幕間1-2 騒乱のトルメリア
魔族の国ヨルムンガンドと、人の国レヴィアルディア王国が唯一陸続きになっている場所、トルメリア平野は、歴史上もっとも長く戦が続く戦場である。
王都レヴィアタンより遠く東に位置するヘルム砦。それに相対するかのように建てられた、魔族のルタザール砦。
平野を挟んで双方睨み合いが続き、いくらか衝突も起こり合ったそこは今、かつてない状況に騒然としていた。
「アンバー将軍閣下! 戦況の報告に上がりました!」
ヘルム砦で一番高い望楼で戦場を見ていた王国騎士、ギルベルト・アンバーは、伝令役の騎士に「あれの事だろう」と顎先で示した。
「魔物の六割が急に倒れた。なんの予兆も無しにだ」
ギルベルトの指した先では、急に仲間が倒れて右往左往する魔族と、それを追う王国騎士達で酷い乱戦状態になっていた。
本当に急な出来事だった。明け方から偵察の魔物がいくらか空を飛んできており、これは久しぶりにやり合うかもしれないなと予測は立てていたのだ。
朝日が十分に昇った頃戦いの火ぶたが切って落とされ、両軍共一切の隙を見せない接戦が長く続いた。
――その矢先の事だ。
魔王軍の実に六割にもあたる魔物が、急に地に伏したのだ。
まるで糸が切れたように倒れ伏した様に動揺したのは、人も魔物も同じだった。戦場は一気に大混乱に陥った。
とはいえ、指揮官の指示を聞かず功を急いている騎士達は頂けない。あれは皆罰則だなと、戦旗を眺めながらギルベルトは各隊の状況を記憶した。
「は、はい。魔王軍は戦線を大きく崩し一時退却。トロイト様が背後より打って出るべきだと進言しております」
「それなぁ……」
顎髭をざらりと撫でながら、ギルベルトは眉間に皺を寄せる。
王国一の剣士としての勘は、「やめておけ」と告げていた。例えこれが好機としても、未知の事象を無視して目先の功に飛びつくのは宜しくない。倒れたのは魔物だったが、これが逆に人間に起こるとも限らないのだ。
口だけ達者なトロイトに後で何か言われるかもしれないが、ここは勘に従ってやめておくべきだろうとギルベルトは胸の内で結論づけた。
「許可しない、と告げておけ。それから全軍撤退だ。皆を砦の中にいれろ」
「て、撤退でありますか」
「ああ、撤退だ。好機と見るのは勝手だが、あの現象がいつこっちに起こるかも分からん。砦内で起これば戦闘不能の兵の数も隠せようが、平野でああも倒れられたら好機は今ですと示すようなものだ」
「しかし、であればこちらの軍も同じ事では……!」
「馬鹿を言え」
「七閃将の死霊術師、エルミナがいるんだぞ」
その言葉を聞き、伝令役は目を瞠るとすぐに敬礼、「全軍撤退の命、承りました」とその場を後にした。
戦場における死霊術師は、非常に厄介な存在だった。常であれば神官の祈りで魂を黄泉へと導き、魂と肉体を離す事でアンデッド化を防げるが、戦場では満足に神官の祈りを届けられない。
死者がアンデッドとなるには数日を要するとはいえ、それまでに前線を押し上げ拠点を作り、神官が危険なく祈りを捧げられるようにするのは非常に難しいことだった。
アンデッドは生者を襲う。理性を失った彼らは、生者に満ちている精気に釣られ、よりよい身体を得ようとするため容赦がなかった。
そこに死霊術師の存在は非常に頂けない。死霊術師はこちらが失った兵を自分の兵力に変える事が出来る、戦場において禁じ手のような存在だった。
七閃将のエルミナは、死霊術師の筆頭格だ。半径二千ミールは彼女の魔法行使範囲だと言われており、そこで死んだ者は一日と経たず須らく彼女の配下となる。
そんな彼女をこのトルメリア平野の戦場に配置したのだから、魔王は本気でこちらを取りに来る気だなと、朝方は思ったものだとギルベルトは嘆息した。
「そもそも、もしあれが死んだと仮定して、何故魔石化しない……?」
