130話 バブイルの塔
――黒い塔だ。
百ミールはくだらない荘厳たるバブイルの塔は、魔石の色合いを彷彿とさせる黒と紫で統一されており、方々から飛び出ている棘のような装飾は地上から頂上へ向かってぐるりと螺旋を描くように生えている。
禍々しささえ感じるバブイルの塔だったが、側に来た事で見え、意外に感じたのはその棘の先に草や花が育っていたことだ。
「土が乗ってるからかな。あそこ、花が咲いてるよ。バブイルの塔が地面から生えたっておとぎ話は本当だったんだ」
下からハーデスと同様に見上げていたアレンが、花の咲く棘の先を指さしてそう告げる。
それを肯定するように頷いたギルベルトが、「もはやどれぐらい昔の事だったか、判別はつかないが」と語り始めた。
「バブイルの塔が世界各地に姿を現したのは、二千年とも、五万年とも……もっと遥か昔の一億年前とも言われている。古代の手がかりを示す文献に、必ずその名が登場するんだ」
「名称もずっとバブイルの塔なのか」
「おそらく。というより、直接知らされる。塔に入り、祝福を賜る事の出来た魔法使い達に」
「星の声が、そう告げるんだ」
「スイ殿は行かなくて良かったのか?」
細々と書類仕事を片付けるスイに、ふかふかのベッドに横たわっていた十兵衛がおそるおそる尋ねた。
ハーデスの時間魔法によってもとの街の姿へと戻ったエレンツィアは、まるでかの日の戦いなど無かったかのように平穏な日常を取り戻していた。
だが、確かに失ったものはある。スイが記載を続ける亡くなった患者のカルテもそうだ。
ギルベルトが渡してくれた身元証明書の名と情報を正しく記しながら死亡診断書を作成していたスイは、十兵衛の言葉に顔を上げるとにこりと微笑んだ。
「大丈夫です。何よりまだここに患者さんがいますし!」
「いや、だが見てみたかったと言っていたじゃないか。ここにはガラドルフもいるし別に……」
リンドブルムのパムレで劇を見た後の事だ。バブイルの塔について興味を持ったハーデスに、スイは観光程度でも見せて貰えるかもしれないと同行を期待していたのだ。
それを思い出して口にした十兵衛だったが、厚意とは裏腹にスイが怖い顔をして睨んできた事にびくりと身を震わせる。
「なんですか。十兵衛さんは私の看病では不満ですか?」
「そんなことはない!」
「じゃあいいじゃないですか。そもそもエレンツィアはリンドブルムのお隣なんですから、バブイルの塔なんて行こうと思えばいつだって行けます。私は神官としての仕事を優先したい、ただそれだけですよ」
書類仕事に目途がついたのか、テーブルの上の紙束を整えたスイは、そのまま十兵衛のいるベッドへと近寄った。掛け布団から出ている手を取り指先を揉みしだくように触り、体温を確かめるように掌を握って、手首で脈を測ってから腕へと触診を続ける。
「脈もほぼ正常……体温も戻ってますね。末端の冷えはまだあるようですから、ついでに手と足のマッサージを行いま……十兵衛さん?」
スイは目を丸くした。十兵衛の顔が首から耳の先まで真っ赤になっていたからだ。
「あれっ? 冷えのぼせ? おかしいですね、増血薬は効いてるはずなのに……。先に足のマッサージからしましょうか」
「いやっ、違っ……! が、ガラドルフー!」
「分かった分かった」
部屋の隅で武具の手入れをしていたガラドルフは、十兵衛の悲痛な叫びに笑いながら歩み寄った。
必要なこととはいえ、スイの看病は十兵衛にとってなかなかに大胆すぎるものらしい。ストレッチが必要だからと十兵衛の足を取って大開脚をさせたり、冷えてしまった末端への血流をよくするために嫋やかな白い手で指先から脇の方まで入念にマッサージを施したり。そうした医療従事者として当たり前の作業が、十兵衛にとっては羞恥の極みの連続だったのだ。
真面目に看病してくれているスイに嫌と言えるはずもなく、かといって恥ずかしさの限界を迎えた十兵衛は「筋肉があるから、ガラドルフくらいの力加減が好みなんだ!」と言い張って、ことマッサージについてはガラドルフに頼むことにしていたのだった。
「もー。私だって十分マッサージやるくらいの力はあるんですよ?」
強制的に交代させられたスイが、頬を膨らませて文句を言う。「そりゃ分かっとる」と宥めるように言いながら、ガラドルフは笑った。
