122話 届かない言葉
「零。庭を見せてくれないか」
兄である千代からのお願いに、零はすぐには頷けなかった。
春先の風は日差しのある昼でもまだ冷たい。いくら暖かな夜着にもぐっているとはいえ、身体の弱い兄に冷たい風を浴びせるのを承服しかねたのだ。
黙り込んでしまった零に、千代は苦笑しながら「少しだけ。お願いだよ」と頼み込む。こうなると兄が絶対に引かないと分かっていた零は、「本当に少しだけですよ」と溜息を吐いて、外に繋がる障子を自分の半身くらいの隙間に開けてやった。
冷たい春の風と共に、庭に生えている立派な桜の木からいくつか花びらが舞い込んでくる。濡れ縁を通り過ぎ、畳張りの部屋に入り込んだ花びらは、薄っすらと開いた隙間から庭を望む千代の手元にまでやってきた。
嬉しそうに桃色の花びらを摘まみ上げ、幼い手の平の上に置く。五枚並べて花のようにしたかったらしい。
千代が手の届く範囲には四枚しかなかったので、夜着から身を出して拾いに行こうとするのを零が慌てて止めた。
「やめてください兄上。私が母上に怒られます」
「では零、もう一枚拾っておくれよ」
「一枚と言わず何枚でも拾いますよ」
まったくこの兄上は、と言わんばかりに、零は部屋に入り込んだ桜の花びらを拾い集める。全て拾って渡してやると、千代は青白い顔をほんのりと桃色に染めて嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。やぁ、大量だ」
「どうするんです、こんなもの」
「わっとここで撒いてみようか。家の中で桜吹雪が再現できる」
「それを誰が片付けると……」
白い目で見やる零に、千代は「嘘、嘘」と慌てて言った。
「春はいいね。冬は寒いばかりだったけれど、こうしてまた外を眺める事の出来る季節がきた」
「左様ですか」
「水も温かくなっていくだろう? ……お前の手の皸も、よくなるといいのだけれど」
花びらを渡してくれた手を見て、千代が悩ましげに溜息を吐く。その思いやりをどう受け止めていいのか分からなくて、零は背中にさっと手を隠した。
双子として生まれた千代と零は、その特徴に大きく差が出た。
父に似た顔立ちで身体の弱い千代と、側女の母に似た顔立ちで健康的な零。元より男児一人だけを望んで作った子供が二人であったことに、両親はひどく動揺した。
八剣家の最後の末子を担う者として願い、生んだ子供である。子供の死亡率が高かった時代もあり、どちらかが大人になればいいという考えの元、二人は大切に育てられた。
だが、成長に伴い顔立ちの特徴が出てきた所で、扱いの差に違いが出始めた。入り婿で八剣家の現当主である父に似た千代を両親は可愛がり、篠山家の末娘である母に似た零を疎んじるようになったのだ。
「兄の生気を、お前は母の腹の中で吸い取って生まれてきたのですよ」と、零は母から散々に言われて生きてきた。そうした扱いは言葉だけに留まらず、零は千代の知らない所で両親から振るわれる苛烈な仕打ちに耐えていたのだった。
兄は優しい、と零は思う。外に出られない分、様々な読み物を与えられていた兄は、そこで知った楽しい話をたくさん零にしてくれた。
同時に、兄がいなければ、と思う事もあった。兄が腹の中で死に、自分だけが生まれれば両親の愛は自分に向けられていただろうに、と。
だから零は、兄にどういう態度を取ればいいのか分からなかった。優しくされると、優しくない事を考えている自分に反吐が出る。でも、優しくされないとそれはそれで嫌だと思ってしまう。
戸惑い俯いてしまった零に、千代は小さく嘆息してゆっくりと身を起こした。介添えをしようと手を伸ばしかけた零を止め、その頭をそっと撫でる。
「零、どうか身を大事にね」
「…………」
「僕がこうだからというわけではないよ。ただ、兄としてお前の身を案じているんだ」