戦場で未だ倒れ伏している魔物達を見ながら、怪訝そうに眉を顰める。
魔物は人とは違い、死ぬと身体を失って魔石を落とす。魔石は魔道具に使われたり魔法使いの魔力を上げるために使われる、貴重なアイテムだった。
ところが、倒れている魔物達にその予兆は見られない。だとすると、別の要因が絡んでいるなとギルベルトは長考する。
「人を魔物にしたものか……」
脳裏に一人、該当しそうな者を浮かべる。
エルミナと同じ七閃将の一人、カルナヴァーンは、寄生虫を人に寄生させることで魔物を増やす悪辣な将として有名だった。
人を基礎とした魔物は、死んでも魔石化しない。おそらく奴の配下だろうと気づいたギルベルトは、全軍撤退の命が正しかったのを確信した。
あれが今死体になっているのなら、エルミナが一日経たずとしてアンデッドの軍に変えて来る。否、もしくはあの倒れ伏したのもブラフかもしれない。
アンデッドはタフだ。炎や奇跡を使わない物理の攻撃では、四肢が切り落とされるまで永遠に襲ってくる厄介な敵だった。そうとなれば新たに方策を練らねばならない。
ギルベルトは赤茶髪の頭を強く掻くと、軍略会議を開くべく各所に伝令を送った。
***
――一方、ルタザール砦では、魔将の二人が情報共有の会合をしていた。
「カルナヴァーンが死んだ……!?」
信じがたいと言わんばかりの問いに、七閃将の一人、黒剣のヴァルメロが頷く。
「戦力増強を図り、兵を作りに行っていたそうだ。お前が頼んだんじゃないのか、エルミナ」
批難するような声色で告げられた言葉に、ぐっとエルミナが紅色の唇を噛み締めた。
カルナヴァーンの人を基礎とした魔物は、エルミナの死霊術と非常に相性が良かった。なにせ死んでも身体を失わず、魂も残されたままだからだ。そこからすぐにアンデッド化させれば、魔物の強さを保持したままのアンデッドを使役することが出来る。
長らく膠着状態だったトルメリア平野の戦況をひっくり返すには、カルナヴァーンの魔物がエルミナには必須だった。故に、確かにカルナヴァーンへ戦力増強を頼んだが、まさかこんな結果になるとは思わなかった。
どうして、という言葉は胸の内で飲み込んで、白銀の髪を靡かせ振り返り、褐色の肌に映える藤色の瞳で強く睨みつける。
「一体どこなの。カルナヴァーンが死んだのは」
彼女の問いに、ヴァルメロは黒鎧から覗かせる赤い単眼を不快そうに細めた。
「マルー大森林、だそうだ」
「なんですって……!」
言葉尻が震えるのを、抑えられなかった。王都の手も届かない、手つかずの原生林が広がるマルー大森林。魔道具すら満足に広がっていない僻地でカルナヴァーンが討たれたなど、エルミナにとって信じられない事実だった。
「まだ詳しい情報は何も入ってきていない。だが、カルナヴァーンの模倣生物によって生きていた魔物は皆死んだ」
「……!」
「故に、魔王様はお前の即時帰還を望まれている」
それはそうだ、とエルミナは納得した。カルナヴァーンによって補強された兵の数は、魔王軍の全兵力の五割にもなる。
個々が強くとも人間と比べて生殖能力が低い故弱点とされていた兵の人数差を埋めたのは、カルナヴァーンの力に他ならなかった。それを今、一時的に失っているのだ。元に戻すには死霊術でアンデッド化して使役しなおすしかない。
エルミナは頷き、「せめて明日まで待って頂けるか聞いて頂戴」とヴァルメロに願った。
「何故だ」
「トルメリア平野にある兵も拾っていきたいの。あれを失うのは惜しいから」
「……承知した。一日でいいのか」
「日を跨いですぐよ、丸一日もかけない。夜半には済ませるわ」
――だが、この後エルミナの死霊術は、完成する前に解かれることとなる。
――死の律による、世界規模の黄泉送りによって。