「だが、十兵衛の所ではお嬢は姫みたいな立場の者なんだろう? そんな相手にあれこれやられたら戸惑うだろう。まぁ実際姫でも間違いじゃないが」
「姫じゃなくて神官です! そもそも私達、お友達じゃないですか!」
「それはそうなんだが、あの……」
「女人にああいう風に触れられるのは、慣れてなくて……」と消え入りそうな声で顔を手で覆いながら十兵衛が白状する。
その言葉の意図する所に気が付いたスイが、ようやく己の所業のあれこれを思い返し、同様に顔を真っ赤にした。
「すいっ、すいませっ……! い、医療行為なので! そのっ」とあたふたと言うスイに、「い、いやっ俺の方こそ、け、けいけん不足ですまないっ」と十兵衛が訳の分からない返しをする。
初々しいんだか大胆なんだか分からない二人の有り様に大笑いしたガラドルフは、ヒィヒィと苦しそうに息をしながら、笑いすぎて滲んだ涙を拭った。
「なるほどなるほど。十兵衛のいた侍の国ではそうなのだな」
「あ、あぁ……あっ」
「あっ」
――侍の国。明確にそう告げたガラドルフに、スイと十兵衛が息を呑む。
そんな二人に目を細めたガラドルフは、「無理にとは言わんが」と苦笑する。
「ハーデスの絶大な魔法、十兵衛の次元の違う剣技。そして――時の律と称された少年」
「…………」
「出来る範囲でいい、教えてくれんか。お前達より、遥かに長生きの我が輩が知らない話のことを」
***
アレンのバブイルの塔における儀式には、ハーデスとリン、ギルベルトの三人が着いてきていた。
傷は治ったとはいえまだ本調子ではない十兵衛の看病にスイが付き添い、十兵衛本人の強い要望でガラドルフも宿に残った形だ。
バブイルの塔に隣接して立っている魔法学校は、今は閉鎖されている。本来は塔そのものもそうだった。
時間魔法で元に戻ったとはいえ、果たしてそれが本当に綺麗さっぱり戻っているのかは本人でないと分からない。そのため、エレンツィアでは民達が確認作業に奔走しており、バブイルの塔での儀式も一時中止となっていたのだが、無理を言って開いて貰ったのだ。
責任者として塔の管理を任されている男が着いてきていたが、それも途中までだった。ハーデスの調査があるからだ。観光がてらとかつてスイは言っていたが、ハーデスはここに来たら転移で深部に侵入してでも調査をしようと思っていた。
だが、それをする前に協力を申し出た男がいた。――ギルベルト・アンバーである。
アレンの儀式に付き添いたいと告げたハーデスに、ギルベルトが同行を願い出た。リンの同行も指名した上でだ。
「俺はこれでも、魔法使いとしても魔剣士としても歴は長い。その俺が見ても、リンもハーデスも異常だ」
「…………」
「今回の戦いで、竜の魔法というものを俺は生まれて初めて見た。威力も規模もけた違いすぎる。そもそもリンは、バブイルの塔で星の祝福を受けたのか?」
「……いいや」
「だとしたらなおさら気になるな。何故魔法を賜るために、人が深淵を覗く必要があるのかを」
「それから、」とギルベルトはハーデスに向き直り、意地悪く笑う。
「魔法使いは、二度深淵を覗かない。覚えておけ」
「何……?」
「魔法を賜る事が出来る場というのは、すなわち奪われる場でもあるのだと俺達魔法使いは思っている。だから、普通の魔法使いはバブイルの塔は人生で一度しか入らない」
「…………」
「聞いていたのが俺で良かったなぁ、ハーデス君?」
うかつな発言に釘を差してきたギルベルトに、ハーデスは苦々しく思いながら「お前だって二度深淵を覗く事になるが」と返したが、暖簾に腕押しだった。「つまり俺も普通じゃないってことだな」と嬉しそうに言い放って今に至る。
かくして、ギルベルト・アンバー直々の調査という名目でバブイルの塔は開かれた。
ギルベルトの手によって、大地から斜めに建っている塔の扉がゆっくりと押し開けられる。
後ろに控えていたアレン、リン、そしてハーデスの三人は、その先に広がる広大な空間に思わず目を瞠った。
「言われる側だったが……ま、これも良い機会だ。俺が諳んじてみせようか」
完全に扉を開き切ったギルベルトが、三人に振り向いて恭しく礼をする。
「ようこそ。星の叡智を夢見て訪れた、魔導を望みし者達よ」
「行くがいい、そして覗くがいい。果て無き深淵のその先で、星の祝福を賜るために」
「今ここに、魔導の道は開かれた」