140話 『謳歌』
スピーが無事に預けられた事をフェルマンに伝えるべく、ハーデスは一人エレンツィアへと転移でとんだ。
そんな彼の帰りを待つ間の時間つぶしに、十兵衛はアイルークや再会したオル村長にこれまでの事を話せる範囲で語った。
スイが実は名高いオーウェン公爵の娘であったこと、リンドブルムで凄い魔法使い達の劇を見たこと、そして再び七閃将とエレンツィアで相対したこと――。その上で、オルは十兵衛の格好を上から下まで眺めて納得したように嘆息した。
「なるほど。それで十兵衛殿はそのお召し物を着てらっしゃるわけですな」
「あぁ、アレンの贈り物で……あっ」
言いかけた所で、はっと十兵衛は口を閉じた。
オルは、ぼろぼろの衣服しか持っていなかった十兵衛にブラックレザー装備の一式を贈ってくれた恩人だった。その恩人の前で、例えアレンからとはいえ他の人から貰った服をおいそれと自慢出来るはずもない。
「いやっ、その、すまない! オル殿に貰った装備は、ヴァルメロに大穴をあけられてだな!」
「は?」
「ハーデスに直して貰おうと思っていたんだが、その前にアレンにこの着物を貰ったのでつい後回しになってしまって」
「へっ!? うちの子にそんな魔道具の装備買える程の金なんて持たせてないよ!?」
「えっ!?」
オルとアイルークと十兵衛の間に、混乱と疑問から一瞬沈黙が降りる。
先んじて我を取り戻したアイルークが「情報を整理しましょうか」と宥め、会話を取り仕切ることになった。
諸々の議論の結果、「ブラックレザー装備でエルミナやヴァルメロに挑んだ十兵衛がおかしい」という結論に至った。
アイルークとオルからドン引きされた十兵衛は、「何故だ!?」と混乱しつつ慌てて言い訳を述べる。
「だ、だってカルナヴァーンの時もあの装備でいったじゃないか! 何がおかしいんだ!?」
「いや、あれはただ十兵衛殿の衣服がぼろぼろだったから渡しただけですぞ! 人から魔物に変えられた彼ら相手ならともかく、カルナヴァーン相手にブラックレザー装備で戦うのも本来は非常識で……!」
「そうそう。赤狼騎士団の名がさっき出てたけど、あの騎士達が着ている赤鎧は全部魔石やアダマンタイトみたいな高価な鉱石を使って作られたと聞くし……。強大な魔物を相手にするなら、普通はそれぐらいの準備をしてようやく挑むものなんだよ」
「し、知らなかった……」
ガラドルフが側にいたとはいえ、よく生きていたなとアイルークとオルが溜息を吐く。今着ているアレンからの贈り物は何某かの魔法が織り込まれたものではなく、普通の何の変哲もない絹の着物という話を聞き、それで遠出もどうなんだと乾いた笑いを零した。
「魔法使いならともかく、十兵衛さんは剣士だろう? しっかりした装備は大事だよ」
「リンドブルムに一度戻られるのでしょう? でしたらスイ様にお伺いしてみては。街一番の鍛冶屋や魔道具屋など、きっとご存じですよ」
「あぁ、わかった」
とはいえ果たしてアイルークやオルが思うような装備を自分が買うかと言われると、「無理だろうなぁ」と十兵衛は思う。
――魔石を使わない。そうハーデスと共に約束している十兵衛は、魔道具を使うこともましてや作成することもしないと決めていた。装備についても同様だ。
良い鉱石を使って防具を仕立てて貰うのは賛成だが、それ以上は求められないなとぼんやりと考えた。そもそも、そんな大層な装備がなくとも十兵衛には次元優位がある。
重力魔法は防げないが、究極【すっぽんぽんの自分】がこの世で最強かつ最硬度の存在になるのだ――と、そこまで考えた所で十兵衛の脳裏に可憐に笑うスイの顔が浮かんだ。
――装備、買おう。
スイの眼前で全裸で戦う自分を想像した瞬間、防具の重要性が心から身に染みたのだった。
***
戻ってきたハーデスと合流した十兵衛が、スピーに再会の約束を交わすと共にぎゅっと抱きしめる。
細い身体がこれからは一層健康的に育つよう、彼の行く先々に幸いが溢れるよう祈り、言祝いだ。
「どうか元気でな、スピー。これから日々迎えていく明日が善きものであるよう、ずっと祈ってる」
「また近い内に、十兵衛とスイと共に会いに来よう」
「はい、ありがとうございますハーデス様、十兵衛様!」
顔を綻ばせるスピーに笑いかけ、十兵衛が身体を離して立ち上がる。ハーデスの転移に共に発てるよう歩み寄りかけた、その時だ。
十兵衛の着物の袖下を、小さな手がそっと引いていた。言い残したことがあるのだろうかと振り返り視線を合わせれば、緑色の大きな瞳で、じっとスピーが十兵衛の目を見つめる。
