうは言っても使えるものは使わなければならない、と十兵衛は思う。自分達がこの品々を使えなくても、アイルークの、ひいてはアレンの生活の助けになるのなら願ってもないことなので、「頑張って運んでくれ」とにこやかに笑ったのだった。
そんなお礼の品の中で、一つ桁外れの高級品があった。――カルナヴァーンの魔石だ。
魔石は両手で抱えるような大きさで、紫水晶のように深い色合いをしていた。
村人曰く、これ一つで小さな国が出来る程の金を手に入れられるという。
であればロキート村の復興のために使ってくれと十兵衛は固辞したが、村人達はがんとして首を縦に振らなかった。
「我々は身の丈にあった生活でいいのです。何より、私達は自分達が出来なかった事を貴方に押し付け、酷く傷つけた。こんなお礼では足りないくらいだ」
十兵衛が十二人――自然死したライラを除けば十一人――もの命を取る結果になった事を、村人達は悔やんでいたのだ。
「本当に、お辛い役目をありがとうございました」と頭を下げられ、何も言えなくなった十兵衛は頷くことしか出来なかった。
――その時だ。ハーデスの気配が、一気に変わったのは。
「……なんだそれは」
魔石を見るや、憤ったかのようにハーデスの怒気が膨れ上がる。怯えるように後ずさったスイや村人達を庇うように立ち、十兵衛が「どうした」と尋ねた。
「何故ハイリオーレがそんな形になっている」
「ハイリオーレ?」
眉を顰める十兵衛に、ハーデスは一瞬口を開こうとして、止めた。数秒程逡巡し、スイに視線を向ける。
「この世界ではこれが一般的なのか」
問われたスイは、生唾を飲み込んで頷いた。
「はい。魔物は皆死ぬと身体が消滅し、この魔石が残ります。強大な魔物程大きな魔石が残りやすいです」
「小さな国が出来る程の金が手に入ると言ったな。これを利用した産業が成り立っているのか」
「えっと……はい。魔道具と呼ばれる物に使われたり、魔法使いが自身の魔力を高めるために吸収したりして」
「なんだと!?」
ハーデスは怒鳴った。怒髪天を衝く様に、スイ達がびくりと身を竦める。
間に立っていた十兵衛は即座にハーデスの顎を掴むと、強制的に自分の方へと向けさせた。
「落ち着け、ハーデス。お前が怒る理由は分からんが、怒る相手は間違っているだろう」
「……!」
十兵衛の言葉に、ハーデスの目から怒りの色が消える。手を払い、深く溜息を吐くと「すまん」と謝った。
「カルド村に着いたら、一度私は仕事に戻る」
「分かった。待っている」
あっさりとそう言った十兵衛に、ハーデスは虚を突かれたように目を瞬かせた。
「先にどこぞへ神の成り方でも探しに行ったっていいだろうに」と内心で思いつつも、その在り様がどうにもむず痒い。ハーデスは困ったように苦笑すると、「了解だ」と頷いた。
ロキート村からカルド村への道中は、特段事件も無く平和に終わった。
村に着くやアイルークと再会できたアレンに涙声で感謝を述べられ、カルナヴァーンを討った英雄だなんだと村長のオルに囃し立てられ、その日はちょっとした宴会になった。
ハーデスは荷物を下ろすとすぐに姿を消した。そのため、「魔法使い様とお話出来なかった」と嘆くカルド村の村人達の様子に、実は魔法使いではないと知るスイと十兵衛はほっと胸を撫で下ろすのだった。
ロキート村で貰った品々は、この先で必要になるだろうほんのちょっとの金と服が仕立てられそうな布だけ貰って、アイルークとスイに全て渡した。
魔石は受け取って貰えず十兵衛が持つこととなったが、さて入れ物をどうするかという段階で、アレンがおずおずと前に出た。
はじめに着ていた着物と半分だけの具足、そして魔石が入れられそうな大きく丈夫な背負い鞄を、アレンが貯めていた小遣いをはたいて買ったらしい。
そんな気持ちのこもったプレゼントをされ、十兵衛は感動してちょっと泣いた。
「大切にするよ」と心から礼を述べた十兵衛に、照れ臭そうにアレンは笑ったのだった。
ハーデスが戻ってきたのは、次の日の明け方だった。
村長の家の客間に一晩泊まらせて貰っていた十兵衛は、寝台の上でハーデスが浮いているのを寝起きざまに見て、一瞬悲鳴を上げそうになった。
「幽霊かと思った」と驚きで激しくなった動悸を沈めながら言う十兵衛に、ハーデスはフン、と鼻で笑う。
「で、怒りの理由は解決したのか」
「何も。マーレが応答しない」
マーレ、と復唱するように呟く。
「この星の名だ。通常律の者が来れば星が形を取って来るはずなんだ。はじめの夜の時点で違和感を感じていたが……」