虚ろな目で、零は千代を見つめる。その目を真摯に受け止めて、千代はひどく大人びた顔で笑った。
「今のお前は、真っすぐ受け止めることが難しいかもしれない。でも、覚えておいて。この世にたった一人でも、お前を大切に思う者がいることを」
「零の善き生を望む者が、ここにいるってことを。どうか、忘れないでね」
ハルという言葉を聞いたせいか、夢うつつに十兵衛は昔の事を思い出していた。
春が好きな兄は、あれから次の年を待たずに死んだ。「どうして千代が死ななければならないの。どうして貴方が生きているの!」と、兄の死体に取り縋り嘆く母からぶつけられた言葉が、今も忘れられない。だから死なねばと思っている。兄が死んだあの時から、ずっとだ。
例え八剣家の子として育てられても、役目を果たし自他ともに認められるような正しい死に方で、疾く死なねばならないと。健やかに生きるはずだった兄の命を奪って生きている罪深い己は、早く死んで地獄に向かい贖わねばならないのだ、と。
そう思っているのに、十兵衛に生を望む者がいる。ハーデスも、そして、今思い出した兄もだ。
善き生とはなんだ、と内心で自嘲した。兄の命を奪い、殿の命も守れず、城さえ失った己が一体何を望めというのか。もう嫌いになりたくないのに、生きているともっと自分を嫌いになることばかりが重なっていく。
だからこそチャドリーの選んだ道を思い、心から同意し、――十兵衛は立ち上がった。
せめてその証だけは失わせない。各々が懸命に生き、そうして得た生きた証を。紡がれたハイリオーレを失わせることを、侍の自分は許せない。
――零の善き生を望む者が、ここにいるってことを。どうか、忘れないでね。
真っ直ぐ受け止められずとも、真摯に思い、向けてくれた兄の厚意をも奪われることと同義だと思えば、奮起できる。己の感傷など、今は一切必要なかった。
「これは、ハーデスの……」
周囲に大きく張られた、湾曲した【可視化の転移門】を眺めた後、十兵衛は上空を見上げた。
夢うつつの中で、ハーデスとエルミナの会話を聞いていた。魂の合成、魂が負う苦痛、エルミナの考える救い――そして、惑星マーレの前担当官、ハイネリア・ルルの事を。
だが、と十兵衛は眉根を寄せる。記憶が正しければ、そのハイネリア・ルルはもういない。何故なら――
「上官!? じゃ、じゃああんた、いえ……貴方なら、ハル姉がどこに行ったかも知っているの!?」
思いに耽った時だ。エルミナの縋る様な声が響き渡った。
希望を見つけたかのように瞳を煌めかせ、頬が昂揚から赤く染まっている。エルミナは心からハルを慕っているのか、と十兵衛はそこで気づいた。
対してハーデスは、その問いに嘆息し、エルミナから目線を逸らす。
「ずっと探していたのよ! いよいよだって時にいなくなって心配してたんだから! ねぇ! 一体どこに」
「いない」
「……は?」
「もういない」
端的にそう告げたハーデスに、エルミナが目を見開く。同時に、十兵衛は頭からさっと血の気が下がっていくのを感じた。
「ハーデス、待て……!」
「いないって、どういうことよ」
「そのままの意味だ」
「ハーデス!」
焦ったように声を張り上げるも、十兵衛の声は転移門の結界に阻まれて届かない。
「魂の海に還したからな」
「かえ……した……?」
「ハーデス!! やめろ!!」
「分かりやすく言い換えた方がいいか?」
「私が、ハイネリア・ルルを殺したんだ」
――爆発的な魔力の波動が、エルミナを中心に広がった。【呪縛の波動】が彼女の怒りに呼応し、発動したのだ。
腕輪に宿る強大な魔力で威力も範囲も拡大したそれは、最後に残っていた帆船をまるで木くずにするかのように木端微塵に破壊し、海を大きく凹ませた。
いくら【水上歩行】の魔法が効いているとはいえ、大波が出れば足を取られる。「うわっ!」と声を上げて態勢を崩しかけた十兵衛に気づいたハーデスが、即座に指を弾いて転移させ、右腕で抱えた。