「……祈っても、いいですか」
「スピー……?」
「僕も、十兵衛様の今日を越えた明日が、より善いものであるように祈っても、いいでしょうか」
――言葉を、失った。
喉がカッと熱くなり、目の奥に引き絞られるような痛みを感じる。開きかけた口から音が漏れる事はなく、細い吐息だけが抜けるように零れた。
答えをすぐには出せなくて固まってしまった十兵衛の後ろから、ハーデスがゆっくりと近づく。
二人の側にしゃがみ込み、袖を引くスピーの手をとった。
「スピーは、十兵衛に善き生を生きて欲しいんだな」
「……本当は、そうです。でも……」
それを望む事が十兵衛のためになるか、スピーには分からない。だから、今日を越えた明日だけでもと願い、慮るスピーを、ハーデスが優しく撫でた。
「奇遇だな。私もだ」
「ハーデス様……」
「善き生になるよう、その生の謳歌を祈ってる。十兵衛だけじゃない、スピーも、ここにいるカルド村の皆にもだ」
「僕にも……」
「息災でな、スピー。新たな歩みの全てに、たくさんの楽しみがありますように」
指を鳴らし、転移した先はリンドブルムではなかった。最初にこの星に来た時十兵衛と共に訪れた、マルー大森林の中にある大きな湖の前だ。
言葉を失ったまま俯く十兵衛の前に、ハーデスが立つ。語りかけるように出された声色は、静かに諭すようなものだった。
「十兵衛。他者からの祈りや願いを、与えられた責務と捉えるな」
「……ハーデス……」
「すべては、お前を思う故のこと。ハイリオーレは魂の装いだ。まだ、魂に変じていない」
ゆっくりと顔を上げたその先で、紅の双眸がまっすぐに黒曜の瞳を射抜く。
「どう生きるかも、運命も、己でしか変えられない」
「…………」
「ハイリオーレの輝きを得たその先で、己がどんな己になりたいか。それに変じるための力を、お前を思う者達の心が後押しする。……だから、十兵衛」
「――歩め。迷いも惑いも、そのままに」
はっと、息を呑んだ。湖畔から吹き込む冷たい風が、新緑の葉を巻き上げて二人の間を通り抜ける。
「求められたからといって、すぐに誰かが思うお前になんてならなくていい。お前がなりたいお前になれ」
「俺がなりたい、俺に……」
「まぁ、切腹で果てるという侍の選択を奪った私が言うのも、なんだがな」
「……はは、」
小さな笑い声を上げて、十兵衛は穏やかな表情で目を細めた。
生きていて良かったと。善き生を生きて欲しいと願われた。生きていたから知れたことがあって、その機会を授けられたことに感謝をする自分もいた。
――ただ、侍として死なねばと思う心と、思いに応えて生きねばという心の二律背反に、未だ答えは出ない。
それでも、いつか出すその答えを積み重ねられたハイリオーレが後押しする。そうして魂の核となし、次元を超えていくのだ。全ての命が、幾度も幾度も、輪廻転生を繰り返してきたように。
他者の思いに沿わせてくれれば楽なのに、安易にそうさせない【死の律】の厳しさに笑った。だが、厚意に流されるまま迎合せずとも良いと、正してくれたのが嬉しかった。
「いつか、全ての約束を果たしたその先で。俺があっさり切腹を選んだら……お前、泣きそうだな」
あるかもしれない未来に思いを馳せ、からかうように言ってみせた十兵衛に、ハーデスは肩を竦める。
「それはない。命の限り実によく生きたと、ちゃんと送るとも」
「切腹で終わらせた生でも?」
「そうだ。それがお前の出した答えなら、私は必ず肯定する。どんな死に方をしたとて、生きた証はなくならないと言っただろう?」
「……あぁ」
「生きたから【死】があるんだ。奇跡が重なり繋がった命のその果てを、私は必ず讃えよう。命の限り、実によく生きた、と」
これまでに見た事も無い程神聖で、美しく微笑んだハーデスに十兵衛は目を瞠った。
ハーデスは、どんな生でも、どんな死に方でも肯定する。美しく笑って目を細め、讃えるように手を打ち送るのだ。
――その見送りを受けることに、恥を覚えない生き方とはなんだろうと、ふとそんなことを十兵衛は思った。
全てを肯定され、優しく送り出されるその時。胸を張って駆け出せるような、そんな生き方があるのだろうか、と。
肯定されるならどんなものでもいいはずなのに、見栄を張りたいような、なにくそと奮起してみせたいような、むず痒い気持ちが胸に浮かぶ。
それと同時に浮かんだ一つの言葉が、この先ずっと、十兵衛の頭から離れる事は無かった。