「ほ、星が挨拶に来るのか、お前に」
「来る。私は死の律だぞ。昨日の魂の送還なんて私の力の行使だ。これで気づかないなら何か問題が発生していると言ってもおかしくない」
あまりにも壮大な話に頭が着いていかなかったが、とりあえずハーデスにとって異常事態であることは分かったので、十兵衛は身を起こし身なりを整え寝台の上で正座した。
「それに加えてあの魔石だ。あんなもの、この世に存在してはいけないことなどマーレだって分かっているだろうに、産業が興る程放置している」
「……そういう場合はどうするんだ」
「調査する。然る後、律の権能で正しい在り方へ戻す」
「調査はお前がするのか?」
言うなれば、ハーデスは大いなる存在の中の殿のようなものではと十兵衛は思っていた。故に、調査に赴く部下が他にいるのではと考えたのだ。
その認識は正しかったようで、ハーデスも「通常は部下がする」と嘆息する。
「だが、今回は私がするしかあるまい」
「人手が足りないのか?」
「足りない、というより足らなくなった」
「マーレの担当官を、先日この手で還したからな」
――思わず、息を呑んだ。
不死の者さえ死を選ぶ。そんな事が、ほんの少し前にあったばかりだったのだ。
だからこの星だったのか、と十兵衛は得心した。
マーレの担当官が死を望み、ハーデスはそれを受け入れた。その矢先に、どういう力か分からないが、切腹する寸前の十兵衛を見つけたのだろう。
別れは寂しいと告げていたかの日のハーデスを思い出し、無意識に拳を握り締めた。
「つぶさに調べねばならん。久方ぶりの現地調査だ」
「お前自身の役目は大丈夫なのか」
「ああ。ここにいる私は私の中の一部だからな。多少のんびり調査に励もうがなんの問題もない」
私の中の一部ってなんだと理解しきれない内容に疑問を持ちつつも、とりあえずハーデスが星を調査するという点にだけ十兵衛は焦点を当て、「承知した」と頷いた。
「どちらにせよ、俺がこの世界で一番高位の神となるのに、色々調べねばならないからな。結局は星を巡るはめになっただろう」
「……思っていたのだが、」
ハーデスが首を傾げて十兵衛に問う。
「お前、何故神になる事をすんなり受け入れた。なれないとは思わなかったのか」
その質問にきょとんと十兵衛は目を丸くすると、「そうさなぁ」と真面目な話を聞く姿勢から一転、胡坐をかいて肘をついた。
「俺の国にいるんだ。人から神になった者が」
「……菅原道真か」
「まぁ……道真公もそうだが、あれはまた違うからなぁ」
「歴史的偉業を成したものが神になるんだよ」と十兵衛は語る。
中臣鎌足、坂上田村麻呂、安倍晴明、源義経――。悪しき力をおさめるために祀った例では、平将門や菅原道真など、十兵衛が知る限りでも多くの人間が神格化されていた。
「そういった前例があったから、頭から無理だとは言わなかっただけだ」
「……なるほどな」
「あとはまぁ、切腹出来ない身なら、無理難題でも死に物狂いでこなして、殿に直接謝罪したいと思ってな」
達観するように笑う十兵衛に、ハーデスは眉根を寄せる。
「その結果切腹を命じられても、微塵も後悔はせんよ」
「…………」
苦虫を嚙み潰したような顔で、ハーデスが黙り込む。ゆっくりと宙に浮いていた身体を下ろし寝台に座ると、真正面から十兵衛を見つめた。
「死ぬために生きるな、十兵衛」
「……可笑しな事を言うな、死の律が」
すとんと十兵衛は表情を無くす。
「命は須らく死に帰結する。そうだろう」
「ああそうだとも。だが、どう生きるかは自由だ」
「謳歌せよ、十兵衛。どんな死に方をしたとて、お前の生きた証が失われることはないのだから」
「生きた証が失われる事はない」とは、どういう事なのだろうと考える。
緩やかな風を受けながら今朝の事に思いを馳せていた十兵衛は、痛みを堪えるようなハーデスの表情も併せて思い出し、何故だかばつが悪い気持ちになった。
結局あれからひとまずは世界を見て回る結果に至り、はじめの足掛かりとしてスイの都市への帰途に同行することとなった。
道中の移動は、村長へロキート村の情報をもたらした行商人が買って出た。曰く、仲間は助からなかったが行商先を救ってくれたお礼らしい。「ちょうど都市に戻る所だったから、ついでに乗っていってくれ」という言葉に、十兵衛達は甘えさせて貰うことになったのだ。
「大都市リンドブルムか……」
京の都でさえ行った事がない十兵衛にとって、都市とは未知の場所である。
とりあえず思考を過去から未来へと切り替え、まだ見ぬ地へと期待を寄せるのだった。