「起きたのか」
隙無くエルミナを見据えながら、ハーデスが呟く。ハーデスの腕一本で支えられながら、十兵衛は頷いた。
「ハーデス……」
「なんだ、十兵衛」
「……いや、」
「なんでもない」と十兵衛は首を振る。言いかけた言葉は、飲み込んで黙した。
エルミナが慕うハイネリア・ルル――ハルを、ハーデスが殺した。それは、不死のハルが死を望んだからだ。
何故ハルが死を望んだのか分からないハーデスと十兵衛にとって、怒り、憎悪に塗れるエルミナにかけられる言葉は無かった。
ハルが自ら死を望んだのだと言ったところで、「何故止めなかった」と言われて終わるだけだ。止められなかった上に、手をかけた張本人であるハーデスに怒りを向けるなというのが土台無理な話であった。
――だが、と十兵衛は思う。出会ったあの日、寂しげに笑い、部下の死を憂うハーデスを十兵衛は覚えている。
長い時に渡って仕えてくれた不死の部下達が自ら死を選ぶ理由を、どうしても知りたいのだと彼は言っていた。全ての次元を超越する者のくせに、小さき命の一つ一つの生の謳歌を願うハーデスが、どれほどの思いを堪えてハルを還したのか、知ってほしかった。
誤解だけれど、誤解じゃない。苦しく、悔しい思いを抱きつつ、波が落ち着き始めた海上に降ろしてくれたハーデスを十兵衛は静かに見つめる。
「ハーデス。これだけは覚えていてくれ」
「……なんだ」
「事実を告げる事が、必ずしも正しい事ではないのだと。受け取る者によっては、それが耐え難いものになるのだと」
「…………」
「相手を思い、秘めるべき事柄もあるのだと。覚えていてほしい」
その言葉に、ハーデスは戸惑うように眉尻を下げた。十兵衛の言葉の意図が分からず、「十兵衛、」と問うように口を開いた。だが、そんな悠長な会話を許さないかのようにエルミナから【呪縛の大矢】が二人に向かって飛んでくる。
「っ!」
即座に権能で打ち消したハーデスに舌打ちを零し、エルミナは射殺さんばかりの視線でハーデスを睨みつけた。
「殺すわ。殺す。絶対に貴様を殺す」
「……エルミナ、ハルは……」
「この星の全ての生きとし生ける命のために長き時に渡って尽力した彼女を殺した貴様を、私は絶対に許さない。殺し、捕え、痛覚を戻して何度も何度も殺してあげる。爪先から魚に食わせ、指先から虫に食わせ、頭から目玉を抉り舌を抜き歯を割って何度も何度も何度も殺す。百年でも千年でも万年でも、死を望んでも絶対に与えてやるものか」
彼女の怒りに大気が震え、見る間に暗雲が立ち込める。掲げた右手に紫色の光が宿り、天から降り注ぐ青白い雷撃が集中した。
「【請え、願え、讃えるがいい。価値は正しく、己の価値へ。団結する力こそが、真の『正』なり】!」
ハーデスは、息を呑んだ。彼女の右腕にある腕輪の意図する所に気づいたのだ。
エルミナは魂の合成が出来る。それはすなわち、魔石として変わってしまったハイリオーレの行く末さえ決められるに等しい。
だからこそ、彼女がやらんとすることに気が付いたハーデスは、激高した。
「やめろエルミナ!」
だが、最早止める事は叶わなかった。彼女の魔法が一足早く発動したのだ。
空を覆い尽くす紫色の光の波動はエレンツィアどころかパルメア大運河にまで大きく広がり、耳障りな叫喚と共に拡散する。
それは、魂の悲鳴だった。聞く者の耳を貫くような悲嘆の叫びが、凄まじい轟音となって響き渡った。
魔石となったハイリオーレを使って、エルミナが多くの魂に合成を施したのだ。彼らの負った痛みを思い、ハーデスは唇を戦慄かせる。
「鏖殺よ」
ぞっとするような低い声で、エルミナは宣言した。
「この戦場に在するすべてのアンデッドとレイスを、高位にまで引き上げた」
「なっ……!」
「徴兵なんて、もうどうでもいい。配下になんて死んでもするものか」
「肉体すら残さず、塵芥に変えてあげるわ」